第17話「奪われた配合案は、王妃宮へ運ばれた」
薬師局の裏庭には、誰も近づきたがらない古い扉があった。
石壁の下。
蔦に半分隠れた、低い鉄扉。
昔は薬材の搬入口だったらしい。
王妃宮へ直接つながる、便利で危ない道。
「よく残していたものだな」
ラーニャが扉の錆を見た。
「便利な道ほど、塞がれません」
ハロルドが答える。
「正式な廊下を使えない荷も、人も、ここなら動かせる」
私は足元の青い糸を紙に包んだ。
「トーマはここを通った」
「断定はまだ早い」
エルネスト殿下が言う。
その声は慎重だった。
私を止めるためではない。
私が言葉を急がないよう、支えている。
「はい。だから、断定ではなく追跡します」
扉を開けると、冷たい空気が流れた。
石の通路。
壁に古い灯り。
床には細かな粉が落ちている。
白ではない。
灰色。
指先で少し取り、匂いを嗅ぐ。
香木灰。
王宮薬草庫と同じ匂い。
私は息を止めた。
また、ここにつながる。
「灰で足跡を消したのか」
ラーニャがしゃがむ。
「消そうとして、逆に残しています」
私は床を見た。
灰をまいたあとに、誰かが急いで歩いた跡がある。
深い足跡が一つ。
軽い足跡が一つ。
「一人ではありません」
「トーマと、もう一人か」
エルネスト殿下の声が低くなる。
通路を進むと、小さな保管室があった。
扉は半開き。
中には壊れた木箱が積まれている。
私は一番上の箱を見て、足が止まった。
箱の側面に、見覚えのある印。
王宮薬草庫の古い分類印。
私が見習いだった頃、薬草記録の控えを入れていた箱と同じ印だった。
「リゼット」
殿下の声で、私は我に返る。
「大丈夫です」
嘘ではない。
でも、胸の奥が痛い。
私は箱を開けた。
中には紙束が残っていた。
湿気を吸って、端が波打っている。
表紙には、私の字。
配合試案。
冬熱用の解熱補助薬。
銀花石中毒の応急処置。
保存薬の代替材料。
全部、私が夜に書いたものだった。
「あった……」
声が漏れた。
怒りより先に、息が苦しくなった。
ここにあった。
私がなくしたと思っていた紙。
誰かに捨てられたと思っていた記録。
それが王妃宮へ向かう通路の保管室に、箱ごと隠されていた。
エルネスト殿下は紙束へ手を伸ばさなかった。
「触れていいか」
そう聞いた。
私は少し驚いて、それから頷いた。
「はい」
殿下は一枚だけ、端を持って見る。
「これは君の字だな」
「はい」
「日付は」
「婚約破棄の三か月前です」
ハロルドが記録する。
「モーリスが発表した新薬の時期と重なる」
私は次の紙をめくった。
そこには、別の字で朱線が引かれている。
私の配合案の横に、短い指示。
「第二王子宮提出用に名義変更」
手が震えた。
今度は恐怖ではない。
怒りだ。
「名義変更」
言葉が口から落ちる。
薬を作る人間にとって、記録はただの紙ではない。
失敗も、迷いも、誰かを助けるために積んだ時間も、全部そこに残る。
それを名前だけ変える。
まるで瓶の札を貼り替えるように。
「リゼット」
殿下が静かに呼んだ。
私は深く息を吸う。
「大丈夫です」
今度は、少し本当だった。
「怒っています。でも、読めます」
紙束の奥に、封筒があった。
宛名はない。
封蝋には王妃宮の花印。
開封済み。
中には、薬草記録の抜粋と、短い覚書。
「リゼット・アルヴェーンの案は有用。婚姻後、第二王子宮の管理下に置くこと」
婚姻後。
私はそこで、はっきり理解した。
レオンハルト殿下は私を愛していなかった。
それはもう知っていた。
でも、婚約は政略だけでもなかった。
私の記録を、私ごと第二王子宮の財産にするつもりだったのだ。
そして、私が扱いにくくなったから切り捨てた。
記録だけを残して。
