第31話「旧砦跡の医師は、薬箱を二つ持っていました」
旧砦跡は、国境商人町の北にあった。
石壁は崩れ、見張り台は半分だけ残っている。
だが、道は踏まれていた。
今も使われている道だ。
「馬車一台。馬二頭」
ラーニャが膝をつき、轍を見た。
「重い荷ではない。けれど、急いでいる」
私は薬箱を抱え直した。
王の薬として持ち出された原液二瓶。
それがここで渡されるなら、相手は薬を使う気だ。
飲ませるためか。
隠すためか。
あるいは、別の誰かを黙らせるためか。
エルネスト殿下が兵へ低く命じた。
「音を立てるな。出口を押さえろ」
ハロルドは帳面を開いたまま、砦跡の入口を見ていた。
「ここは戦時補給路の北端に近い。古い鍵が流れていても不思議ではありません」
「不思議ではないことが、いくつも重なると不自然です」
私が言うと、ハロルドは静かに頷いた。
砦跡の中から、女の声が聞こえた。
「遅いわ、先生」
先生。
奥医師ヴァレリオだ。
私たちは崩れた壁の陰へ寄った。
中庭に、男が一人立っている。
灰色の外套。
細い革鞄。
年は五十を越えているだろう。
穏やかな顔だ。
だが、手だけが落ち着かない。
「王都が騒がしくなった」
男が言った。
「あなたが薬をこぼしたからではなくて?」
女の声は笑っていた。
姿は柱の陰で見えない。
「私ではない。女官が落とした」
「同じことよ。銀の扉で薬が割れた時点で、道は汚れた」
銀の扉。
やはり、この女は知っている。
ヴァレリオは革鞄を足元に置いた。
「原液は二瓶。王の薬として通した。約束の返礼を」
柱の陰から、白い手袋の手が伸びた。
左手。
薬指に、銀の蛇の指輪。
蛇が自分の尾を噛む形だった。
「返礼は、主が決めるわ」
「話が違う」
ヴァレリオの声が荒れた。
「私は王の寝所を開けた。薬湯も変えた。奥薬庫の鍵番も、奥侍従長も、私がなだめた」
「だから、生きている」
女の声は冷たかった。
私は息を止めた。
ヴァレリオは黒帳の主ではない。
使われた側だ。
ただし、罪が軽くなるわけではない。
薬で王の判断を鈍らせようとした。
それだけで十分すぎる。
「薬箱を開けて」
女が命じた。
ヴァレリオは足元の革鞄を一つ開けた。
中には黒瓶が二つ。
王宮封蝋が残っている。
私はエルネスト殿下へ視線を送った。
殿下はまだ動かない。
もう一つの鞄があるからだ。
ヴァレリオは二つ目の鞄を抱えたまま離さない。
女が笑った。
「そちらは?」
「私の薬箱だ」
「嘘ね」
白い手袋の指が、鞄の留め金に触れた。
ヴァレリオが一歩下がる。
「これは渡さない。身を守るものだ」
その瞬間、私は匂いに気づいた。
白眠草。
苦殻。
銀花石。
それに、鋭い甘さ。
舌を痺れさせる草ではない。
皮膚から入る眠り薬だ。
「殿下」
私は囁いた。
「二つ目の鞄は罠です。開けた人を眠らせる粉が入っています」
エルネスト殿下の目が細くなる。
「ラーニャ」
「分かってる」
ラーニャが低く答えた。
だが、女の方が早かった。
彼女は鞄を蹴った。
留め金が外れる。
白い粉が、砦跡の床へ広がった。
ヴァレリオが悲鳴を上げて下がる。
「吸うな!」
私は叫んだ。
兵たちが布で口を覆う。
エルネスト殿下が前へ出る。
「奥医師ヴァレリオ。王の薬を持ち出した疑いで拘束する」
ヴァレリオの顔が崩れた。
「王弟殿下……」
柱の陰から女が姿を見せた。
黒い旅装。
顔の半分を薄い面布で隠している。
けれど、目元には見覚えがあった。
宮中で見たことがある。
王妃宮の女官列。
その奥にいた、名前を呼ばれない女性。
「遅かったわね、王弟殿下」
エルネスト殿下は剣へ手をかけない。
ただ、名を問うた。
「名乗れ」
女は面布越しに笑った。
「名を持つ者だけが、命じると思っているの?」
ラーニャが走った。
女は黒瓶を一つつかみ、石壁へ投げる。
割れた瓶から、強い匂いが噴き出した。
銀花石の原液。
眠り粉。
薬の霧。
混ざれば、目と喉を焼く。
私は布を水で濡らし、近くの兵へ渡した。
「目を開けないで。水で流してください」
ラーニャは女を追った。
だが、崩れた壁の向こうに馬がいた。
女は身軽に乗り、北門の外へ抜ける。
「追うな!」
エルネスト殿下が止めた。
ラーニャが歯を食いしばる。
「なぜです」
「ここに原液が残っている。ヴァレリオもいる。証拠を捨てて追う相手ではない」
悔しい。
でも、正しい。
私は割れずに残った黒瓶を布で包んだ。
そして、二つ目の薬箱の底に目を止める。
粉で白くなった革の底。
そこに、紙が貼りついていた。
濡れた布でそっと外す。
短い文字。
「眠る王の次は、黙る王弟」
私の指が冷えた。
ヴァレリオは膝をつき、震えている。
「私は、殺す薬は作っていない」
「殺さない薬で、人は奪えます」
私の声は思ったより低かった。
旧砦跡の医師は、薬箱を二つ持っていた。
一つは王の薬。
もう一つは、王弟殿下を黙らせるための罠だった。




