第23話「小祠に来たのは、村の味方でした」
山道の小祠は、風の音がよく響く場所にあった。
石の屋根。
苔のついた台座。
古い祈りの印。
昼間なら村人が通る。
夕刻なら、影が濃い。
待ち伏せには向いている。
待ち合わせにも。
「祠の裏に足跡がある」
ラーニャが低く言った。
「新しい?」
「半日以内」
私は祠の前へ進んだ。
エルネスト殿下は少し離れている。
兵も木立の陰に置いた。
相手が黒帳を持って来るなら、王弟殿下の兵を見た瞬間に逃げる。
私とニナだけが、祠のそばに立つ。
もちろん、本当に二人だけではない。
けれど、そう見せる。
ニナは薬箱を抱えていた。
「怖いです」
小さな声だった。
「私もです」
私が答えると、彼女は驚いた顔をした。
「リゼット様も?」
「怖くない薬師はいません」
私は祠の石に触れた。
冷たい。
「怖いから、量を測ります。記録を残します。勝手に信じないようにします」
ニナは少し考えて、頷いた。
「はい」
夕日が山の端に沈みかけた時、足音がした。
一人。
杖をつく音。
現れたのは、リンド村の村長だった。
白い髭。
古い外套。
腕には小さな布包み。
ニナが息をのむ。
「村長さん?」
村長は私たちを見て、目を閉じた。
「やはり、来なさったか」
ラーニャが木立から出る。
「動くな」
村長は抵抗しなかった。
ただ、布包みを胸に抱いたまま、私を見た。
「薬師様。先に申し上げます。わしは黒帳の主ではありません」
「では、その包みは」
「黒帳の写しです」
風が止まったように感じた。
村長は震える手で包みを差し出す。
「オルガ先生から預かりました。だが、全部ではない」
「なぜ今まで」
ニナの声が揺れた。
責める声ではない。
傷ついた声だった。
村長は深く頭を下げる。
「すまん。怖かった」
その言葉は、クラリスの言葉と同じだった。
怖かった。
人は何度も、その言葉の後ろに隠れる。
でも、出てくる人もいる。
私は布包みを受け取らず、まず尋ねた。
「誰に脅されましたか」
村長の肩が震える。
「名は分かりません。煤印の木札を持つ者です。王都の紙も、辺境の通行印も持っていた。逆らえば村の薬材配給を止めると」
「実際に止められた?」
「一度」
村長の顔が歪む。
「冬熱の時です。薬草が来ず、子どもが三人倒れた。オルガ先生が自分の薬を削って助けた」
オルガ様。
厳しく、遠慮がなく、患者を見捨てなかった薬師。
記録だけで知っていた人が、少しずつ輪郭を持つ。
「黒帳の写しを見せてください」
村長は布包みを開いた。
中にあったのは、帳簿ではなかった。
薄い木板が数枚。
表には村の薬材配給表。
裏には黒い墨で、別の数字。
薬材の不足分。
横流しされた量。
通行札の番号。
そして、人名。
「これは」
ハロルドが木立から出て、息をのんだ。
「辺境の補給吏の名です」
補給吏。
砦の兵糧や薬材の受け渡しを管理する役。
私は名前を読む。
「ダミアン・ロッシュ」
エルネスト殿下の顔が変わった。
「ロッシュは、父の代からいる補給吏だ」
信頼していた人の名。
それだけで、空気が重くなる。
村長はうなだれた。
「ダミアン様は、村にも顔が利きます。王都から来た荷を通すのも、砦へ入れるのも、あの方の印が要る」
「だから黒帳の主ですか」
私はすぐには頷かなかった。
「まだ、道を開けた人です」
黒帳の主かどうかは分からない。
でも、辺境側の扉を開けた人間は見えた。
ダミアン・ロッシュ。
村長は私を見た。
「オルガ先生は、ダミアン様を疑っておりました。だが証拠をそろえる前に倒れた」
「薬湯を出したのは誰ですか」
「薬室の下働きでした。今はもう、いません」
「死んだのですか」
村長は首を振った。
「王都へ戻された、と聞いております」
また王都。
また、消えた人。
私は木板を一枚ずつ確認した。
隅に小さな穴がある。
黒い革紐で綴じられていた跡。
「これが黒帳の一部ですね」
「はい。表向きは配給表。裏が本当の帳簿です」
ニナが村長を見つめる。
「どうして、今日ここへ」
村長は苦しげに笑った。
「ガスパルが捕まったと知らせが来た。今夜、黒帳の写しを移せと命じられた。だが、もう逃げられんと思った」
「誰から命じられたのですか」
村長は懐から紙を出した。
そこには、短い文。
「薬師が戻った。村長を使え。失敗すれば配給を止める」
署名はない。
ただ、封蝋に押された印があった。
補給吏ダミアンの印。
ニナの手が震えた。
「村の薬を止めるって、そんな」
「だから、止めさせません」
私は木板を包み直した。
「村長。あなたは怖かった。でも、今は持ってきた。そこは記録します」
村長の目が濡れる。
「罰は受けます」
「それを決めるのは殿下です」
私はエルネスト殿下を見た。
殿下は少しの間、村長を見つめていた。
怒っている。
当然だ。
でも、怒りだけでは村は救えない。
「村長を保護する」
殿下は言った。
「同時に、証言を取る。村への薬材配給は王弟領の直轄で確保する」
村長が膝をついた。
「ありがとうございます」
その時、山道の上から馬の音がした。
一騎。
速い。
ラーニャが剣を抜く。
駆けてきた兵は、砦の伝令だった。
「殿下! 補給吏ダミアン殿が、薬材倉庫の封鎖を命じました!」
エルネスト殿下の目が細くなる。
「理由は」
「王都からの緊急通達です。リゼット様が不正薬材を持ち込んだ疑いあり、と」
ニナが叫びそうになり、口を押さえた。
早い。
こちらが黒帳の写しに届いた途端、相手は薬材倉庫を押さえに来た。
ダミアンが道を開けた人なら。
今、証拠を消す場所は一つ。
「砦へ戻ります」
私は言った。
「薬材倉庫を見られる前に、こちらが見ます」
小祠に来たのは、村の味方だった。
けれど、その味方が持ってきた写しは、砦の中の裏切り者へ続いていた。




