第30話「国境商人町へ向かった医師は、王の薬を持ち出しました」
奥医師ヴァレリオ。
その名が出た瞬間、陛下の周囲にいた者たちの顔が変わった。
恐れではない。
驚きでもない。
言ってしまった、という顔だった。
「ヴァレリオは、父の代から宮中にいる」
国王陛下が静かに言った。
「私が幼い頃から、薬を見ている」
長く仕える者。
信頼される者。
だからこそ、扉を開けられる。
だからこそ、薬を変えられる。
私は黒瓶を封じた。
「陛下。この原液は保全します。代わりの薬湯は、今夜から中止してください」
オスカーが顔を上げる。
「急に止めれば、陛下のお眠りが」
「眠りより先に、喉と判断力を守ります」
自分でも強い言い方だと思った。
だが、引けなかった。
陛下は私を見て、少しだけ口元を緩めた。
「王に向かって、よく言う」
「薬師として申し上げています」
「なら、従おう」
オスカーが何か言おうとした。
エルネスト殿下が先に口を開く。
「奥薬庫は封鎖。鍵番ベルトランと奥侍従長オスカーは別々に聴取する」
「王弟殿下、私は陛下の」
「だからだ」
殿下の声は冷たかった。
「近い者ほど、確認する」
オスカーは黙った。
その沈黙の中で、私は奥薬庫の棚を見直した。
黒瓶のあった棚。
その奥に、細い隙間がある。
棚板が少し浮いていた。
「待ってください」
私は布を巻いた指で、棚板を持ち上げる。
下から出てきたのは、小さな革袋だった。
中には、乾いた薬材。
そして、封じられた紙。
紙には短い指示が書かれている。
「原液二瓶、北へ。王の薬として通せ」
署名はない。
だが、封蝋に押された印は、黒帳の煤印と戦時補給印が重なっていた。
二つの古い仕組みを合わせた印。
「持ち出し指示です」
ハロルドが記録する声も硬い。
「北へ、とは国境商人町か」
「おそらく」
私は革袋の匂いを確認した。
白眠草と苦殻の乾燥片。
それに、辺境では使わない高価な香草。
「これは王宮の薬材です」
ニナなら、きっと納品帳を思い出しただろう。
私は少しだけ、辺境薬室の机を思い浮かべた。
あの小さな机で、彼女が震えながら書いていた数字。
王都の奥薬庫でも、同じことが起きている。
記録が消される場所ほど、記録が必要になる。
エルネスト殿下が言った。
「国境商人町へ向かう」
陛下が彼を見る。
「すぐにか」
「ヴァレリオが薬を持ち出したなら、時間を置けば消えます」
陛下は頷いた。
「行け。だが、王都側の封鎖も必要だ」
「グラント卿に任せます」
グラント卿はすでに命令を書き始めていた。
モーリス。
セラフィナ。
オスカー。
ベルトラン。
それぞれが別の部屋へ移される。
同じ場所に置けば、言葉が合わされる。
分ければ、記録の差が出る。
王都を出る前、私は女官ミレーヌの手をもう一度見た。
赤みは引き始めている。
「痕は残りますか」
彼女が怯えた声で聞く。
「深くはありません。冷やして、油薬を薄く塗れば大丈夫です」
「ありがとうございます」
ミレーヌは頭を下げた後、迷うように口を開いた。
「あの、奥医師様は、銀の扉の奥でよく言っていました」
「何をですか」
「王は休ませておけばよい。動く王より、眠る王の方が国は乱れない、と」
背筋が冷えた。
眠る王。
それは治療の言葉ではない。
政治の言葉だ。
「誰に言っていましたか」
「奥侍従長様に。もう一人、黒い手袋の方がいたこともあります」
黒い手袋。
私はベルナ商会の白い手袋を思い出す。
左手を隠していたガスパル。
今回も、手を隠す者がいる。
「顔は」
ミレーヌは首を振った。
「見ていません。でも、指輪が銀でした。蛇が輪になる形の」
国境商人町の宿で、火付けの男を雇った銀の指輪の女。
同じ印かもしれない。
同じ人物かもしれない。
私は記録に加えた。
王都から国境商人町までは、辺境を通る旧街道より速い道がある。
だが、ヴァレリオが戦時補給の古い道を使うなら、私たちは先回りできる。
エルネスト殿下は迷わなかった。
「北辺境経由で行く」
「遠回りでは」
「遠回りに見える道を、相手も使っている」
その言葉で、黒沼の廃水車が浮かんだ。
来る理由がない場所に、理由を作る。
黒帳はそういう道を選ぶ。
私たちは王都を出た。
馬車の中で、私は奥薬庫の原液の写しを作る。
薬材名。
量。
匂い。
皮膚反応。
飲用不可。
それらを書いていると、エルネスト殿下が向かいから言った。
「休め」
「あと少しです」
「その少しを、君は何度も重ねる」
筆が止まった。
殿下の声は責めていなかった。
ただ、見ている人の声だった。
「すみません」
「謝ることではない」
殿下は窓の外を見た。
「君が記録を止めないから、助かる者がいる。だが、君が倒れれば記録も止まる」
言い返せなかった。
私は筆を置いた。
「半刻だけ休みます」
「一刻」
「半刻と少し」
殿下がわずかに目を細める。
「交渉する元気はあるらしい」
その短いやり取りで、張り詰めていた胸が少し緩んだ。
国境商人町へ着いたのは、翌日の夕暮れだった。
石畳の細い道。
宿屋。
薬材問屋。
国境税の詰所。
人の出入りが多い。
隠れるには向いている。
ラーニャが先に宿を探った。
戻ってきた顔は険しい。
「ヴァレリオらしき男が、昼に出た。北門から」
「荷は」
「小さな革鞄が二つ。片方は薬箱。もう片方は、王宮封蝋付き」
原液二瓶。
王の薬として通せ。
指示と合う。
ハロルドが宿の帳面を確認した。
「偽名です。だが筆跡は奥薬庫の鍵台帳と似ている」
「向かった先は」
ラーニャが北門の方を見る。
「旧砦跡。商人町の外れだ」
外で、鐘が鳴った。
国境の夕鐘。
その音に混じって、遠くで馬が走る音がした。
急いでいる。
誰かが、私たちより先に旧砦跡へ向かっている。
宿の女将が、ぽつりと言った。
「銀の蛇の指輪の奥様なら、さっき出ましたよ。医師様を迎えに」
銀の蛇。
とうとう、同じ印が一つにつながった。
国境商人町へ向かった医師は、王の薬を持ち出した。
そして、その薬を受け取る銀の蛇の女が、旧砦跡で待っている。




