第2話「辺境砦には薬がない」
エルネスト殿下を救った翌朝、私は砦の薬棚を見て絶句した。
空っぽだったからではない。
空ではないのに、使えるものがほとんどなかったのだ。
乾燥しきって香りの飛んだ止血草。湿気を吸って固まった解熱粉。保存瓶の底に指一本分だけ残った胃薬。
これでは、人は助からない。
「ひどいでしょう」
背後から声がした。
振り向くと、栗色の髪を後ろでひとつに結んだ少女が立っていた。年は十六か十七くらい。エプロンの端に薬草の染みがいくつもついている。
「私はニナです。雑用兼、見習い薬師兼、たまに皿洗いです」
「兼任が多いわね」
「人がいないので」
それはもう見れば分かる。
私は棚から瓶を一つ取り、中身を指先で砕いた。音が鈍い。
「いつから補充されていないの?」
「まともなものは、冬前からです。王都へ申請しても、予算がないって」
予算がない。
そう言われて終わる顔を、王都で何度も見てきた。
だが、昨日の毒の件を考えれば、ただの貧乏では済まない気がした。
「殿下の容体は?」
「朝には熱が引きました。でも、侍従長のハロルド様が食事も薬も全部見張るって」
当然だろう。見張るべきは今さらそこではない気もするけれど。
私は棚を順に見ていく。
不足しているのは、痛み止め、胃腸薬、消毒用の酒精、傷薬。足りないどころか、代用品の知識すら共有されていない。
ここへ来る荷は、最初から数に入れられていないのかもしれない。
「リゼット」
低い声に振り向くと、扉の前にハロルドが立っていた。
四十代半ばほどの、厳しい目をした男だ。昨日、殿下のそばで青ざめていた侍従である。
「殿下がお呼びだ」
通された執務室には、薄い朝日が差していた。
寝台ではなく机の向こうに座るエルネスト殿下は、まだ顔色こそ白いものの、昨日よりずっとましだった。
「立てるのですか」
「寝ているほど暇ではない」
そう言いながら咳を一つ落とすあたり、無理はしている。
私は眉を寄せたが、先に口を開いたのは殿下だった。
「ハロルドから聞いた。砦の薬が死んでいるそうだな」
「死んでいます。薬ではなく、薬の形をした別の何かです」
ハロルドの眉がぴくりと動いた。
だが殿下は怒らず、むしろ少しだけ目を細める。
「言うな」
「事実なので」
「それで、立て直せるか」
私は一拍だけ考えた。
本当なら、足りないものを一覧にし、流通経路を洗い、予算と帳簿を確認したい。けれど、この砦では今日具合を悪くする誰かを、今日助けなければならない。
「応急処置ならできます。でも、まずはこの砦で何がどれだけ不足しているか調べる必要があります」
「許可する」
即答だった。
その早さに、少しだけ驚く。
王都では、私は何をするにも説明を求められた。しかも説明は聞き流され、功績だけ持っていかれた。
ここでは違うらしい。
「ただし条件がある」
驚いた私に、殿下は淡々と続けた。
「お前一人では動くな。ニナと、兵を一人つける」
「監視ですか」
「護衛だ。昨日の件のあとで、一人歩きさせるほど砦の中はきれいじゃない」
それはつまり、砦の中に毒を盛る人間がいると、この人自身が認めているということだ。
私は頷いた。
「分かりました」
「それと」
殿下は机の端に置かれた小さな革袋を、指先でこちらへ押した。
中には銀貨が十枚。
「これは?」
「使え」
「私を、そこまで信用なさるんですか」
殿下は一度だけ咳をこらえ、それから短く言った。
「信用はしていない。だが、昨日お前がいなければ私は死んでいた」
心臓が一つ、変な音を立てた。
王都でどれだけ働いても、こんなふうに予算を預けられたことはなかった。
