第14話「辺境薬室は空ではありません」
短い矢は、クラリスの肩をかすめていた。
ほんの少し。
布が裂れ、白い肌に赤い線が浮く。
私はすぐに傷口を押さえた。
「動かないで」
クラリスの唇が震える。
「毒、ですか」
「まだ分かりません」
私は矢じりを見た。
黒い薬が塗られている。
匂いは弱い。
血へ入り込むタイプなら、少量でも危ない。
薬箱から布と洗浄液を取り出す。
「ラーニャ、窓を」
「もういない」
ラーニャは割れた窓の外を見たまま答えた。
「屋根伝いに逃げた。慣れてる」
「ハロルド様、記録を」
「矢、傷、箱、すべて記録中だ」
返事が早い。
私はクラリスの傷を洗った。
黒い薬は、傷口の縁で薄く広がっている。
「痛みは」
「熱い、です」
「息苦しさは」
「まだ」
まだ。
その言葉が重い。
私は矢じりの薬を紙に少し取り、試験液を垂らした。
茶色。
即死毒ではない。
筋肉をこわばらせる薬だ。
証言前に声を出せなくするためか。
「命を奪う量ではありません。けれど、放置すれば腕が動かなくなります」
クラリスの目に恐怖が浮かぶ。
私はできるだけ静かに言った。
「大丈夫。間に合います」
大丈夫と言い切るのは、怖い。
でも患者の前で、薬師が最初に崩れてはいけない。
洗浄し、吸着粉を当てる。
包帯を巻く。
クラリスは歯を食いしばっていた。
泣かない。
泣けないほど怖いのかもしれない。
「なぜ、私を」
彼女がつぶやいた。
「私は、あなたを助けなかったのに」
「今は患者です」
私は包帯を結ぶ。
「患者を選んでいたら、薬師は続きません」
クラリスは目を伏せた。
その時、廊下を走る足音が近づいた。
エルネスト殿下とグラント卿が入ってくる。
殿下の視線が、まず私に向いた。
次にクラリス。
最後に床の矢。
「無事か」
「クラリス様は処置中です。命に関わる毒ではありませんが、証言を止めるための薬です」
殿下の眉がわずかに動く。
「証言を止めるため」
「はい」
私は箱を指した。
「クラリス様へ罪をかぶせる箱が見つかりました。中には白眠草、青い糸、偽造文書。筆跡を真似ています」
グラント卿が顔をしかめる。
「王宮内で暗殺未遂まで」
「殺すつもりではなかったと思います」
私は矢を見た。
「喋れなくするつもりです」
その方が、ずっと嫌だった。
死なせれば事件になる。
声だけ奪えば、証人は証人でなくなる。
エルネスト殿下が低く言う。
「トーマを追う」
「待ってください」
私は反射的に止めた。
殿下がこちらを見る。
「何かあるのか」
「トーマが王宮内で動いているなら、王都側だけが狙いではないかもしれません」
胸の奥に、嫌な予感があった。
祈祷式の毒。
クラリスへの偽装。
口止め薬。
どれも王宮内の火消しだ。
でも、私たちを本当に折るなら。
狙う場所は一つ。
辺境薬室。
「ニナたちが危ない」
口に出した瞬間、背筋が冷えた。
王都で私を縛る。
その間に、辺境で記録を燃やす。
薬室を空にする。
そうすれば、私の足場は消える。
エルネスト殿下はすぐにハロルドを見た。
「辺境へ早馬を」
「すでに一通、今朝出しています。ですが、追加を」
「暗号で送れ。薬室を閉じろ。記録を動かせ。ニナを一人にするな」
「承知しました」
ハロルドが部屋を出る。
私はクラリスの包帯を押さえながら、祈るような気持ちになった。
ニナ。
薬室を守って。
場所は変わり、辺境砦。
ニナはその朝、薬棚の前で背伸びをしていた。
高い棚に置いた乾燥薄荷の瓶が、どうしても奥へ入ってしまったからだ。
「届かない」
つぶやくと、後ろから兵の一人が笑った。
「取ろうか」
「大丈夫です。薬室の棚は私が覚えます」
ニナは椅子を引き寄せ、瓶を取った。
リゼット様なら、椅子に乗る前に棚の並べ方を直す。
そう思って、少し笑う。
リゼットが王都へ行ってから、薬室は静かだった。
でも、空ではない。
患者は来る。
薬は減る。
記録は増える。
ニナは帳簿を開き、昨日の処置を書き足した。
