第28話「銀の扉へ届く薬湯は、王のためではありませんでした」
ユリウスは、写しを見るなり泣いた。
声を上げたわけではない。
ただ、目から涙が落ちた。
薬室の寝台の上で、彼は弱った指を紙に伸ばす。
「残っていた……」
「あなたが書いたものですか」
私は尋ねた。
ユリウスは頷いた。
「はい。黒帳の直近三か月分を、夜のうちに写しました。主の名はありません。でも、返礼先はあります」
「銀扉」
その言葉に、彼の肩が震えた。
「王の寝所へ続く控え扉です。銀の飾り金具があるから、宮中ではそう呼ばれています」
エルネスト殿下が問う。
「誰が使う」
「王の夜着、薬湯、香、寝具を運ぶ者です。表の侍従ではなく、奥の係」
「王へ薬を盛っているのか」
ユリウスはすぐには答えなかった。
怯えている。
でも、考えてもいる。
「分かりません。ただ、薬湯は王のためではないと聞きました」
「どういう意味ですか」
私は身を乗り出した。
ユリウスは唇を湿らせる。
「陛下は、苦い薬湯を好まれない。実際には半分も飲まない。残りを捨てる係がいます」
「その残りを?」
「はい。残りを受け取る者がいる」
薬湯を王へ届ける。
だが、本当の目的は王が飲むことではない。
王の寝所に入る正当な道を作り、残った薬湯を別の誰かへ渡す。
私は黒帳の写しを見た。
夜衣。
薬湯。
王寝。
返礼。
「薬湯は通行札ですね」
ハロルドが顔を上げる。
「王のための薬という名目で、銀の扉を通る」
エルネスト殿下の顔が険しい。
「陛下の周辺へ入るために、薬を使っている」
ニナが小さく言う。
「でも、残りを受け取る人は、何に使うんですか」
私は答えられなかった。
それを知るには、王都へ戻る必要がある。
ユリウスは震える声で続けた。
「残りを受け取る係の名は、帳簿にはありません。ただ、印があります」
「戦時補給印ですか」
「いいえ」
彼は紙の端を指した。
小さな丸。
中に、三本の線。
黒帳の煤印とは違う。
戦時補給印とも違う。
「これは、奥薬庫の検印です」
ハロルドが息をのむ。
「王宮の奥薬庫か」
「はい」
ユリウスは頷く。
「王族の私物薬を保管する場所です。薬師局より奥にあり、王妃宮より静かで、記録が外に出ません」
奥薬庫。
また、閉じた場所が出てきた。
でも今度は、薬の場所だ。
私が行ける理由がある。
私はエルネスト殿下を見た。
「王都へ戻ります」
「戻る」
殿下はすぐに答えた。
「ただし、君だけでは行かせない」
「分かっています」
その日のうちに準備が進んだ。
ユリウスはまだ動かせない。
だから、彼の証言はハロルドが取り、写しを三つ作る。
一つは砦。
一つは村長。
一つはエルネスト殿下の封印で王都へ。
ニナは写しの端に、小さく時刻を書いた。
「どうして時刻まで?」
私が聞くと、彼女は真剣な顔で答えた。
「同じ紙でも、いつ写したかで意味が変わると、リゼット様が言いました」
私は少しだけ笑った。
「よく覚えています」
「怖いことほど、覚えます」
その言葉に、薬室が一瞬静かになった。
怖いことを、記録に変える。
それが、この場所で身についた力だ。
王都へ戻ったのは翌朝だった。
グラント卿の屋敷に入り、まず陛下への面会を求める。
だが、返ってきた返事は予想外だった。
「陛下はご静養中。王弟殿下にも面会不可」
伝令は顔を伏せていた。
エルネスト殿下の声が冷える。
「誰の命だ」
「銀の扉付き、奥侍従長オスカー様の命です」
オスカー。
新しい名。
ユリウスの証言にあった、奥の係。
ハロルドが小さく言う。
「奥侍従長なら、陛下の寝所周りを管理できます」
「王妃宮にも第二王子宮にも?」
「命じる権限はありません。ただし、通さない権限はあります」
通さない権限。
それは、命じる力に近い。
会わせない。
届けない。
遅らせる。
王のそばでそれをすれば、誰でも動かせる。
私は薬箱を抱え直した。
「陛下の薬湯記録を見ます」
伝令が慌てた。
「それは奥薬庫の許可が」
「王弟殿下付き薬室管理官として、異物混入疑いの確認を求めます」
エルネスト殿下が続けた。
「私が保証する」
伝令は逃げるように奥へ走った。
待たされた時間は短かった。
でも、長く感じた。
やがて戻ってきたのは、銀髪の老人だった。
背筋がまっすぐで、声は穏やか。
「奥侍従長オスカーでございます」
その人は深く礼をした。
「王弟殿下。陛下はお疲れです。辺境の騒ぎを寝所へ持ち込むのはお控えください」
辺境の騒ぎ。
その言葉で、胸の奥が冷えた。
辺境で死んだ薬師も、倒れた兵も、脅された村も。
この人には騒ぎなのか。
エルネスト殿下が一歩前へ出る。
「騒ぎかどうかは、陛下が決める」
「陛下へお届けする前に、私が整えるのも務めです」
「整える名で隠すな」
オスカーの笑みは変わらない。
私は彼の袖口を見た。
銀の糸。
そして、指先に薄い黄ばみ。
薬湯を扱う人の指だ。
「奥侍従長様」
私は口を開いた。
「陛下の昨夜の薬湯は、どなたが捨てましたか」
オスカーの目が、初めて私を見た。
「薬師令嬢が聞くことではありません」
「薬師が聞くことです」
私は薬箱から紙を出した。
黒帳の写し。
銀扉。
夜衣。
薬湯。
王寝。
オスカーの目が紙の端へ落ちた。
ほんの一瞬。
でも、そこにあった。
知っている目だ。
「その紙は偽物です」
「まだ何の紙か申し上げていません」
沈黙。
エルネスト殿下が低く言った。
「道を開けろ、オスカー」
オスカーは礼をした。
「陛下の御身を守るため、できません」
その時、奥の廊下から小さな音がした。
陶器が割れる音。
続いて、女官の悲鳴。
「薬湯が!」
私は走り出していた。
銀の扉の向こう。
床に割れた碗。
こぼれた黒い薬湯。
そして、その湯を拭こうとしている若い女官の手が、赤く腫れ始めていた。
「触らないで!」
私の声に、女官が固まる。
薬湯は、王のためではなかった。
人の手を焼くほど強い薬が、銀の扉の内側でこぼれていた。