私は袋を受け取り、深く息を吸う。
「使い道は報告します」
「そうしろ」
執務室を出る頃には、やることが頭の中で組み上がっていた。
足りないなら、作る。
高い薬が来ないなら、辺境で採れるものを使う。
まずは砦の中で手当てに必要な最低限を揃える。
それが第一歩だ。
その日のうちに、私はニナと護衛役の女性兵士ラーニャを連れて、砦の裏手にある薬草畑へ向かった。
畑、と呼ぶにはあまりに荒れていた。
雑草に飲まれ、札は倒れ、乾いた土にはひびが入っている。
ニナが気まずそうに言う。
「前の薬師様が亡くなってから、誰も手が回らなくて」
「亡くなった?」
「去年の秋に熱病で」
本当に熱病だろうか。
そう思ったが、今は飲み込む。
畑の端にしゃがみ込み、私は葉を一枚ちぎって匂いをかいだ。
辛味草。まだ使える。
その隣には、葉の縁が赤く染まった細根草。胃薬と止瀉薬の代わりになる。
見渡せば、荒れていても使えるものは残っていた。
「全部終わってるわけじゃない」
私がそう言うと、ニナが目を丸くする。
「本当ですか?」
「ええ。荒れているだけ。手入れすれば戻る」
ラーニャが腕を組んだまま、じっと周囲を見張っていた。
褐色の肌に短い黒髪。愛想はないが、足の運びに無駄がない。
「必要なものを言え。集める」
「鍬、水桶、乾いた布、煮沸できる鍋。あと、誰か字を書ける人」
「字?」
「口伝えだけだと、次に誰か倒れた時に困るわ」
ニナが、ぱっと顔を明るくした。
「私、書けます! 遅いですけど!」
「十分よ」
その日の午後、私は使える薬草の選別、簡易の傷薬、胃薬代わりの煎じ薬、消毒用の濃い酒の希釈方法を、片端から紙に書かせた。
最初の煎じ薬は火が強すぎて苦味が立ち、丸ごと捨てることになった。
ニナが青ざめ、私も舌打ちしそうになる。
焦れば雑になる。王都でも辺境でも、それは同じだ。
王都では当然だった手順が、ここでは新しい知識のように見られる。
けれど、そうやって一つずつ残していかなければ、また誰かがいなくなった時に全部消える。
夕方、最初の患者が来た。
訓練中に手を裂いた若い兵士だ。
「医師殿は今、熱の患者を見てるって」
困ったように立つ兵士の手を見て、私は眉を上げた。
「縫うほどじゃないわ。でもこのままだと膿む」
私は昼のうちに作った薬を使い、傷を洗って布を巻いた。
兵士は半信半疑の顔だったが、痛みが和らいだらしく目を見開く。
「早いな」
「次が来る前に、これくらいは終わらせたいの」
その言葉どおり、次も来た。
腹痛。擦り傷。寝不足。咳。
どれも小さいが、放っておけば大きくなる。
私は休む間もなく手を動かし、ニナは必死に薬包を折り、ラーニャは並び始めた兵士を黙らせながら順番を整えた。
日が落ちる頃には、空だった机の上に新しい札付きの瓶が六本並んでいた。
少ない。
けれど、朝よりはましだ。
「すごい……」
ニナが、瓶を見つめて呟いた。
「こんなに一日で」
「足りないわ。全然」
私はそう言いながらも、口元が少しだけ緩むのを止められなかった。
足りないなら増やせばいい。
荒れているなら整えればいい。
やることがある場所のほうが、私には向いている。
その時、扉が強く開いた。
駆け込んできた若い兵士が、息を切らして叫ぶ。
「リゼット殿! 西塔の見張りが倒れました! 殿下と同じで、手が震えてる!」
私の指先が止まる。
やはり一度きりではなかった。
私は薬箱をつかんで立ち上がった。
「ニナ、卵白と塩。ラーニャ、道を開けて」
砦の中で、毒はまだ生きている。
その事実に、胸の奥が冷たく研ぎ澄まされた。
今度は間に合う。
間に合わせてみせる。




