第35話「名簿の赤い印は、次に消す者を選んでいました」
名簿の赤い印は、小さかった。
けれど、そこに押された人は消される。
少なくとも、黒帳の側はそう考えている。
ミレーヌ。
ユリウス。
王妃宮の下働きが三人。
第二王子宮の小姓が一人。
国境商人町の宿の女将にも、薄い赤がついていた。
私は紙をめくる手を止めた。
「宿の女将まで」
「銀の蛇の女を見たからか」
ハロルドが言う。
「はい。名前を聞かれた者、顔を見た者、薬を運んだ者が並んでいます」
エルネスト殿下の声が冷えた。
「全員を保護する」
「王妃宮と第二王子宮に、同時に兵を入れることになります」
グラント卿が言った。
「反発は出ます」
「出させておけ」
殿下は迷わなかった。
「反発する者の名も記録する」
私は名簿の端を見た。
赤い印の横に、細い記号がある。
薬の種類ではない。
場所の記号だ。
ミレーヌの横には、銀扉。
ユリウスの横には、ルヴェ倉。
宿の女将の横には、北門。
「消す場所を決めています」
ラーニャが嫌そうに息を吐いた。
「人を荷物みたいに」
「荷物より悪いです。荷物なら数を合わせます。これは、声を消す表です」
私は自分の名を見た。
保留。
記録手として確保。
赤い印はない。
だから安全ではない。
別の使い道があるだけだ。
「リゼット」
エルネスト殿下が私を呼んだ。
「その紙から目を離せ」
「大丈夫です」
「大丈夫な顔ではない」
私は息を吸った。
言い返すより先に、指が震えていることに気づいた。
怒りではない。
怖いのだ。
自分が狙われることより、私が書いた記録が誰かを傷つける道具にされることが。
「記録は、人を守るために書いています」
声がかすれた。
「奪われたくありません」
殿下はすぐに答えなかった。
それから、机の上に自分の印章を置いた。
「なら、私の名で封じる。君の記録は君だけのものではなく、王弟府の公的記録にする。奪えば、私への攻撃になる」
ハロルドが頷く。
「写しを四つ作ります。王弟府、グラント卿、陛下、辺境砦」
「辺境にも?」
「はい」
ハロルドは静かに言った。
「黒帳は中央だけで消すと考えています。辺境に写しがあれば、消しきれません」
ニナの顔が浮かんだ。
辺境薬室の机。
震える手で時刻まで書いた彼女。
あの場所へ、写しを戻す。
それだけで、少し呼吸が楽になった。
ラーニャが隠し通路から戻ってきた。
「女は逃げた。第二王子宮の衣装倉から外へ出たらしい。ただ、落とし物がある」
彼女が差し出したのは、細い鎖だった。
銀ではない。
黒く塗られた鉄。
鎖の先に、小さな鍵。
持ち手には蛇ではなく、王冠でも薬壺でもない印。
三つの小さな星。
ハロルドの顔色が変わった。
「星三つは、王太后宮の古い印です」
王太后宮。
また、古い名前が出た。
今の王妃宮より奥。
先王の時代から残る、宮中で最も触れにくい場所。
エルネスト殿下の目が細くなる。
「黒帳の主を王太后宮に置くには、まだ証拠が足りない」
「はい」
私は鍵を布で包んだ。
「でも、銀の蛇の女はそこへ出入りできる」
断定しない。
けれど、逃がさない。
名簿の赤い印に戻る。
「まず、赤い印の人を守ります。次に、この鍵が開ける場所を探します」
グラント卿がすぐに命令を書いた。
ミレーヌを保護。
ユリウスの護衛増員。
国境商人町の宿の女将を王弟府名で保護。
王妃宮と第二王子宮の赤印対象を別室へ移す。
命令が紙になっていく。
紙は、人を消すためにも使われる。
でも、人を守るためにも使える。
私はそのことを忘れたくなかった。
夕方、陛下へ報告が上がった。
陛下は黒帳の分冊を見て、長く黙った。
「私の近くで、これほどの道が作られていたか」
エルネスト殿下が頭を下げる。
「まだ主の名はありません」
「名がなくとも、道はある」
陛下は私を見た。
「リゼット・アルヴェーン。そなたの記録を王命で保護する」
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は要らぬ。守らねばならぬのはこちらだ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
だが、安心するには早い。
夜になり、辺境砦へ送る写しを封じていると、ハロルドが急ぎ足で入ってきた。
「殿下。赤印の一人、第二王子宮の小姓が消えました」
エルネスト殿下が立ち上がる。
「いつ」
「保護命令が届く直前です。部屋には、これが」
ハロルドが差し出した紙片には、短い文があった。
「星の鍵を返せ。さもなくば、次は記録手」
私の名は書かれていない。
それでも、誰のことか分かる。
名簿の赤い印は、次に消す者を選んでいた。
そして黒帳の側は、私を記録手として名指しし始めていた。




