第3話「毒は食卓から来ていない」
西塔へ駆け込んだ時、見張りの兵士は床に膝をついていた。
唇は青白く、右手が小さく震えている。
昨日のエルネスト殿下ほど重くはない。けれど、放っておけば確実に悪化する症状だ。
「いつから?」
私が膝をつくと、そばにいた兵士が慌てて答える。
「夕刻の交代前です! 急に手が動かなくなって」
私は患者の顎を上げ、瞳孔と舌の色を見る。
乾き方が浅い。
胃の反応も弱い。
同じ毒でも、量が少ない。
「卵白」
差し出された器を受け取り、私は兵士にゆっくり飲ませた。
処置をしながら、視線だけで周囲を探る。
西塔の詰所は狭い。木机が一つ、椅子が二つ、壁際の棚にランタンと水差し。
食べ物はない。
けれど、机の隅に小さな錠剤の欠片があった。
私は指先で拾い、匂いをかぐ。
苦い。
毒消しの丸薬に見せかけた、別物だ。
「これ、誰が渡したの?」
兵士たちが顔を見合わせる。
やがて一人が口を開いた。
「厨房の補助をしてるカルムです。見張りは冷えるから、腹にいい薬だって」
ラーニャが舌打ちした。
「すぐ呼ぶ」
「待って。逃げ道を塞いでから」
ラーニャは短く頷き、二人の兵を連れて出ていった。
処置を終える頃には、見張りの震えは少し収まっていた。
「助かるか」
弱い声で問われ、私は答える。
「助かる。でも、次に飲む前に必ず私へ見せて」
兵士は青い顔のまま頷いた。
その少しあと、カルムが連れて来られた。
まだ二十歳にもなっていない痩せた青年だった。
厨房補助にしては、手がきれいすぎる。
「お、俺は親切でやっただけです」
その言い方に、私は眉をひそめた。
何を渡したのかより先に、親切だと言い張る。
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
「その丸薬、どこでもらったの?」
「前の薬師様の残りです」
「……それは、おかしいわ」
カルムの肩がびくりと跳ねた。
「前の薬師様の丸薬なら、こんな匂いにはならない」
ニナが息をのむ。
ラーニャは無言でカルムの逃げ道を塞いだ。
「もう一度聞くわ。誰にもらったの」
「し、知らない! 市場で買っただけだ!」
市場。
辺境砦の中で回る小さな市では、保存食や日用品のやり取りが行われる。けれど、薬のようなものは帳面に残るはずだ。
ハロルドが低く言う。
「市場の誰からだ」
カルムは唇をわななかせたまま、なかなか答えない。
「覚えてない! 顔もよく見てない!」
その様子を見て、私は別の問いを投げた。
「報酬はいくら?」
カルムの顔色が変わった。
当たりだ。
「……銀貨、二枚」
若い兵が怒鳴る。
「二枚で仲間を売ったのか!」
「違う! 死ぬなんて聞いてない! 少し腹を壊すだけだって! 見張りが下がれば、あとは向こうでやるって……俺はそこまでしか……!」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
誰を、どの時間に、どこへ入れるつもりだったのか。
ただ腹を壊させたいだけなら、見張り交代の前を狙う必要がない。
誰かが、あの場所を空けたかった。
エルネスト殿下が静かに口を開く。
いつの間にか、扉の前に立っていた。
顔色はまだ悪いが、その目だけは冷たい。
「西塔の昨夜の担当は」
ハロルドが即座に答える。
「外門と倉庫の両方が見える位置です」
「つまり、見張りが倒れれば死角ができる」
私の背中を、嫌な汗がつたう。
殺すつもりがなかったとしても、十分すぎる。
一人倒れれば、その場所は空く。
「カルム」
殿下の声は低かった。
「誰に頼まれた」
カルムは泣きそうな顔で首を振る。
「顔は知らないんです! 外套で隠してて! でも、王都の言葉でした。ここの人の訛りじゃない」
王都。
私は指先を握りしめた。
都を追われたその先にまで、王都の手が伸びている。
殿下はハロルドへ視線を向けた。
「市場の出入りを洗え。丸薬も全て回収だ」
「はっ」
「カルムは拘束。ただし殺すな。話せることがまだある」
兵たちが動き出す。
私は机の上の丸薬の欠片を紙へ包んだ。
「それ、何に使う」
殿下に問われ、私は答える。
「成分を見ます。同じものが砦のどこに流れているか分かるかもしれません」
「できるのか」
「やります」
私がそう言うと、殿下はほんのわずかに頷いた。
その視線には、昨日よりはっきりした信頼が混じっていた。
けれど、安心するには早い。
事件は解決していない。
西塔の見張りが倒れたのは結果でしかない。
本命は別にある。
夜。
私は薬室の机にランタンを寄せ、丸薬を削っていた。
乾燥油草、苦殻、微量の眠り花。
そして、ごくわずかに混じる灰。
ただの灰ではない。香木を焼いた時のものだ。
どこかで嗅いだ匂いだった。
けれど、すぐには思い出せない。
私は削った粉をもう一度火に寄せ、立ち上る匂いを確かめた。
その時、ようやく記憶の底がひっかかる。
王都の薬草庫。
あの年配の宮廷薬師が、配合の匂い消しに使っていた香木の灰に近い。
「つながった……?」
独り言が漏れる。
その時、外で鋭い笛の音が響いた。
ラーニャが扉を開ける。
「外門の鍵がこじ開けられていた。誰かが倉庫へ入ろうとした」
私は紙包みを握りしめた。
丸薬で見張りを下ろし、その隙に倉庫へ入る。
そう考えると、さっきの話と辻褄が合う。
では、倉庫に何があるのか。
ラーニャが低く言う。
「殿下が来いって」
私は立ち上がる。
砦の中の毒は、もう食卓の話ではなかった。
誰かがここを内側から崩そうとしている。
その手口を、今夜こそ掴む。




