第22話「商人の左手は、帳簿より先に嘘をつきました」
ベルナ商会の男は、よく笑う人だった。
「いやあ、王弟殿下の砦へ直接納められるとは、光栄でございます」
丸い顔。
低い腰。
左手だけ、白い手袋。
薬室の入口で、ニナが納品帳を開いた。
「お名前をお願いします」
「ベルナ商会、支配人代理のガスパルと申します」
代理。
便利な言葉だ。
責任を持っているようで、最後には逃げられる。
ニナは筆を動かす。
手は少し震えていた。
でも、字は読める。
「乾燥薄荷、三袋。保存瓶、二十本。封蝋、十二個」
「はいはい、その通りで」
ガスパルは荷を並べた。
乾燥薄荷の匂いが広がる。
悪くない。
よく乾いている。
だが、保存瓶の木箱だけ、少し重い。
「瓶を見ます」
私が言うと、ガスパルの笑みが一瞬だけ止まった。
すぐ戻る。
「もちろんでございます。辺境の薬師様は丁寧でいらっしゃる」
丁寧。
昔なら、褒め言葉だと思ったかもしれない。
今は違う。
丁寧に見られると困る人ほど、そう言う。
私は瓶を一本ずつ取り出した。
透明。
傷なし。
口の厚みも同じ。
けれど、底が違う。
一本だけ、底の影が濃い。
私は灯りへかざした。
二重底。
「この瓶だけ、作りが違います」
ガスパルが肩をすくめる。
「職人の癖でしょう」
「癖なら、他にも出ます」
ラーニャが背後で扉を塞いだ。
ハロルドは何も言わず、記録を取っている。
エルネスト殿下は薬室の奥に立ち、ガスパルから目を離さない。
私は瓶の底へ銀針を当てた。
軽く押す。
底板が外れた。
中から出たのは、小さな紙片だった。
黒い革紐で巻かれている。
ガスパルの喉が鳴った。
「何でございましょうね、それは」
「あなたの荷から出ました」
「誰かが入れたのでしょう」
「誰が」
「それは、私には」
ガスパルは笑ったまま、左手を背中へ隠した。
私はその動きを見た。
「手袋を外してください」
「薬材を汚さぬためで」
「今は薬材を触っていません」
彼は笑みを消した。
「薬師様。商人にも事情というものが」
「ありますね」
私は頷いた。
「だから、記録に残します。左手の確認を拒否、と」
ニナがすぐに書いた。
ガスパルの目がニナへ向く。
弱い相手を探す目だった。
ニナは一瞬だけ怯えた。
けれど、筆を止めなかった。
「拒否、しました」
その小さな声が、薬室に響いた。
エルネスト殿下が言う。
「手袋を外せ」
命令の声だった。
ガスパルはゆっくり手袋を外した。
左手の甲に、古い火傷の跡。
オルガ様の紙にあった通りだ。
私は紙片を開いた。
そこには、数字だけが並んでいる。
薬材名はない。
日付もない。
ただ、黒い墨で記された数字。
「帳簿ではありませんね」
ハロルドが近づく。
私は首を振る。
「帳簿の鍵です」
数字の並び。
三、七、二。
一、四、九。
「薬材棚の番号に見せています。でも、オルガ様の薬材申請控えと合わせると、月と日と荷車番号になります」
ガスパルの顔から血の気が引いた。
「何を根拠に」
「オルガ様が残した写しです」
私は別の紙を出した。
王都への申請。
却下。
再申請。
その横に、同じ数字。
「申請が却下された日に、同じ番号の荷車が薬材を積んで砦を出ています」
「偶然で」
「白眠草と苦殻も一緒に」
ガスパルは黙った。
ラーニャが一歩近づく。
「逃げるなら今だぞ。扉は私がいるけどな」
「私は何も知らない」
「知らない人は、左手を隠さない」
ニナが言った。
自分でも驚いた顔をしている。
でも、言葉は戻せない。
ガスパルは彼女を睨んだ。
「小娘が」
エルネスト殿下の声が冷えた。
「その小娘が記録係だ。言葉を選べ」
ガスパルの口が閉じる。
私は紙片の裏を見た。
煤墨が薄く塗られている。
火にかざす。
文字が浮いた。
「次納品、薬師を眠らせるな。黒帳を移す」
薬師。
私を眠らせる予定だったのだ。
保存瓶の二重底に黒帳の鍵を入れ、薬室へ運ぶ。
私が倒れれば、誰かが薬室を調べる。
混乱の中で、黒帳の写しを移す。
あるいは、こちらに罪をかぶせる。
「黒帳はどこですか」
私は尋ねた。
ガスパルは唇を噛む。
「知らない」
「なら、誰に渡す予定でしたか」
「知らない」
「この紙を誰から受け取ったのですか」
「知らない!」
叫んだ瞬間、彼の上着の内側から何かが落ちた。
小さな木札。
黒い染料が染み込んでいる。
そこに刻まれていた紋は、王都薬師局のものではなかった。
第二王子宮でもない。
山道の小祠にある、古い祈りの印。
私は木札を拾う。
裏には一文字。
「煤」
ハロルドが息をのんだ。
「煤印。闇荷の通行札だ」
「闇荷?」
「正式な税帳に載らない荷です。戦時に一度使われ、廃止されたはずの仕組みです」
廃止された仕組み。
それが今も生きている。
黒帳の主は、ただ薬を動かしているだけではない。
税と道と、古い特権まで使っている。
ガスパルは膝をついた。
「私は運んだだけだ」
「誰へ」
「小祠です。今日の夕刻、黒い帳面を持った者が来る」
「名は」
「知りません。ただ、王都の人間ではない」
私は木札を見つめた。
王都ではない。
辺境の道を知り、王都の権限を使い、薬材を奪う者。
敵は、外から来ただけではない。
この土地のどこかにも、黒帳の主へ道を開けた人間がいる。
エルネスト殿下が短く命じた。
「ガスパルを拘束。荷はすべて封印する」
ラーニャが男の腕を取る。
ガスパルはもう笑っていなかった。
ニナが納品帳に最後の行を書いた。
「二重底の瓶より、黒紐紙片、煤印木札を発見」
私はその字を見て、少しだけ息を吐いた。
これで、記録は残る。
夕刻。
私たちは小祠へ向かう。
黒帳を持った者が来る場所へ。
商人の左手は嘘をついた。
けれど、荷の中身は嘘をつけなかった。




