第1話「婚約破棄の夜、毒見役に落とされました」
王宮の大広間は、さっきまで音楽で満ちていた。
その音が止んだのは、第二王子レオンハルトが私の前に立ち、わざわざグラスを掲げたからだ。
「リゼット・アルヴェーン。君との婚約は、今この場で破棄する」
ざわり、と空気が揺れた。
集まっていた貴族たちの視線が、いっせいに私へ向く。
私はまばたきをひとつして、口を開いた。
「理由をうかがっても?」
「決まっている。君は嫉妬から、クラリスを害そうとした」
レオンハルト殿下が引き寄せたのは、彼の隣で震えるように立っている子爵令嬢クラリスだった。
今にも泣きそうな顔。けれど、その目は私をまっすぐ見ていない。
床に落ちて砕けたティーカップから、甘い香りが漂っている。
蜂蜜。乾燥林檎。少量のシナモン。
そこに混じる、舌の奥が痺れるような青臭さ。
眠り花の葉だ。強い毒ではないが、体質によっては呼吸が浅くなる。
「そのお茶を淹れたのは私ではありません」
「だが薬草庫に出入りできたのは君だろう!」
「薬草庫に出入りできる人間は私以外にもいます。記録簿をご覧になれば分かるはずです」
私がそう言った瞬間、殿下は露骨に眉をひそめた。
記録簿を見ていない。
見ていないどころか、見る気もないのだろう。
「見苦しい言い逃れはやめろ。クラリスは心優しい。君のように、薬を言い訳に人を操る女とは違う」
その言葉に、喉の奥が冷えた。
怒りで頭が熱くなるはずなのに、妙に指先だけが冷える。
殿下は最初から、私の言い分を聞く気がない。
クラリス様を守りたいのか、私を切り捨てたいのか、その両方か。
どちらにしても、ここで正しさを数え上げても無駄だった。
それでも、黙って飲み込む気はなかった。
「私はクラリス様を害していません。眠り花なら、今すぐ湯に塩を入れて吐かせれば後遺症は残りません」
「まだ言うか! 自分で毒を入れておいて、解毒法まで口にするとは恐ろしい女だ」
周囲の視線が変わる。
あきれ。恐れ。面白がる気配。
一人だけ、壁際で年配の宮廷薬師が目をそらした。
そこで全部つながった。
私の調合案や記録を何度も持っていったのは、あの男だ。最近、殿下が褒めていた新薬も、元をたどれば私の配合だった。
功績を奪われたうえ、罪まで着せられた。
ずいぶん安く見られたものだ。
「リゼット・アルヴェーン」
国王陛下の側近が、一歩進み出る。
「君には王都追放を命じる。明朝、北の辺境砦へ向かえ。そこで王弟殿下付きの毒見役として仕えよ」
大広間がどよめいた。
毒を作った女に、毒見役。
ひどく悪趣味な命令だ。
けれど私は、裾を持ち上げて礼をした。
「かしこまりました」
殿下が拍子抜けした顔をする。
泣いて縋ると思ったのだろうか。
悪いけれど、私にはそんな暇はない。
王都に残っても、今の私は証拠を握り潰されるだけだ。
だったら生き延びる。記録の写しも、頭の中の知識も、まだ奪われていない。
いつか必ず、取り返す。
そのためにまず必要なのは、明日からも生きることだった。
翌朝。
冷えた荷馬車に揺られ、私は三日かけて北の辺境砦へ着いた。
灰色の石壁。乾いた風。門の上には、冬雲に似た重い空。
歓迎の言葉はない。
いたのは槍を持った兵士と、私を値踏みするように見る侍従だけだった。
「王都から来た毒見役だな。案内する」
「ええ」
砦の中は忙しなかった。
兵士たちが走り、廊下の先では怒号が飛ぶ。
運ばれてきたのは、黒い上着を羽織った長身の男だった。
顔色が悪い。呼吸が荒い。唇の端がわずかに紫がかっている。
周囲が叫ぶ。
「殿下が倒れたぞ!」
「医師を呼べ!」
王弟殿下。
辺境を預かる、エルネスト・ヴァルハイト。
到着したばかりの私の前を、その当人が担ぎ込まれていく。
案内役の侍従が舌打ちした。
「ついていろ。余計なことはするな」
だが、部屋へ入った瞬間、私は立ち止まった。
