第13話「クラリスは嘘をつけなかった」
「トーマ様が……」
倒れた兵の言葉は、そこで途切れた。
私はすぐに薬箱を開いた。
「水を」
ラーニャが近くの祭祀官から水袋を奪うように受け取り、私へ渡した。
兵の唇を湿らせる。
舌の奥に残る甘い匂い。
白眠草ではない。
もっと強い、口を閉ざすための薬。
少量なら眠気。
多ければ、混乱と吐き気。
王宮で口止めに使うようなものではない。
いや。
使う者がいるから、私はここにいる。
「飲まされたのはいつですか」
兵は答えようとした。
けれど喉が鳴るだけだった。
私は手首を押さえ、脈を数える。
「話さなくていいです。指で答えてください。今日なら一回。昨日なら二回」
兵の指が一度だけ動いた。
今日。
「誰に」
兵の目が横へ揺れた。
レオンハルト殿下のいる方ではない。
モーリスでもない。
礼拝堂の奥。
そこには、クラリスがいた。
護衛に挟まれたまま、青ざめている。
兵は彼女を見たわけではない。
その後ろの扉を見ていた。
第二王子宮へ通じる小廊下。
トーマが逃げ込むなら、そこだ。
エルネスト殿下がグラント卿へ視線を送る。
「第二王子宮の小廊下を封鎖しろ」
グラント卿が兵に合図を出す。
廊下が一気に動き出した。
そのざわめきの中で、クラリスの護衛も彼女を連れて下がろうとした。
「待って」
私は思わず声を上げた。
護衛が振り返る。
「子爵令嬢はお疲れだ」
「その方は祈祷花の確認に来たはずです。確認記録に署名が必要です」
嘘ではない。
準備室の帳簿には、祈祷花の確認欄があった。
クラリスはそこで足を止めた。
護衛の指が、彼女の腕に食い込む。
「不要です」
「必要です」
私は帳簿を開いた。
「祈祷花は昨日まで西の温室にあったと、クラリス様が仰いました。搬入経路が変わったなら、確認者の名を残します」
護衛の目が鋭くなる。
「何を疑っている」
「記録の空白です」
私はまっすぐに返した。
「空白は、あとから誰かを犯人にするのに使われます」
クラリスの肩が震えた。
それは、彼女に届いた。
「署名します」
小さな声だった。
護衛がすぐに言う。
「クラリス様」
「署名します」
今度は少し強かった。
私は帳簿を持って彼女へ近づいた。
ラーニャがさりげなく横へ立つ。
護衛との間に、薄い壁を作るように。
クラリスはペンを持った。
指が震えている。
インクが紙に落ち、小さな黒い点を作った。
「リゼット様」
彼女は署名しながら、声を落とした。
「私は、あなたを嫌っていました」
突然の言葉に、私は返事を失った。
「あなたが何でもできるから。レオンハルト様が、あなたの話ばかりしていた頃があったから。モーリス様が、あなたの配合案を褒めていたから」
ペン先が紙を引っかく。
「だから、婚約破棄の夜、私は少しだけ嬉しかった」
胸が痛んだ。
けれど、それはもう昔の痛みとは違った。
「今それを言う理由は」
私が尋ねると、クラリスは顔を上げなかった。
「そのせいで、見ないふりをしたからです」
護衛が一歩近づく。
ラーニャの手が剣に触れた。
クラリスは震えたまま続ける。
「レオンハルト様の部屋に、あなたの薬草記録があった。モーリス様が出入りしていた。トーマが紙束を運んでいた。私は、知っていたのに、知らないことにしました」
「クラリス様、それ以上は」
護衛の声が荒くなる。
エルネスト殿下が静かに言った。
「子爵令嬢の署名を邪魔するな」
護衛は黙った。
王弟の声は、大きくなくても通る。
クラリスは署名を終えた。
そして、帳簿の余白へ小さな印を描いた。
花のような、星のような印。
「これは?」
「私の侍女が使う合図です」
クラリスはようやく私を見た。
「私の部屋には、今もレオンハルト様から預かった箱があります。中は見ていません。でも、祈祷式の前まで開けるなと言われました」
「どこに」
「南棟の子爵令嬢控室。けれど、もう運び出されるかもしれません」
護衛の顔が変わった。
隠すのが遅すぎた。
「クラリス様を保護します」
グラント卿が言った。
護衛二人が動く。
そのうち一人がクラリスの腕を強く引いた。
「お戻りいただきます」
「離して」
クラリスの声はか細い。
けれど、今度は自分で言った。
「私は、戻りません」
護衛が舌打ちした。
次の瞬間、ラーニャの鞘が護衛の手首を打った。
短い音。
護衛の手から力が抜ける。
「失礼」
ラーニャは平然と言った。
「滑った」
誰も信じなかった。
でも、誰も責めなかった。
グラント卿の兵が護衛を押さえる。
クラリスはその場に崩れそうになり、私は反射的に支えた。
彼女は軽かった。
驚くほど。
「私を助けるのですか」
クラリスがつぶやく。
「まだ助けたとは言えません」
