第16話「薬師局の台帳は、灰をかぶっていませんでした」
王都薬師局の門は、昔より大きく見えた。
白い石壁。
銅の門扉。
乾いた薬草と、磨かれた床油の匂い。
私はその前で、薬箱の取っ手を握り直した。
ここに、私の記録があった。
ここで、私の配合案は別の名に変わった。
ここで黙っていたから、私は婚約破棄の夜まで追い詰められた。
「顔色が悪い」
隣でエルネスト殿下が言った。
「悪くもなります」
私は正直に答えた。
「でも、足は止まりません」
殿下はそれ以上、止めなかった。
薬師局の玄関には、モーリス・ダルトンが待っていた。
柔らかな笑み。
少し丸めた背。
昔、私の草稿を受け取った時と同じ顔だ。
「リゼット。まさか、またここで会うとは」
「私もです、モーリス様」
声は震えなかった。
それだけで、自分を少し褒めたくなった。
モーリスはエルネスト殿下へ礼をする。
「王妃宮からの再審査命令に従い、点検権限の妥当性を確認いたします。辺境の薬師が祈祷式を混乱させた件です」
混乱させた。
毒を止めた、とは言わない。
「確認していただくのは結構です」
私は薬箱から封筒を出した。
「その前に、王都薬師局の令状台帳を拝見します」
モーリスの笑みが薄くなる。
「何のために」
「辺境薬室へ、古い令状を持った者が来ました。王都薬師局の印がありました。台帳と照合します」
「再審査と関係がない」
「あります」
私は封筒を開き、ニナの記録写しを出した。
「同じ日に、王宮礼拝堂では清めの水へ異物混入。クラリス様の控室では偽造箱。辺境薬室では白い粉の持ち込み。三つに薬師局の名と印が関わっています」
廊下にいた薬師たちがざわめいた。
モーリスはすぐに手を上げる。
「局内で話そう」
「はい」
私は頷いた。
「記録係立会いで」
彼の口元が、ほんの少し硬くなった。
薬師局の記録室は、二階の奥にあった。
私は昔、扉の外までしか入れなかった。
見習いは台帳に触れない。
そう言われた。
けれど今は、グラント卿の兵とハロルド、ラーニャ、エルネスト殿下がいる。
扉の鍵が開いた。
中は思ったより整っていた。
棚ごとに年号。
箱ごとに分類。
そして、台帳の背に薄く灰が積もっている。
ただ一冊だけ、灰のない台帳があった。
私はそれを見た瞬間、息を止めた。
モーリスも気づいた。
「令状台帳は、こちらだ」
彼は別の棚へ向かおうとした。
「待ってください」
私は灰のない台帳を指した。
「そちらは?」
「搬出補助記録だ。今回とは関係ない」
「灰がありません」
モーリスの眉が動く。
「最近使ったのでしょう」
「では、最近使った理由も記録されていますね」
ハロルドが静かに筆を構える。
モーリスの背後で、若い薬師が目を伏せた。
私はその反応を見逃さなかった。
「令状台帳と、搬出補助記録。両方をお願いします」
「権限がない」
エルネスト殿下が一歩前へ出た。
「私が求める」
「王弟殿下。薬師局は王妃宮の管理も受けております」
「だからこそ、局内で毒が動いた疑いを放置できない」
短い沈黙。
扉の外にいたグラント卿の兵が、記録室の前を固める。
モーリスは観念したように鍵を出した。
令状台帳が開かれる。
辺境薬室へ向かった検査令状の日付。
台帳には、確かに控えがあった。
ただし、発行先が違う。
「北辺境砦、薬室検査」
私は指で追った。
「発行日は、私が王都へ戻る前日。目的は薬材在庫確認。ですが、ニナの記録では使者は『毒物隠匿の疑い』と告げています」
ハロルドが書き留める。
「目的が変わっている」
「ええ」
私は次の欄を見た。
発行承認者。
そこに書かれていた名は、モーリスではなかった。
トーマ・ヴェルツ。
書記官。
「書記官が、薬師局の令状を承認できるのですか」
モーリスはすぐに答えた。
「臨時処理だ。上位者の代理署名がある」
「代理署名は」
私は欄を指した。
空白だった。
薬師局の記録室が静まり返る。
モーリスの頬が動いた。
「記入漏れだ」
「便利な漏れですね」
ラーニャがぼそりと言った。
私は搬出補助記録を開いた。
灰のない台帳。
最近触られた一冊。
そこには、薬材の移動が細かく書かれていた。
白眠草。
苦殻。
香木灰。
銀花石。
どれも、これまでの事件に出てきた名だ。
しかし搬出先は、薬師局ではない。
「王妃宮、礼拝堂準備、第二王子宮、北辺境臨時便」
私は読み上げた。
モーリスが声を荒らげる。
「それは祭祀用の薬草だ!」
「祭祀に苦殻を使いますか」
「防虫に使う」
「白眠草の抽出液も?」
モーリスは黙った。
抽出液。
そこまで台帳には書かれていない。
けれど、彼の沈黙が答えになった。
「モーリス様」
私は彼を見た。
「清めの水差しの底に残っていたのは、白眠草の乾燥葉ではありません。抽出残りです」
彼の目が、初めてはっきり揺れた。
「なぜ知っている」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
私は一歩も下がらなかった。
「見たからです」
「素人の見立てだ」
「私は、あなたにそう言われ続けました」
胸が痛む。
でも、今は痛みを言葉に変えられる。
「でも、辺境ではその見立てで人が助かりました。王宮では、その見立てで毒入りの水が止まりました」
若い薬師が、顔を上げた。
彼は小さく口を開き、すぐ閉じる。
言いたいことがある顔だった。
私は彼に視線を向ける。
「あなたは、この台帳を出しましたか」
モーリスが怒鳴った。
「余計なことを聞くな!」
若い薬師の肩が跳ねる。
エルネスト殿下が低く言った。
「答えろ。ここでは、怒鳴った者の言葉を優先しない」
若い薬師は青ざめながらも、台帳へ目を落とした。
「昨日の夜、トーマ様が来ました」
モーリスが振り返る。
「黙れ」
「台帳を、探していました。灰のないこの一冊です。私は、何をなさるのかと聞きました。そうしたら」
彼の喉が鳴る。
「『王妃宮の命だ。見なかったことにしろ』と」
王妃宮。
その名が、とうとう薬師局の記録室で出た。
モーリスは唇を歪めた。
「若造の聞き違いだ」
「では、聞き違いかどうか確認しましょう」
私は台帳の端を見た。
紙の繊維に、細い青い糸が挟まっている。
濃い青。
トーマの袖口と同じ色。
そして、辺境薬室へ来た使者の袖にもあった色。
「また、青い糸です」
ハロルドが紙包みを出す。
第5話の薬室荒らし。
第13話の偽装箱。
第15話の辺境使者。
そして今。
私は青い糸を見つめた。
小さなものだ。
糸だけなら、何も証明できない。
でも記録と重なるなら、道しるべになる。
グラント卿が入ってきた。
「トーマの所在が分かりました」
全員の視線が向く。
「薬師局の裏庭から、王妃宮へ向かう古い搬入口へ入ったとの証言があります」
王妃宮へ。
モーリスの顔から、血の気が引いた。
私は台帳を閉じた。
「行きましょう」
エルネスト殿下が私を見る。
「罠だ」
「はい」
私は頷いた。
「でも、罠の入り口に台帳があります。今度は持っていかせません」
記録は灰をかぶっていなかった。
誰かが動かしたから。
誰かが隠そうとしたから。
そして、その誰かはまだ王宮の奥へ逃げている。
古い搬入口の向こう。
王妃宮へ続く暗い通路で、トーマの青い糸が一本、落ちていた。




