第37話「星三つの鍵は、水音のする部屋を開けました」
トマは王弟府へ運ばれた。
眠り薬は浅い。
だが、箱の中で息を潜めていた時間が長い。
私は彼の手を温めながら、少しずつ水を含ませた。
「水音がしたのですね」
トマは小さく頷いた。
「箱の外で、ずっと。ちゃぷ、ちゃぷって」
「女の声は」
「リディア様じゃない声でした」
偽名を覚えている。
小姓の耳は、宮中で生きるために鍛えられている。
「どんな声でしたか」
トマは考えた。
「お年を召した方みたいに、ゆっくり。でも、歩く音は若かったです」
年寄りの声。
若い足音。
誰かが声を変えていた。
ハロルドが帳面に書く。
「王太后宮の水庭へ続く旧控え室に、星三つの鍵穴があります」
エルネスト殿下が黒い鍵を机に置いた。
「行く」
「殿下」
私は鍵を見た。
黒く塗られた鉄。
塗りの隙間に、銀色が見える。
「この鍵にも薬が塗られています」
ラーニャが舌打ちした。
「触った」
「手を見せてください」
彼女の指先は赤くなっていた。
強い毒ではない。
だが、皮膚を荒らし、印を残す薬だ。
「鍵を持った者を後で見つけるための薬です」
エルネスト殿下の目が細くなる。
「鍵を盗まれたのではなく、追跡するつもりだったか」
「はい。相手は、鍵を使わせたいのかもしれません」
それでも行くしかない。
行かなければ、向こうの道は見えない。
私は鍵を油紙で包み、薬を落とした。
王太后宮は、王妃宮より静かだった。
人の気配が少ない。
壁には古い星の紋。
廊下の奥から、水音が聞こえる。
ちゃぷ。
ちゃぷ。
トマが箱の中で聞いた音だ。
グラント卿が低く言った。
「ここから先は、先王の時代の水庭です。公式には閉鎖」
「また公式には、ですね」
私の言葉に、誰も笑わなかった。
扉は小さかった。
星三つの彫り。
鍵穴の周りに、黒い塗り跡。
私は濡れ布を当て、銀針で少しこすった。
甘い匂い。
白眠草ではない。
声をかすれさせる薬だ。
「ここを開けた人は、しばらく声が出にくくなります」
「証言を潰すためか」
「はい」
私は鍵を布越しに差し込んだ。
古い音がした。
扉が開く。
中には水庭があった。
月明かりの入らない庭。
浅い池。
枯れた水草。
壁に沿って、細い通路。
その奥に、衣装箱を置ける広さの部屋がある。
床には新しい擦り跡。
トマの箱は、ここに運ばれた。
「紙があります」
ハロルドが机の上を指した。
濡れた紙束。
乾かせば読める。
私は一枚をそっと広げた。
人名ではない。
声の一覧。
王妃。
王太后。
第二王子。
奥医師。
王弟。
それぞれの横に、声の癖が書かれている。
「声真似の台帳です」
ラーニャが顔をしかめた。
「そんなことまで」
「蝋に声を残す道具がありました。逆もできます。声を覚え、似せる」
銀の蛇の女が残した声。
あれは本当に彼女の声だったのか。
それとも、誰かの声を借りたものか。
奥の棚に、小さな面布が並んでいた。
香を染み込ませた面布。
声を変え、顔を隠し、薬で相手の声を奪う。
黒帳の主は、人の名だけでなく声まで盗んでいた。
エルネスト殿下が台帳を閉じた。
「これで、王太后宮の部屋が使われていたことは証明できる」
「王太后様ご本人の関与は、まだ証明できません」
私は言った。
「ですが、誰かが王太后宮の名と場所を使っています」
その時、水庭の奥で水が跳ねた。
ラーニャが走る。
暗い通路の先で、黒い影が動いた。
追う前に、池へ何かが投げ込まれる。
小さな瓶。
水が赤く濁った。
「触らないで!」
私は叫んだ。
赤い水の中で、紙片が浮いた。
文字は溶けかけている。
それでも一行だけ読めた。
「次の声は、王弟のもの」
星三つの鍵は、水音のする部屋を開けた。
そこには、人の声を奪い、別の命令に変えるための台帳が眠っていた。




