第34話「銀の蛇の扉は、王妃宮の奥で開いていました」
王都へ戻る道で、私は眠れなかった。
馬車の揺れ。
革鞄の中の黒瓶。
ヴァレリオの証言。
オルガ様へ薬を渡したのは私だ。
その言葉が、耳から離れない。
「休め」
向かいのエルネスト殿下が言った。
「眠れません」
「なら、目を閉じるだけでいい」
私は筆を置いた。
今は書けば、怒りで字が荒れる。
記録は怒りを残す場所ではない。
怒りを、証拠に変える場所だ。
王都へ着くと、グラント卿が待っていた。
「奥侍従長オスカー、鍵番ベルトラン、宮廷薬師モーリス、セラフィナ嬢は別々に聴取中です」
「銀の蛇の扉は」
エルネスト殿下が問う。
グラント卿の顔が険しくなる。
「記録上は、王妃宮の旧私室。先王妃崩御後に封鎖されています」
「今は」
「封鎖札は残っています。ですが、札が新しすぎます」
新しすぎる封鎖札。
古すぎる戦時補給鍵。
この陰謀は、古いものと新しいものを都合よく混ぜる。
王妃宮へ入ると、香が強かった。
いつもの甘い香。
だが、今は白眠草の気配が混ざっている。
「この香を止めてください」
私は入口で言った。
案内の女官が戸惑う。
「王妃様のお好みで」
「薬が混ざっています。体調を崩す方が出ます」
女官は顔色を変えた。
エルネスト殿下が短く命じる。
「止めろ」
王妃宮の奥は、表の華やかさと違って冷えていた。
白い壁。
古い絵。
使われていないはずの廊下。
ハロルドが封鎖札を見た。
「紙は一年前のものです。封蝋は昨日か一昨日」
「封鎖しているように見せて、開け直しています」
私は扉の下を見る。
埃が切れている。
人が通った跡だ。
ラーニャが腰を落とし、鍵穴を覗く。
「中に誰かいる」
部屋の中から、かすかな音がした。
布を引く音。
紙を束ねる音。
逃げる準備だ。
エルネスト殿下が扉に手をかける。
「開ける」
「待ってください」
私は扉の銀細工を見た。
蛇が輪になっている。
指輪と同じ形。
ただし、尾の先に小さな穴があった。
「鍵穴ではありません。薬を入れる穴です」
「薬を?」
「開けようとした人の手に、粉が落ちる仕掛けかもしれません」
私は濡れ布を蛇の口へ当て、銀針で細工を押した。
中で、何かが落ちる。
白い粉が布に吸い取られた。
旧砦跡の眠り粉と同じ匂い。
「同じ罠です」
ラーニャが低く言った。
「本当に扉まで人を信じてない」
「信じない人ほど、同じ仕掛けを使います」
扉を開けると、古い私室の中に女が一人いた。
銀の蛇の女ではない。
若い女官。
顔は青ざめ、手には紙束。
ラーニャが逃げ道を塞ぐ。
女官は泣きそうな声で言った。
「私は、片づけを命じられただけです」
「誰に」
「リディア様に」
偽名。
だが、同じ名だ。
部屋の奥には、小さな扉があった。
銀の蛇の扉。
その向こうは、狭い通路だった。
王妃宮の奥から、第二王子宮の古い衣装倉へ抜ける道。
ハロルドが息をのむ。
「王妃宮にも第二王子宮にも命じる、ではなく、両方へ出入りできる」
黒帳の主そのものかは分からない。
でも、道は見えた。
私は女官の手元の紙束を見た。
燃やされる前の記録。
その一枚に、見覚えのある名前があった。
ミレーヌ。
銀の扉で手を焼いた女官。
「これは何ですか」
女官は震えた。
「口を滑らせた者の名簿です」
部屋が静まり返る。
「処分の名簿か」
エルネスト殿下の声が低い。
女官は泣きながら首を振った。
「私は知りません。ただ、赤い印の者は奥へ送ると」
赤い印。
紙の端に、小さな赤点。
ミレーヌの名の横にもある。
ユリウスの名もあった。
そして、別の紙に。
リゼット・アルヴェーン。
赤い印は、まだ押されていない。
代わりに、横に黒い文字がある。
「保留。記録手として確保」
胸が冷えた。
銀の蛇の女の声と同じだ。
主が、私の記録を書く手を欲しがっている。
「殿下」
ハロルドが奥の机を指した。
机の引き出しに、小さな黒帳があった。
本体ではない。
分冊だ。
表紙に、銀の蛇。
中には人名と印。
王妃宮。
第二王子宮。
奥薬庫。
国境商人町。
それぞれの端に、同じ記号があった。
「これは、命令経路の控えです」
私は震える指を押さえた。
黒帳の主の名はない。
だが、主へ届く道がある。
その時、隠し通路の奥で足音がした。
ラーニャが走る。
「いた!」
黒い旅装の影が、第二王子宮側へ抜ける。
銀の蛇の女だ。
エルネスト殿下が命じる。
「通路を封鎖。証拠を動かすな」
追いたい。
だが、ここには名簿がある。
ミレーヌ。
ユリウス。
私。
次に黙らされる人の名前がある。
銀の蛇の扉は、王妃宮の奥で開いていた。
その扉の中には、黒帳の主へ差し出される人の名が並んでいた。




