第38話「銀の蛇の女は、王太后宮の声を借りていました」
王弟の声を使う。
その一文は、ただの脅しではなかった。
もし誰かがエルネスト殿下の声で命じれば、兵は動く。
薬庫は開く。
証人は別室へ送られる。
そして、私の記録も奪える。
「声を盗まれる前に、声を守る必要があります」
私は王弟府の一室で言った。
エルネスト殿下は静かに頷く。
「どう守る」
「声だけの命令を禁じます。必ず印章と合言葉を添える。合言葉は毎刻変えます」
ハロルドがすぐに書いた。
「王弟府、グラント卿配下、辺境砦への急使に通達します」
「辺境にも」
「はい。偽の王弟命令で写しを奪われる恐れがあります」
ニナたちのいる薬室が頭に浮かぶ。
あそこへ手を伸ばさせてはいけない。
水庭から持ち帰った声真似の台帳は、乾かすとさらに読めた。
王太后の欄には、細かな注記がある。
息を長く。
語尾を落とす。
右手の薬指を触りながら話す。
それは声ではなく、癖の記録だった。
「本物の王太后様を見ている者が書いています」
ハロルドが言った。
「王太后宮の内側の人間か」
「または、長く出入りできた者です」
私は台帳の端を見た。
香の染み。
王妃宮の甘い香ではない。
もっと乾いた、古い木の香。
「この香は、前にも嗅ぎました」
どこだったか。
記憶をたどる。
舞踏会。
婚約破棄。
セラフィナ様が泣きそうな顔で、レオンハルト殿下の袖をつかんでいた。
その後ろにいた侍女。
顔を伏せたまま、香だけが残った。
「セラフィナ様の侍女列です」
ラーニャが顔を上げた。
「銀の蛇の女か」
「断定できません。でも、王妃宮の香ではなく、セラフィナ様の周りにいた侍女の香と同じです」
エルネスト殿下が命じた。
「セラフィナ嬢の侍女を調べる」
調べは、思ったより早く進んだ。
一人、名簿にない侍女がいた。
リディア。
本名ではない。
雇用記録は三月前に差し替えられている。
推薦者欄は空白。
だが、給金を受け取った印だけが残っていた。
銀の蛇ではない。
三つの星。
「王太后宮の古い会計印です」
ハロルドの声が硬くなる。
エルネスト殿下はしばらく黙った。
「王太后様本人へ確認する」
王太后宮の謁見は、重かった。
王太后様は白い椅子に座っていた。
年老いている。
けれど、目は澄んでいた。
「星三つの印を、今もお使いですか」
エルネスト殿下が問う。
王太后様は小さく首を振った。
「十年前に返した。先王が亡くなった時に」
「では、印はどこへ」
「焼いたはずです」
焼いたはず。
また、はず。
私は一歩だけ進み出た。
「恐れながら、王太后様。最近、声を真似られた覚えはありませんか」
周囲の女官が息をのむ。
だが、王太后様は怒らなかった。
「ある」
部屋が静まった。
「三日前、私は命じていないのに、私の声で水庭を開けよと伝えた者がいた」
「誰に」
「古い女官長のイザベルに」
女官長イザベル。
王太后宮の奥で、長く声を管理してきた人物。
その名を聞いた瞬間、入口の女官が動いた。
逃げようとした。
ラーニャがすぐに押さえる。
女官の袖から、薄い面布が落ちた。
乾いた木の香。
そして、銀の蛇の刺繍。
「イザベルはどこです」
エルネスト殿下が問う。
女官は震えた。
「もう、ここには」
「どこへ行った」
答える前に、女官の口元が青くなった。
私は駆け寄り、顎を押さえた。
舌の下に、小さな薬玉。
「吐き出して!」
間に合った。
薬玉は床に転がり、黒く溶けた。
「自分で飲むための毒ではありません。口を塞ぐための薬です」
女官は泣き崩れた。
「イザベル様は、第二王子殿下の裁きの間へ」
セラフィナ様の再聴取が行われる部屋だ。
銀の蛇の女は、王太后宮の声を借りていた。
そして今度は、第二王子の婚約者の前で、誰かの口を閉じようとしていた。




