第20話「前任薬師の死は、事故ではありません」
「北辺境、前任薬師処理済み」
その一文が、召集の間に落ちた。
誰もすぐには動かなかった。
短い紙。
薄い字。
けれど、重さは剣よりもあった。
前任薬師。
私が辺境砦へ着く前に死んだ人。
病で倒れたと聞かされていた人。
薬室の棚に、整った字を残していた人。
その死が、処理済み。
「どういう意味ですか」
自分の声が、思ったより低かった。
グラント卿が紙を受け取る。
「底板の下に隠されていました。白箱が燃えれば、一緒に消える位置です」
エルネスト殿下の表情が変わっていた。
怒りを表に出さない人だ。
けれど今は、目の奥が冷え切っている。
「前任薬師オルガ・メルダは、冬熱の悪化で死んだと報告されている」
「はい」
ハロルドの声も硬い。
「記録上は、発熱、衰弱、心停止。遺体は辺境で埋葬済みです」
「記録上は」
私は繰り返した。
その言葉の頼りなさを、今は誰より知っている。
国王陛下がグラント卿へ命じる。
「前任薬師の死亡記録を取り寄せよ」
「すぐに」
私は一歩前へ出た。
「陛下。辺境薬室の原本は、王都にはありません」
国王陛下が私を見る。
「どこにある」
「リンド村の村長の箱です。ニナが守っています」
レオンハルト殿下が鼻で笑う。
「辺境の村箱に、王宮の審査が頼るのか」
「王都の保管室に火花石が入っていたので」
口にしてから、広間が静まった。
言いすぎたかもしれない。
でも、取り消さなかった。
王妃様の口元が、わずかに動いた。
笑ったのか、怒ったのか分からない。
国王陛下は短く言った。
「辺境の原本も取り寄せる」
エルネスト殿下が頷く。
「私の早馬を出します」
「そうせよ」
その場は一度、解かれた。
モーリスは兵に連れられた。
セラフィナも、王妃宮の侍女ではなく被尋問者として別室へ移される。
レオンハルト殿下は最後まで私を睨んでいた。
でも、何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
廊下へ出た瞬間、足元が少し揺れた。
エルネスト殿下が支えてくれる。
「無理をした」
「しました」
私は否定しなかった。
「でも、倒れるほどではありません」
「倒れる前に言え」
その声が少しだけ強かった。
私は顔を上げる。
殿下は怒っている。
敵にではなく、私が自分を使い潰しそうになることに。
胸の奥が、変なふうに温かくなった。
「言います」
「今は」
「少し座りたいです」
殿下はすぐに近くの控室を開けさせた。
私は椅子に座り、薬箱を膝に置いた。
指先が冷えている。
白箱。
前任薬師。
処理済み。
言葉が頭の中で何度も回る。
「オルガ様は、どんな方でしたか」
私はハロルドに尋ねた。
彼は少し目を伏せた。
「厳しい方でした。薬材の量にうるさく、兵にも遠慮がない。ただ、患者を見捨てることはなかった」
「記録は」
「細かい。君ほどではないが、日付と症状は必ず残した」
それなら。
病で死ぬ前にも、何か残したはずだ。
「亡くなる前、薬室に異変は」
ハロルドは考える。
「薬材不足が始まった時期と重なる。オルガ殿は、王都への申請が通らないと怒っていた」
「申請控えは?」
「一部が消えていた」
消えていた。
第5話で、私たちの薬室も荒らされた。
同じだ。
同じことが、前任薬師にも起きていた。
私は立ち上がった。
「辺境へ戻りたいです」
エルネスト殿下がすぐには答えなかった。
「今戻れば、王都での証言整理が遅れる」
「分かっています。でも、前任薬師の原本は辺境です。ニナたちも狙われたばかりです」
「王都側の追及は」
「記録と証人はグラント卿に預けられます。モーリスとセラフィナは止まりました。次に相手が狙うなら、辺境の原本です」
殿下は私を見た。
しばらくして、短く頷く。
「戻る」
「よろしいのですか」
「私の領だ。私の薬師が死んだ可能性がある。私が戻らない理由はない」
その言葉で、胸の奥が締めつけられた。