机の上には食べかけのスープ。床には吐しゃ物。鼻を刺すのは、焦げた薬草の匂い。
医師が震える手で瓶を開けていた。
中身は強壮剤。
熱病なら、それでもよかったかもしれない。
でも違う。
この症状にそれを入れたら、たぶん悪化する。
私は反射で声を上げていた。
「待ってください。それは飲ませては駄目です!」
全員が振り向く。
侍従が顔をしかめた。
「何だ、お前」
「脈が速すぎる。発汗、唇の変色、喉の渇き。熱病だけでは説明がつきません。口の中から回る毒かもしれない」
医師が息をのむ。
「舌下、だと?」
「断言はできません。でも、強壮剤を入れるよりはましです」
私は殿下の指先を取った。
硬い。冷え切ってはいない。けれど、細かな痙攣が走っている。
視線を移す。
机の端に、銀の杯。
縁にだけ、ごく薄く白い粉が残っていた。
「杯を洗わないで。水もまだ飲ませないでください。塩はありますか。卵白も」
「あるが」
「急いで。あと、暖炉の火を弱めて。熱を上げると回りが早くなります」
私がそう言うと、部屋にいた全員が一瞬だけ迷った。
その沈黙を破ったのは、寝台の上の男だった。
苦しそうに目を開け、低い声で言う。
「従え」
ただの一言だった。
それだけで兵士が走り、侍従が塩を持ってくる。
私は卵白に水を少しだけ混ぜ、塩を合わせて殿下の口元へ寄せた。
「少しでいいです。飲み込んでください」
殿下は眉ひとつ動かさずに従った。
数口のあと、私は喉の奥を刺激する。
すぐに強い嘔吐が来た。
侍従が青ざめる。けれど、その吐しゃ物の色を見て、私はほっと息をついた。
白い泡。銀花石に似た匂いがした。
遅ければ危なかった。
「もう一度。同じものを」
医師が、今度は私の指示どおりに動く。
二度目の処置が終わる頃には、殿下の呼吸は少しだけ深くなっていた。
部屋を満たしていた切迫した空気が、ようやくほどける。
侍従が信じられないものを見る目で私を見た。
「助かるのか」
「今夜は越えられると思います。けれど、誰かが殿下の口に入るものへ触れています。食事だけとは限りません」
私は銀の杯を見た。
縁の内側、ほんの一部だけに粉が付いていた。
飲み物へ混ぜたなら、もっと均一に残る。
これは、誰かが杯に直接塗ったのだ。
「……冗談みたい」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど乾いていた。
王都で押しつけられた役目が、ここでは笑えない話になっている。
寝台の上で、殿下がゆっくり目を開ける。
色の薄い瞳だった。熱に濁りながらも、私を正面から見た。
「名は」
「リゼット・アルヴェーンです」
「王都の者か」
「本日から、そのはずでした」
かすれた声だったのに、殿下は少しだけ口元をゆるめた。
「到着初日に上官を救うとは、ずいぶん働き者の毒見役だ」
「毒見役ではなく、薬師として来たかったのですが」
言ってから、しまったと思った。
相手は王弟だ。
だが殿下は怒らなかった。
むしろ、目を閉じたまま低く答える。
「なら証明しろ。ここで」
その言葉は命令というより、許可に近かった。
私はその一言で、胸の奥の冷えが少しだけ溶けるのを感じた。
部屋の端で、医師が悔しそうにうつむく。
けれど今は、誰が敵で誰が味方か分からない。
ただ一つ分かるのは、砦の中に毒があること。
しかも、一度ではない。
寝台のそばの盆には、殿下が昼に飲んだという薬湯の空椀があった。
その底に残る渋い匂いは、杯の毒とは別のものだ。
微量すぎて、今すぐ人を倒す量ではない。
けれど毎日続けば、確実に体を削る。
王都を追われた先でまで、毒が人を蝕んでいる。
なら、やることは一つだ。
生き延びる。
見つける。
救う。
そして、奪われたままでは終わらない。
窓の外では、辺境の風が石壁を叩いていた。