「ひどい」
ラーニャが低く言った。
その一言で、なぜか少し救われた。
私が大げさに傷ついているのではない。
これは、ひどいことだ。
「この覚書は強い」
ハロルドが言った。
「王妃宮が、君の記録の価値を知っていた証拠になる」
「ただし、王妃様ご本人の指示とは限りません」
私は紙を封筒へ戻した。
「王妃宮の誰か、です」
「その言い方ができるなら大丈夫だ」
エルネスト殿下の声は、少しだけ柔らかかった。
その時、通路の奥で物音がした。
紙が擦れる音。
誰かがまだいる。
ラーニャが剣に手をかける。
「奥」
私たちは灯りを落とし、ゆっくり進んだ。
通路の突き当たりに、小さな階段がある。
その先に、使用人用の控室。
扉の隙間から、男の声が聞こえた。
「話が違います」
トーマの声だった。
「私に全部かぶせるつもりでは」
もう一人の声は低い。
女か男か、分かりにくい。
「あなたは書いた。運んだ。署名した。十分でしょう」
「王妃宮の命だと言われたからです!」
「その名を軽々しく口にしないこと」
トーマの息が乱れている。
私は扉の横へ寄った。
中が見える。
トーマは壁際に追い詰められていた。
袖口の青い裏地が破れている。
向かいに立っているのは、王妃宮の侍女長だった。
祭祀式で、遠くから見たことがある。
名はセラフィナ。
王妃に長く仕える女。
彼女の手には、小さな瓶があった。
「飲みなさい」
「嫌です」
「書記官が重圧に耐えかね、自ら命を絶った。よくある話です」
背筋が冷えた。
トーマを消すつもりだ。
ラーニャが動こうとする。
私はその袖をつかんだ。
「待って」
ただ飛び込めば、瓶を飲まされるか割られる。
私は薬箱を開け、乾燥薄荷の小袋を取り出した。
床の香木灰へ落とす。
踏む。
強い匂いが立ち上がった。
控室の中で、セラフィナが振り返る。
その一瞬に、ラーニャが扉を蹴った。
瓶が床に落ちる。
エルネスト殿下が踏み込む。
「その手を離せ」
セラフィナは驚いた顔を一瞬だけ見せた。
すぐに、完璧な礼へ戻る。
「王弟殿下。ここは王妃宮の管理区域です」
「人を殺す区域ではない」
トーマは膝から崩れた。
私は駆け寄り、彼の口元を確認する。
甘い匂いはない。
まだ飲んでいない。
「間に合いました」
トーマの目が私を見た。
怯え。
後悔。
そして、保身。
全部混じっている。
「助けてください」
彼は震える声で言った。
「全部、言います。だから、殺さないでください」
セラフィナの目が細くなる。
「書記官は混乱しています」
「混乱していても、記録は取れます」
ハロルドが筆を出した。
私はトーマの手元を見た。
インクで汚れた指。
紙を扱い慣れた爪。
この手が、私の筆跡を写し、クラリスの字を真似し、令状を空白で流した。
許せない。
でも、ここで怒りに任せれば、証言が消える。
「トーマ様」
私は言った。
「あなたが書いたものを、一つずつ言ってください」
彼は震えながら頷いた。
「リゼット様の配合案。クラリス様の偽造指示書。辺境薬室への令状。清めの水の交換時刻」
部屋が静かになる。
「命じたのは」
トーマはセラフィナを見た。
セラフィナは笑っていない。
ただ、冷たい目で彼を見下ろしている。
トーマの唇が震えた。
「王妃宮侍女長、セラフィナ様です」
言った。
とうとう、言った。
セラフィナは動じなかった。
「証拠は?」
その声が、あまりにも静かで怖かった。
トーマが青ざめる。
「証拠は、王妃宮の白箱に」
セラフィナの顔色が、初めて変わった。
白箱。
その言葉だけで十分だった。
まだ奥に、記録がある。
奪われた配合案は、王妃宮へ運ばれた。
そして、王妃宮にはまだ開けられていない箱がある。




