第15話「記録は王都と辺境をつなぐ」
クラリスは、グラント卿の管理する小部屋へ移された。
豪華な部屋ではない。
窓は高く、扉の外には国王側近の兵が立つ。
けれど、第二王子宮の護衛はいない。
それだけで、彼女の呼吸は少しだけ落ち着いた。
私は傷の包帯を替えた。
「指は動きますか」
クラリスはゆっくり指を曲げる。
「少し重いです」
「薬が残っています。今日は長く書かないでください」
「でも、証言を」
「話せるうちに話すことと、倒れるまで話すことは違います」
私が言うと、彼女は小さく黙った。
昔のクラリスなら、そこで不満そうに顔をそむけただろう。
今は違う。
彼女は自分の手を見つめている。
「私は、いつも誰かの言葉を選んでいました」
「誰かの言葉?」
「レオンハルト様が喜ぶ言葉。父が怒らない言葉。モーリス様が安全だと言う言葉」
彼女は唇を噛んだ。
「自分で見たことを、言葉にするのが怖かった」
私は包帯を留めた。
「怖いままでいいです」
クラリスが顔を上げる。
「怖いまま、見たことを言ってください」
彼女の目が揺れた。
それから、ゆっくり頷いた。
机の上には、赤い布の箱が置かれている。
封印済み。
中には、偽造文書、白眠草、青い糸。
そして、クラリスを犯人にするための筋書き。
「この筆跡、トーマ様が練習していました」
クラリスは言った。
「私の招待状の控えを借りたいと。レオンハルト様の命令だからと」
「いつですか」
「婚約破棄の少し前です」
胸の奥が冷えた。
婚約破棄の前。
つまり、あの夜よりずっと前から、私を切り捨てたあと誰かに罪をかぶせる準備が進んでいた。
クラリスは続ける。
「あなたの記録も、その頃から第二王子宮にありました。薬草庫から持ち出したものだと、私は思っていました。でも、モーリス様は『リゼットが殿下へ献上した研究だ』と」
「献上などしていません」
声が硬くなった。
自分でも分かった。
クラリスは怯えたように肩を縮める。
私は息を整えた。
怒る相手を間違えてはいけない。
「すみません。あなたに怒ったのではありません」
「いいえ。怒って当然です」
クラリスは目を伏せた。
「私も、そう言われて安心したのです。あなたが自分で差し出したのなら、奪ったわけではないと」
人は、信じたい嘘を選ぶ。
私もそうだった。
レオンハルト殿下がいつか私を認めてくれると、どこかで信じていた。
信じたかった。
だから、奪われていると気づくのが遅れた。
扉が軽く叩かれる。
入ってきたのはハロルドだった。
手には封筒がある。
「辺境から早馬です」
私は立ち上がった。
「ニナたちは」
「無事です」
その一言で、膝から力が抜けそうになった。
私は机に手をつく。
「よかった」
本当に、それしか出なかった。
ハロルドは少しだけ目元を和らげた。
「薬室も守られました。王都薬師局の古い令状で検査を装った者たちが来たそうです。ニナが令状の日付を指摘し、持ち込み薬材の確認を求めた」
「ニナが?」
「ええ」
ハロルドは封筒から写しを出した。
「使者の懐から白い粉。袖口には青い糸。拘束済み。副官の署名つきです」
私は紙を受け取った。
ニナの字があった。
まだ少し丸い字。
でも、線はしっかりしている。
薬室検査記録。
来訪時刻。
令状の日付。
相手の所属。
持ち込み品。
証人の名。
全部、書いてある。
胸の奥が熱くなった。
私は一人で戦っているのではない。
辺境薬室は、空ではない。
「よくやってくれました」
声が震えた。
ハロルドが頷く。
「この記録は強い。王都で祈祷式の毒を止めた同じ日に、辺境薬室へ白い粉を持ち込もうとした者がいる」
エルネスト殿下も入ってきた。
「つながったな」
私は二つの記録を並べた。
王宮礼拝堂の清めの水。
クラリスの控室の偽装箱。
辺境薬室への持ち込み白粉。
