第32話「銀の蛇の女は、名前より先に声を残しました」
旧砦跡に残った匂いは、なかなか消えなかった。
銀花石。
白眠草。
苦殻。
そして、皮膚から眠りを呼ぶ甘い粉。
私は兵たちの目を洗い、喉を冷やした。
重い症状はない。
ただ、近くにいた一人が膝をついた。
「眠い、です」
「横にしないで。背を起こして」
私は彼の首筋を見た。
汗が少ない。
脈は遅い。
粉を吸っただけでなく、首元に付いている。
「粉が皮膚から入っています」
ニナがいれば、布を三枚持ってきてくれただろう。
私は自分で布を裂いた。
「水。冷たいものを」
ハロルドがすぐに水袋を渡す。
私は皮膚をこすらず、押し当てるように拭いた。
こすれば薬が広がる。
拭き取りすぎても肌を傷つける。
兵のまぶたが震えた。
「眠るな、声を聞いて」
エルネスト殿下が膝をついた。
「名は」
「テオ、です」
「テオ。砦に戻ったら、お前の報告を聞く。今ここで眠るな」
命令ではなく、引き戻す声だった。
兵の目に少し力が戻る。
私は小さく息を吐いた。
「助かります」
「君が言うまで安心しない」
殿下はそう答え、ヴァレリオへ視線を移した。
奥医師は縛られていた。
顔は灰のように白い。
「私は知らなかった」
何度目かの言葉だった。
「何を知らなかったのですか」
私が聞くと、ヴァレリオは口を閉じた。
知らなかった、だけでは記録にならない。
「黒瓶を渡す相手の名を?」
「知らない」
「銀の蛇の女の立場を?」
「知らない」
「二つ目の薬箱に眠り粉が入っていたことを?」
ヴァレリオの喉が動いた。
「それは、私が」
「あなたが入れた」
私は言った。
「では、誰を眠らせるつもりでしたか」
沈黙。
ラーニャが戻ってきた。
手には黒い布切れがある。
「逃げられた。だが、鞍に引っかかった」
布には香の匂いがついていた。
王妃宮で使うものに似ている。
ただし、少し違う。
「王妃宮の香に、白眠草を混ぜています」
ハロルドが眉を寄せる。
「王妃宮の者か」
「断定できません。王妃宮の香を使える者か、使わせたい者です」
私は布を紙に包んだ。
その時、砦跡の奥で小さな音がした。
石の隙間から、細い銅管が転がり出る。
ラーニャが剣を向けた。
「何だ」
私は手を出して止めた。
「触らないでください」
銅管の口に、黒い蝋がついている。
声を遠くへ通す伝声管だ。
旧砦の見張り台で使われていたものだろう。
だが、蝋は新しい。
「さっきの女が、ここへ声を残しているかもしれません」
エルネスト殿下が目を細める。
「声を残す?」
「薄い蝋に声の震えを刻む道具があります。宮中の音楽師が調律に使うものです」
ハロルドが驚いた顔をした。
「そんなものまで薬師が扱うのですか」
「薬湯の沸き具合を見るために、似た道具を使います。音で泡の大きさを聞くのです」
私は銅管を布で固定し、先についた蝋を外した。
細い筋が刻まれている。
そのままでは聞けない。
けれど、針と薄い膜があれば、震えを戻せる。
「宿へ戻れば試せます」
ヴァレリオが顔を上げた。
「やめろ」
「なぜです」
「声は、名より危ない」
その言葉で、彼が知っていると分かった。
私たちは国境商人町の宿へ戻った。
女将は旧砦跡の騒ぎを聞き、顔を青くした。
「あの奥様、やっぱり悪い方だったんですか」
「名は聞きましたか」
「名は、リディア様と」
リディア。
ありふれた名だ。
偽名でもおかしくない。
私は部屋の机に銅管の蝋を置いた。
針。
薄い羊皮紙。
小さな箱。
音を戻すには足りないものばかりだ。
それでも、できる。
薬を作る時も同じだ。
理想の道具がないなら、あるもので近づける。
ハロルドが灯りを押さえ、ラーニャが窓を見張る。
エルネスト殿下は黙って私の手元を見ていた。
私は針を蝋の筋に当てた。
ゆっくり動かす。
羊皮紙が震える。
最初はただの雑音だった。
やがて、女の声が薄く浮いた。
「先生。王弟が来たら、眠らせて」
ヴァレリオの息が止まった。
針を進める。
「殺しては駄目。殺せば、王が目を覚ます」
エルネスト殿下の表情が変わらない。
だが、手が机の端を強く押さえていた。
さらに声が続く。
「リゼット・アルヴェーンは、できれば生かして。記録を書く手は、主が欲しがっている」
私の背筋に冷たいものが走った。
私を殺さない理由。
それは救いではない。
使うためだ。
針が最後の筋をなぞる。
「銀の蛇は名ではない。扉よ」
そこで音は切れた。
部屋に、誰もすぐには声を出さなかった。
銀の蛇は女の名ではない。
扉。
ハロルドが帳面をめくる。
「銀の扉とは別か」
「おそらく」
私は蝋を見つめた。
銀の蛇の指輪。
王妃宮の香。
黒帳の返礼。
そして、扉。
女は名前より先に、声を残した。
その声は、黒帳の主が私の記録を欲しがっていると告げていた。