私の薬師。
オルガ様も、そうだった。
私はまだ会ったことのない前任者へ、心の中で頭を下げた。
その夜、王都を出る準備が進んだ。
クラリスは王都に残る。
グラント卿の管理下で証言を続けるためだ。
別れ際、彼女は私へ小さな包みを渡した。
「これは?」
「私の筆跡練習紙です。トーマ様に渡した招待状の控えも入っています」
「大事な証拠です。グラント卿へ」
「写しは渡しました」
クラリスは少しだけ笑った。
「原本を一つだけ、あなたに預けたいのです。私はまた怖くなるかもしれないから」
それは、弱さの告白だった。
でも、逃げではなかった。
「分かりました」
私は包みを受け取る。
「戻ってきます」
「はい」
クラリスは深く礼をした。
「リゼット様。私は、あなたに許してもらうためではなく、次は自分で見たことを言います」
「それでいいと思います」
彼女の目に、少しだけ力が戻った。
王都の門を出る頃、空は暗かった。
馬車の中で、私は眠れなかった。
頭の中に、オルガ様の記録が浮かぶ。
発熱。
衰弱。
心停止。
本当に冬熱なら、周囲にも患者が出る。
薬師だけが死ぬなら、別の理由がある。
薬を扱う人間が、薬で殺される。
それほど残酷で、効率のいい口封じはない。
辺境砦に着いたのは、翌日の夕方だった。
門の上で、ニナがこちらを見つけて手を振っている。
無事だ。
その姿を見た瞬間、胸の奥がほどけた。
馬車が止まる前に、ニナは駆け寄ってきた。
「リゼット様!」
「ニナ」
抱きつかれそうになって、彼女は途中で止まった。
薬箱を見て、少し照れた顔をする。
「薬室、守りました」
「聞きました」
私は笑った。
「本当によくやってくれました」
ニナの目に涙が浮かぶ。
でも、すぐに袖で拭った。
「それで、あの、リンド村の村長さんから箱を預かっています。前任のオルガ先生の記録も入っていて」
「今すぐ見ます」
薬室へ向かう。
懐かしい匂いがした。
乾燥薄荷。
保存薬。
砦の石壁。
王都よりずっと粗末で、ずっと息がしやすい。
机の上に、木箱が置かれていた。
村長の封印。
ニナの封印。
副官の封印。
三つとも無事。
私は順に確認し、開けた。
中には帳面が三冊。
オルガ・メルダの字。
細く、硬い。
日付順に、薬材申請の控えが並ぶ。
王都への申請。
不達。
再申請。
却下。
代替薬材の使用。
兵の慢性症状。
そして最後の数頁。
私はそこで手を止めた。
「殿下」
エルネスト殿下が横へ来る。
最後の頁には、震える字で書かれていた。
「私の熱は冬熱ではない。舌に甘苦い膜。白眠草と苦殻。杯ではなく、毎朝の薬湯に混じる」
第1話で、殿下の薬湯に残っていた微量毒。
あれと同じだ。
前任薬師は、自分が少しずつ毒を飲まされていると気づいていた。
次の行。
「申請控えを写し、村長へ預ける。王都薬師局と第二王子宮の線あり。私が死ねば、事故ではない」
息が詰まった。
事故ではない。
本人が、そう書いていた。
ニナが口元を押さえる。
ハロルドが目を閉じる。
エルネスト殿下は、帳面へ手を置いた。
「オルガ」
低い声だった。
悔しさと、怒りと、弔いが混じっている。
私は次の頁をめくった。
最後に、一枚の紙が挟まっていた。
そこには、薬材の流れが図にされている。
王都薬師局。
第二王子宮。
王妃宮。
辺境薬室。
その中心に、知らない名があった。
「黒帳の主」
名ではない。
呼び名だ。
オルガ様は、黒幕にまだ届いていなかった。
でも、存在には気づいていた。
私は紙を握りしめる。
前任薬師の死は、事故ではない。
王都の毒は、辺境で一度人を殺している。
そして、その先にはまだ、名前のない主がいる。
エルネスト殿下が言った。
「次は、黒帳を探す」
私は頷いた。
「はい」
薬室の窓の外で、辺境の風が鳴った。
帰ってきた場所は、もう逃げ場ではない。
ここから、亡くなった薬師の記録をつなぎ直す。
奪われた記録も、消された命も、なかったことにはさせない。