私は彼女の腕を支えながら言った。
「でも、証言できる人をここで潰させません」
彼女の目が揺れた。
「私は、あなたを傷つけました」
「ええ」
否定はしなかった。
「だから、これからは見ないふりをしないでください」
クラリスは唇を噛み、深く頷いた。
その時、第二王子宮へ続く小廊下から兵が戻ってきた。
「トーマの姿はありません! ただし、隠し扉の奥に書類の燃え残りが」
エルネスト殿下の目が鋭くなる。
「燃え残りを保護しろ」
「それと」
兵は一瞬ためらった。
「南棟の子爵令嬢控室へ、第二王子宮の者が向かっています」
クラリスの顔から血の気が引いた。
「箱を」
私は薬箱を閉じた。
「取りに行きましょう」
「君が行く必要はない」
エルネスト殿下が言った。
その声には心配があった。
命令ではない。
だから、私は答えられた。
「箱の中身が薬材なら、私が見たほうが早いです」
「危険だ」
「危険だから、早く見ます」
殿下は一瞬だけ目を閉じた。
そして、短く頷いた。
「ラーニャ、同行しろ。ハロルド、記録を」
「承知しました」
南棟へ向かう廊下は、人の気配が少なかった。
祈祷式の準備で、皆が礼拝堂側へ集まっているからだ。
その静けさが、逆に怖い。
クラリスは私の隣を歩いた。
足取りは不安定だが、戻るとは言わなかった。
「箱は、赤い布で包まれています」
「誰から」
「レオンハルト様です。『お前の忠誠を示す機会だ』と」
私は胸の奥に苦いものを感じた。
忠誠。
便利な言葉だ。
疑わせず、断らせず、罪を背負わせる。
控室の扉が見えた。
その前に、男が一人立っている。
第二王子宮の従者服。
彼は私たちを見るなり、扉を開けようとした。
「止まって」
ラーニャの声で、男の肩が跳ねる。
それでも彼は扉へ手を伸ばした。
ラーニャが一歩で詰める。
男は逃げようとして、床に膝をついた。
その手には小さな鍵がある。
クラリスが震えた。
「それは、私の部屋の鍵ではありません」
ならば、別の鍵。
合鍵だ。
私は扉を開けた。
控室の中は、綺麗に整えられていた。
香水。
絹の手袋。
祈祷式用の白い外套。
そして、机の下に赤い布の箱。
私は箱へ近づいた。
「触らないでください」
まず匂いを嗅ぐ。
甘い。
水差しと同じではない。
こちらは、乾いた薬草と鉄の匂い。
箱の留め具には封蝋がある。
第二王子宮の印。
そして、もう一つ。
見覚えのある小さな傷。
セルドの革札に似た刻み。
「開けます」
ハロルドが記録の準備をする。
私は布を外し、留め具を開いた。
中に入っていたのは、小瓶が三つ。
白い粉。
青い糸。
そして、折りたたまれた紙。
紙には、クラリスの筆跡に似せた文字で書かれていた。
「清めの水は、子爵令嬢クラリスの指示により交換」
クラリスが息をのむ。
「違います。私は、こんな」
「分かっています」
私は紙を灯りへかざした。
筆跡は似せている。
でも、力の入り方が違う。
クラリスの署名は、さっき震えていた。
この文字は、震えを真似している。
真似がうますぎる。
書記官の仕事だ。
「これは、あなたに罪をかぶせるための箱です」
クラリスの膝が崩れた。
ラーニャが支える。
私は小瓶を見る。
白い粉は白眠草。
青い糸は、トーマの袖口と同じ色。
わざと入れたのか。
それとも、誰かが急いで詰めたのか。
どちらにせよ、箱は決定的だった。
クラリスを犯人にし、トーマを消し、第二王子宮を守るための箱。
その箱が、開けられる前に見つかった。
ハロルドが低く言う。
「これは強い」
「強いですが、危ない証拠です」
私は箱を閉じた。
「相手は、クラリス様を捨てるつもりです」
クラリスは泣いていなかった。
顔は真っ白なのに、目だけが乾いている。
「リゼット様」
彼女は震える声で言った。
「私は、証言します」
私は彼女を見た。
「何を」
「あなたの記録が、レオンハルト様の部屋にあったこと。モーリス様がそれを写していたこと。トーマが私の筆跡を練習していたこと」
胸が鳴った。
それは、私がずっと欲しかった証言だった。
けれど、同時に彼女の命を危険にする言葉でもある。
「証言すれば、あなたも責められます」
「分かっています」
クラリスは唇を噛んだ。
「それでも、もう知らなかったとは言えません」
その時、窓の外で何かが光った。
ラーニャが私を押し倒す。
次の瞬間、窓硝子が割れた。
床に落ちたのは、短い矢。
先端に黒い薬が塗られている。
狙いは、箱ではない。
クラリスだった。
私は割れた窓の向こうを見た。
王宮の屋根の影に、人影が消える。
クラリスが証言を決めた瞬間、口を封じに来た。
彼女はもう、ただの敵役ではない。
守るべき証人になった。




