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婚約破棄された薬師令嬢は、辺境で毒見役にされたはずが王弟殿下の命を救ってしまいました  作者: はてなるあてな


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第29話「奥薬庫の鍵は、薬師局のものではありませんでした」

こぼれた薬湯から、白い湯気が上がっていた。


黒い碗。


濡れた床。


赤く腫れた女官の手。


私は彼女の手首をつかみ、すぐに水桶へ向けた。


「水で流します。こすらないでください」


女官は震えている。


「申し訳ありません、私、拭こうとして」


「謝るのは後です。今は手を守ります」


薬湯は皮膚を焼くほど強い。


飲ませる薬ではない。


少なくとも、そのまま飲むものではない。


私は床の薬湯へ銀針を近づけた。


針先が黒ずむ。


苦殻。


白眠草。


それに、もう一つ。


「銀花石の濃縮液」


ハロルドが息をのむ。


「銀花石は中毒を起こす」


「薄めれば鎮静に使えます。でも、この濃さなら喉を荒らします」


エルネスト殿下がオスカーを見た。


「これを陛下へ?」


オスカーは表情を変えない。


「陛下はお飲みになりません。香りで眠りを整えるためのものです」


「先ほど、薬湯と言った」


「宮中ではそう呼びます」


言葉を変える。


意味をずらす。


王都で何度も見たやり方だ。


私は女官の手を冷やしながら尋ねた。


「この薬湯は誰が調合しましたか」


オスカーが答える前に、女官が小さく言った。


「奥薬庫です」


オスカーの視線が女官へ落ちる。


女官は身をすくめた。


私は彼女の前に立つ。


「名前を」


「ミレーヌです」


「ミレーヌ様。あなたは薬湯を運んだだけですね」


「はい。銀の扉の前で受け取り、寝所前の台へ置くようにと」


「誰から」


彼女の目がオスカーへ向きかけ、すぐに下がった。


「奥薬庫の鍵番です」


鍵番。


新しい扉が、また一つ開く。


エルネスト殿下が命じた。


「奥薬庫へ行く」


オスカーが立ちはだかる。


「許可できません」


「女官が負傷した。陛下の近くで危険な薬湯がこぼれた。王弟として確認する」


「奥薬庫は陛下の私物薬を扱う場所です」


「だから確認する」


短い沈黙。


その時、奥の扉が開いた。


国王陛下だった。


夜着の上に外套を羽織っている。


顔色は悪い。


だが、目は眠っていなかった。


「通せ、オスカー」


オスカーが膝をつく。


「陛下、お休みを」


「私の薬で女官が傷を負った。休んでいる場合ではない」


陛下の声は弱い。


けれど、通る。


私は深く頭を下げた。


「陛下。床の薬湯は飲用に適しません」


「そうか」


陛下は驚かなかった。


「ここ数か月、薬湯の香りが変わった。飲むと喉が痛むゆえ、飲まぬようにしていた」


「なぜ薬師局へ」


言いかけて、私は止まった。


問い詰める言い方になっていた。


陛下は少し笑った。


「なぜ言わなかった、と聞きたいか」


「失礼しました」


「よい。言わなかったのではない。言っても、薄めると返ってきた」


エルネスト殿下の顔が険しくなる。


「誰が」


陛下の視線は、オスカーへ向かなかった。


「奥薬庫だ」


奥薬庫へ向かう廊下は、王妃宮より静かだった。


白い壁。


狭い窓。


薬草の匂いがしない。


薬を扱う場所なのに、匂いがない。


それが不自然だった。


「匂いを消しています」


私は呟いた。


ハロルドが頷く。


「薬庫なら、乾燥薬草や酒精の匂いがするはずだ」


奥薬庫の扉は、銀ではなかった。


黒い木。


鍵穴の周りだけが新しい。


鍵番として現れたのは、小柄な男だった。


名をベルトランと名乗った。


目が泳いでいる。


「陛下、この時間に薬庫を開ける決まりは」


陛下が短く言う。


「開けよ」


ベルトランは鍵束を出した。


その中で、一つだけ形が違う鍵があった。


私は目を止める。


薬師局の鍵は、持ち手に草模様がある。


王妃宮の鍵は、花。


奥薬庫なら王冠か薬壺のはずだ。


だが、その鍵の持ち手には、古い軍の刻印があった。


戦時補給印。


「その鍵を見せてください」


ベルトランの手が止まる。


「これは、奥薬庫の」


「薬師局のものではありません。王宮の私物薬庫のものでもない」


エルネスト殿下が鍵を取った。


「戦時補給倉庫の鍵だ」


ハロルドが青ざめる。


「ルヴェ倉と同じ時代の鍵です」


ベルトランは汗を浮かべた。


「古いものを流用しているだけで」


「流用なら記録があります」


私は言った。


「奥薬庫の鍵台帳を見せてください」


ベルトランは答えない。


陛下が静かに命じる。


「見せよ」


奥薬庫の中は、整いすぎていた。


瓶の列。


封じられた箱。


香を入れる壺。


どれも新しく拭かれている。


ただし、棚の奥だけ埃がない。


最近、何かが動いた跡だ。


鍵台帳は机の引き出しにあった。


表紙は白い。


中は、日付と開閉者名。


私は直近三か月を見る。


毎夜。


銀扉へ薬湯。


開閉者はベルトラン。


承認者は、空白。


また空白。


「承認者がありません」


ベルトランは唇を噛む。


「奥侍従長の口頭許可です」


オスカーは静かに言った。


「陛下の体調管理は、時に急を要します」


「では、なぜ黒帳の写しに奥薬庫の検印があるのですか」


私は写しを出した。


小さな丸に三本線。


ベルトランの顔から血の気が引く。


オスカーの表情も、ほんのわずかに動いた。


「その印は、奥薬庫の確認印ではありません」


「そうですか」


私は薬庫の棚を見る。


「では、同じ印がある瓶を探しましょう」


探すまでもなかった。


棚の一番奥。


香壺の影。


小さな黒瓶の底に、同じ印があった。


私は瓶を取り出さず、まず周囲を確認した。


糸はない。


火花石もない。


でも、瓶の蓋に乾いた薬液が固まっている。


触れれば皮膚が荒れる。


私は布を巻いて瓶を取った。


中身は、床にこぼれた薬湯より濃い。


「これが原液です」


陛下の顔が険しくなる。


「何に使う」


私は答える前に、匂いを遠くから確認した。


白眠草。


苦殻。


銀花石。


それに、舌を鈍らせる草。


「飲ませ続ければ、味が分からなくなります。眠りも深くなり、判断も鈍ります」


王の寝所。


薬湯。


銀の扉。


意味が、つながり始めた。


殺すためではない。


生かしたまま、鈍らせるため。


陛下を倒すのではなく、陛下の判断を遠ざける。


その隙に、王妃宮も第二王子宮も動かす。


「誰のために作った」


エルネスト殿下が問う。


ベルトランは膝をついた。


「私は、調合していません。鍵を開けただけです」


「誰が調合した」


「奥医師様です」


奥医師。


薬師局ではない。


王妃宮でもない。


王の寝所に出入りでき、薬湯を扱える者。


オスカーが静かに目を伏せた。


その沈黙が、答えに近かった。


陛下が低く言う。


「奥医師ヴァレリオを呼べ」


ベルトランが震える。


「今は、宮中におりません」


「どこだ」


「国境商人町へ、薬材視察に」


国境商人町。


黒帳の主へ続く道が、また北へ戻った。


奥薬庫の鍵は、薬師局のものではなかった。


戦時補給の古い鍵が、王の寝所の薬を開けていた。

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