子どもの熱は下がった。
兵の咳は軽くなった。
保存薬は残り三瓶。
足りないものも多い。
けれど、何もできないわけではない。
その時、砦の門で鐘が鳴った。
来客を知らせる音だ。
ニナは顔を上げた。
しばらくして、兵が薬室へ駆け込んできた。
「王都から薬材検査の使者だ。薬室を開けろと」
ニナの手が止まった。
王都から。
リゼットは言っていた。
急に来た検査は、まず記録を見る。
次に薬棚を見る。
最後に、人を責める。
「リゼット様は王都です」
「だから来たんだろう」
兵の声も硬い。
ニナは深く息を吸った。
怖い。
でも、怖がっているだけなら薬室は守れない。
「薬室は開けます。ただし、記録簿は私一人では出せません。ハロルド侍従長の封印があります」
兵が驚いた顔をした。
「そんなもの、あったか」
「昨日作りました」
本当は、リゼットが王都へ行く前に言っていた。
「記録簿をそのまま棚へ置かないで。写しと原本を分けて」
ニナはそれを守った。
原本は薬棚の下ではない。
砦の食料庫でもない。
子どもの熱を見に行ったリンド村へ、村長の箱に預けてある。
薬室にあるのは写し。
それでも、大事な写しだ。
ニナは白衣を着直し、薬室の扉を開けた。
王都の使者は三人いた。
先頭の男は、細い目で薬室を見回した。
「粗末な薬室だな」
ニナの胸がむっとした。
でも、言い返さない。
リゼットなら、最初は言い返さない。
相手に喋らせる。
「薬材検査とのことですが、令状を拝見します」
男の眉が上がった。
「見習いが令状を見るのか」
「薬室を開ける以上、記録に残します」
ニナは震える手で帳簿を開いた。
「お名前、所属、検査目的、持ち込み薬材の有無をお願いします」
後ろの兵が小さく笑った。
味方の笑いだ。
ニナの背中が少しだけ伸びる。
男は不機嫌そうに紙を出した。
令状には、王都薬師局の印がある。
ただし、日付が古い。
リゼットが王都へ呼ばれる前の日付。
「この令状では、今日の検査理由が分かりません」
ニナが言うと、男の顔が歪んだ。
「理由など、王都の命令で十分だ」
「では、薬室の奥には入れません」
声が震えた。
でも、言えた。
その瞬間、男の一人が薬棚へ向かって動いた。
兵が前に立つ。
「許可なく棚には触れるな」
「邪魔をするなら、砦ごと処罰対象に」
「その処罰記録も残す」
低い声がした。
入ってきたのは、砦の副官だった。
王弟不在の間、砦を預かる人だ。
「辺境薬室は、王弟殿下の臨時管理下にある。検査なら、正式な日付と立会人をそろえろ」
王都の使者たちは顔を見合わせた。
その隙に、ニナは一人の袖口を見た。
青い糸。
ほんの少し、縫い目に混じっている。
王都で聞いた、トーマの袖口と同じ色。
ニナの喉が鳴った。
「副官様」
「何だ」
「持ち込み薬材の確認をしたいです」
使者の顔が変わった。
「何を」
「薬室へ入る方は、外から薬材を持ち込んでいないか確認します。リゼット様の決まりです」
そんな決まりは、昨日作った。
でも、薬室を守るためなら必要な決まりだ。
副官が頷く。
「確認しろ」
兵が使者たちを調べる。
一人の懐から、小さな紙包みが出た。
白い粉。
ニナの背筋が冷える。
もしこれを薬棚に入れられていたら。
辺境薬室で毒を作っていたと、言われていたかもしれない。
「これは何ですか」
ニナが尋ねる。
使者は黙った。
答えられない。
副官が紙包みを受け取り、兵へ命じる。
「拘束しろ」
使者たちが騒ぎ出す。
だが、辺境の兵は王都の廊下にいる護衛とは違う。
薬室を守る意味を知っている。
ニナは震える膝を押さえた。
怖かった。
とても怖かった。
でも、薬室は守った。
「リゼット様」
小さくつぶやく。
「薬室は、空ではありません」
その日の夕方、辺境から早馬が王都へ出た。
王都薬師局の古い令状。
青い糸の袖。
持ち込み白粉。
そして、ニナの記録。
王都へ戻る頃、リゼットはまだ知らない。
自分が育てた見習いが、最初の反撃をやり遂げたことを。




