第21話「黒帳は、薬室の棚にはありませんでした」
「黒帳を探す」
エルネスト殿下の言葉で、薬室の空気が変わった。
黒帳。
オルガ様の記録に残っていた、名前ではない名。
王都薬師局。
第二王子宮。
王妃宮。
辺境薬室。
その中心に、黒帳の主と書かれていた。
「帳簿なら、まず棚ですね」
ニナが緊張した声で言った。
「私、薬材棚と納品棚は毎朝見ています。隠せる場所は少ないです」
「隠すなら、見つかる場所には置かない」
ラーニャが扉のそばで腕を組む。
「でも、隠した人間がまた取りに来る場所には置く」
私は薬室を見回した。
乾燥棚。
計量台。
古い薬湯釜。
壁に並ぶ薬瓶。
ここは、私が戻ってきてから整え直した場所だ。
けれど、オルガ様が使っていた頃のまま残した場所もある。
「棚ではなく、使い続ける道具を見ます」
私はそう言い、薬湯釜の前に立った。
前任薬師が最後まで使っていた釜。
私が最初に来た時も、底に黒い焦げが残っていた。
冬熱用の薬湯を煮すぎた跡だと思っていた。
でも今は違う。
白眠草と苦殻を毎朝の薬湯に混ぜられていたなら。
オルガ様は、釜を見るたびに気づいたはずだ。
「ニナ。釜の底を外したことは?」
「ありません。古い釜で、底板は固定されています」
「固定されているように見えるだけかもしれません」
私は銀針を差し込んだ。
焦げの縁。
金具の隙間。
そこに、針がわずかに沈んだ。
「殿下」
エルネスト殿下が横に来る。
「外せるか」
「壊さずに外します」
私は釜を倒し、金具の向きを確認した。
一つだけ、留め具の色が違う。
新しく見えるのに、わざと煤を塗ってある。
「ここです」
ハロルドがすぐに記録を取る。
ラーニャが短剣の柄で軽く叩いた。
金具が動く。
底板が、薄く浮いた。
中から出てきたのは、帳簿ではなかった。
小さな布包み。
蝋で固められた紙。
そして、黒い革紐。
ニナが息をのむ。
「黒帳じゃない……?」
「黒帳そのものではありません」
私は蝋を見た。
「でも、黒い革紐は帳簿の綴じ紐です」
紙を開く。
オルガ様の字だった。
震えている。
けれど、最後まで読ませようとする字だ。
「黒帳は薬室に置かない。薬材商が持つ。月末、山道の小祠で写しを受け渡す」
山道の小祠。
辺境砦とリンド村の間にある、古い祠だ。
兵も村人も、雨宿りに使う。
人が通る。
だから不自然ではない。
「薬材商の名は」
エルネスト殿下が問う。
私は次の行を読んだ。
「表の名はベルナ商会。黒帳の持ち手は、左手に火傷」
ベルナ商会。
最近、薬材不足の中でも遅れずに荷を届けていた商会だ。
それが親切だったのか。
それとも、道を握っていたからか。
ニナの顔が青くなった。
「ベルナ商会、明日の朝に来ます」
「何を納める予定ですか」
「乾燥薄荷と、保存瓶です」
保存瓶。
中身を入れ替えやすい。
私は布包みの中を確認した。
黒い粉が少しだけ残っている。
焦げではない。
紙の裏に塗る、隠し字用の煤墨だ。
火にかざすと文字が浮く。
「オルガ様は、まだ隠しています」
私は紙を灯りから少し離し、ゆっくり温めた。
白い紙の裏に、細い文字が浮かんでくる。
「月末を待つな。私が死ねば、次は新任薬師を使う」
新任薬師。
私のことだ。
オルガ様は、私が来ることを知っていたわけではない。
それでも、次に来る薬師が狙われると分かっていた。
薬材不足。
毒。
記録横取り。
辺境薬室は、ずっと罠の中にあった。
「明日の荷を止めますか」
ハロルドが聞いた。
私は首を振った。
「止めれば、商人は来ません」
「では受け入れるのか」
「受け入れるふりをします」
エルネスト殿下が私を見た。
「危険だ」
「はい」
私は頷いた。
「でも、今度は薬室で待てます。こちらの棚も、記録も、味方もあります」
ニナが胸の前で手を握った。
「私も、やります」
「無理はさせません」
「無理ではありません」
彼女はまっすぐ私を見た。
「オルガ先生の記録を守ったのは、私だけじゃありません。村長さんも、副官さんも、みんなです。だから、私もここにいます」
その声に、少しだけオルガ様の厳しさが重なった気がした。
私は小さく頷く。
「では、納品記録をあなたが取ってください」
ニナの顔が引き締まる。
「はい」
夜が更けても、薬室の灯りは消えなかった。
私は釜の底から出た紙を封じ、写しを二つ作った。
一つはエルネスト殿下へ。
一つは村長へ。
原本は薬室の床下ではなく、砦の鐘楼へ預ける。
同じ場所に隠せば、同じ手で盗まれる。
オルガ様はそう教えてくれている。
明け方、砦の門から車輪の音が聞こえた。
ベルナ商会の荷車だ。
荷台には乾燥薄荷。
保存瓶。
そして、商人の左手には白い手袋。
私は薬箱を抱え直した。
黒帳は、薬室の棚にはなかった。
けれど、黒帳へ続く手は、向こうから薬室へ来た。