どれも、白眠草と苦殻。
どれも、青い糸。
どれも、トーマの影がある。
けれど。
「トーマ一人では無理です」
私は言った。
「王宮礼拝堂の搬入時刻を変え、第二王子宮の合鍵を使い、王都薬師局の古い令状を持ち出し、辺境へ使者を送る。書記官一人で動かせる範囲を超えています」
エルネスト殿下の表情が沈む。
「第二王子宮だけでもない、か」
「はい」
私はクラリスを見る。
「クラリス様。王妃宮の名を聞いたことはありますか」
彼女の顔がわずかにこわばった。
それだけで答えに近い。
「あります」
声は小さい。
「レオンハルト様は、王妃様に叱られることを何より嫌がっていました。ですが、薬草記録のことだけは『母上も認めている』と」
部屋の空気が重くなる。
王妃宮。
第二王子宮の背後。
そこまで行けば、ただの婚約破棄のざまぁでは済まない。
王宮の権力争いそのものになる。
ハロルドが静かに言った。
「慎重に進めるべきです」
「もちろんです」
私は頷いた。
「でも、止まりません」
エルネスト殿下が私を見る。
その目には心配と、信頼が同じだけあった。
「次は何を見る」
私は記録を指で押さえた。
「王都薬師局の令状台帳です」
「薬師局か」
「辺境へ送られた古い令状が本物なら、台帳に控えがあります。偽物なら、紙と印の出所を追えます」
「モーリスがいる」
「だから行きます」
私は言い切った。
「私の記録を奪った場所です。あの人が何を持ち出し、何を隠したのか、薬師局の台帳を見れば分かるかもしれません」
クラリスが不安そうに言った。
「モーリス様は、優しい顔で嘘をつきます」
「知っています」
私は静かに答えた。
「昔は、その顔に騙されました」
薬草庫で、私の配合案を褒めた声。
「君には才能がある」と言った声。
その翌週、同じ案が彼の名で会議に出ていた。
あの時、私は偶然だと思おうとした。
信じたかった。
でも、もう違う。
「今度は、記録を持って会います」
ハロルドが辺境からの紙を丁寧に封筒へ戻す。
「ニナの記録も持っていくか」
「はい」
私は少しだけ笑った。
「あの子が守った薬室の記録です。王都に見せます」
その時、グラント卿が入ってきた。
表情が硬い。
「悪い知らせです」
部屋の中が静まる。
「封印した水差しの検査立会いを、王妃宮が求めています」
エルネスト殿下の目が細くなった。
「早いな」
「ええ。さらに、王妃宮から通達がありました。祈祷式の混乱を招いた責任について、リゼット・アルヴェーン殿の点検権限を再審査すると」
クラリスが息をのむ。
私は目を閉じた。
来ると思っていた。
毒を止めた者を、混乱を起こした者にすり替える。
王都の得意なやり方だ。
「再審査の場は」
「王都薬師局です」
グラント卿の答えに、私は顔を上げた。
王都薬師局。
こちらが行こうとしていた場所へ、向こうから呼んできた。
罠だ。
だが、入り口でもある。
エルネスト殿下が言った。
「断ることもできる」
「断れば、逃げたと言われます」
私は薬箱を閉じた。
「行きます」
「リゼット」
「大丈夫です」
そう言ってから、少しだけ訂正した。
「いえ、大丈夫ではないかもしれません。でも、準備はできます」
私は机の上に記録を並べた。
祈祷式の水差し。
クラリスの証言。
偽造文書。
辺境薬室の検査記録。
それぞれは、まだ小さな紙だ。
でも、つなげれば道になる。
王都と辺境を結ぶ、毒の道。
その道を逆にたどれば、私の記録を奪った手にも届く。
「薬師局へ行きます」
私は言った。
「今度は、私を裁かせるためではなく、あの人たちの台帳を開かせるために」
窓の外で、祈祷式の鐘が二度鳴った。
清めの水は止めた。
クラリスは証言を決めた。
ニナは薬室を守った。
そして次は、王都薬師局。
奪われた記録が眠る場所へ、私はもう一度足を踏み入れる。




