第12話「清めの水を止めた薬師令嬢」
銀の水差しを載せた運搬台は、礼拝堂へ向かっていた。
車輪の音が、白い石の廊下に細く響く。
私は薬箱を抱え直した。
走りたい。
けれど、走れば止められる。
礼拝堂の廊下には祭祀官の見張りがいる。王宮の中で、薬師が声を荒らげれば、それだけで追い出す理由になる。
「リゼット」
ラーニャが横に並ぶ。
「合図をくれれば、台ごと倒せる」
「駄目」
私は小声で返した。
「倒せば、水差しも中身も失われます。相手は『不注意で壊した』と言えます」
「じゃあ、どうする」
「礼拝堂へ入ったあと、清めの水として使えない理由を作ります」
ハロルドが私の後ろで帳簿の写しを挟み直した。
「理由はある。交換時刻の改ざん、底の残留物、第二王子宮の搬入」
「全部、調べる時間が必要です」
今すぐ毒だと叫んでも、証拠を奪われる。
でも、儀式の品として不備があると示せば、少なくとも使用は止められる。
薬師として。
点検役として。
私はその名目でここにいる。
礼拝堂の扉が見えてきた。
高い扉の前には、祭祀官が二人立っている。
運搬台の係官が頭を下げた。
「清めの水をお持ちしました」
「予定より早いな」
祭祀官の一人が帳簿を見る。
係官はすぐに答えた。
「祈祷花の配置変更に合わせるよう、第二王子宮より」
そこで言葉を切った。
言いすぎたと気づいたのだろう。
私は一歩前へ出た。
「お待ちください」
祭祀官の視線が一斉にこちらへ向く。
「誰だ」
「薬草飾りの点検を命じられた、辺境薬室臨時管理官リゼット・アルヴェーンです」
その名を聞いた瞬間、係官の顔が強ばった。
私が審問にかけられたことは、もう王宮中に広がっている。
追放令嬢。
王弟に取り入った薬師。
そう思われているのも分かっている。
だからこそ、私は声を落ち着けた。
「清めの水差しに、薬草飾り由来ではない白い膜が残っていました。祭祀品として使用前の再点検を求めます」
「白い膜?」
祭祀官が眉をひそめる。
係官が慌てて言った。
「水差しは洗浄済みです。その女は審問中の身で」
「保留中です」
私はすぐに返した。
「そして今は、薬草飾りの点検役として札を受けています」
ハロルドがグラント卿の札を差し出した。
祭祀官は札を見て、黙った。
ここで効くのは、私の言葉ではない。
王宮の手続きだ。
私は薬箱から先ほどの試験紙を取り出した。
淡い紫に変わった紙。
「祈祷式では、清めの水を王族と高位貴族が口にされます。少しでも異物の疑いがあるなら、点検を省くべきではありません」
「毒だと言うのか」
祭祀官の声が低くなる。
廊下の空気が冷えた。
毒という言葉は、王宮では刃物より扱いにくい。
私は首を横に振った。
「断定はしません。ですが、使用許可は出せません」
言い切った。
胸の奥が震える。
それでも、視線はそらさなかった。
「私が点検役として署名するなら、この水は通せません」
係官が前に出る。
「たかが薬師見習いが、祈祷式を止めるつもりか」
その声に、昔の私なら縮こまった。
王宮薬草庫で何度も聞いた声だ。
身分を出されれば、黙るしかない。
でも、もう違う。
「見習いではありません」
私は薬箱に手を置いた。
「辺境薬室臨時管理官です。王弟殿下の命を預かり、領民の薬を管理しています」
「辺境の役職など」
「王弟殿下の承認があります」
廊下の向こうで足音がした。
ゆっくりと、しかし迷いなく。
エルネスト殿下が歩いてくる。
礼拝堂には入れないはずだった。
けれど廊下までは来られる。
「その通りだ」
殿下の声で、係官が固まった。
「リゼット・アルヴェーンは私の承認した薬室管理官だ。彼女が異物混入の疑いを示したなら、私はその水を口にしない」
祭祀官たちの顔色が変わる。
王弟が口にしない清めの水を、他の王族に出せるはずがない。
係官は口を開きかけたが、言葉にならなかった。
その時、礼拝堂の内側から第二王子レオンハルトが現れた。
金の刺繍を入れた礼装。
その隣に、モーリス・ダルトン。
胸の奥が冷えた。
また、この二人だ。
「叔父上」
レオンハルト殿下は笑みを作った。
「祈祷式の準備にまで、辺境の薬師を連れ込むとは」
エルネスト殿下は動じない。
「私が飲む水だ。確認する理由はある」
「では、私が先に飲みましょう」
レオンハルト殿下が水差しへ手を伸ばした。
廊下がざわめく。
私は息を止めた。
本当に飲むつもりか。
それとも、毒ではないと見せるためか。
違う。
量だ。
水差しの中身がすでに薄められていれば、少量を口にするだけでは倒れない。
本番では祈祷の前に別の薬や香と合わせるつもりかもしれない。
「おやめください」
私は反射的に言った。
レオンハルト殿下の目が細くなる。
「私を案じているのか」
「いいえ」
私ははっきり答えた。
「証拠を壊されたくありません」
一瞬、廊下が静まり返った。
ラーニャが小さく息をのむ。
言いすぎたかもしれない。
でも、ここで曖昧にすれば負ける。
レオンハルト殿下の笑みが消えた。
「証拠?」
「はい。水差しの底には白眠草と苦殻に反応する残留物があります。清めの水として使えば、王族か高位貴族が祈祷中に倒れる可能性があります」
モーリスが鼻で笑った。
「白眠草など、香袋にも使われる。過敏に騒ぐな」
「香袋に使う白眠草は乾燥葉です。水差しの底に残る抽出膜とは違います」
私は薬箱から小瓶を出した。
「反応紙があります。今ここで、祭祀官様の前で確認できます」
モーリスの口元がかすかに引きつる。
その一瞬を、私は見逃さなかった。
「確認しましょう」
グラント卿の声が廊下の向こうから響いた。
彼は国王陛下の側近を二人連れていた。
「祭祀品に異物混入の疑い。王族が口にする品である以上、陛下預かりとします」
レオンハルト殿下が声を荒げた。
「また陛下の名を使うのか!」
「必要ならば」
グラント卿は淡々としていた。
「清めの水は封印。代替の水は、礼拝堂控えの泉より祭祀官立会いで汲み直します」
「祈祷式を遅らせるつもりか」
「王族を倒れさせるよりはよろしいかと」
短い沈黙。
その場の誰も、反論できなかった。
祭祀官が水差しへ封布をかける。
係官の顔は真っ青だった。
私はそこで、ようやく息を吐いた。
止めた。
少なくとも、この水は使われない。
けれど勝ったとは思えない。
誰が混ぜたのか。
誰が運ばせたのか。
何の混乱を起こすつもりだったのか。
まだ分からない。
レオンハルト殿下が私を見る。
その目に、昔の婚約者の面影はほとんどなかった。
あるのは怒りと、焦り。
「リゼット」
彼は低く言った。
「いつから、お前はそこまで偉くなった」
胸の奥に、古い痛みが刺さる。
でも、痛みは私を黙らせなかった。
「偉くなったわけではありません」
私は答えた。
「薬を見て、人を倒すものを止めただけです」
エルネスト殿下が私の隣に立つ。
それだけで、廊下の空気が変わった。
レオンハルト殿下は舌打ちするように視線をそらした。
モーリスは水差しを見ている。
水ではない。
封布の結び目だ。
封印されると困るのだ。
やはり、この水差しには何かが残っている。
グラント卿が言った。
「水差しを証拠室へ」
「お待ちください」
声を上げたのは、モーリスだった。
「薬師局としても確認を」
「薬師局は関係者として後ほど立ち会っていただく」
「関係者とは失礼な」
「では、無関係だと証明してください」
モーリスの顔から血の気が引いた。
小さな、けれど確かな逆転だった。
廊下の端で、クラリスが立っていた。
護衛に挟まれたまま。
彼女は封印された水差しを見て、唇を震わせている。
私と目が合った。
今度は、彼女が先にそらさなかった。
何かを決めかけている顔だった。
その直後、礼拝堂の鐘が一度鳴った。
祈祷式は、まだ始まっていない。
けれど王宮の中では、別の儀式が始まっていた。
誰が毒を運び。
誰が記録を削り。
誰がそれを隠そうとしたのか。
私は薬箱を抱え直した。
その時、封印された水差しを運ぶ兵の一人が、足をもつれさせた。
わざとだ。
ラーニャが動く。
兵の手から落ちかけた水差しを、彼女が片手で受け止めた。
封布は破れていない。
けれど兵は、床へ倒れたまま震えていた。
「申し訳、ありません」
その声に、私は違和感を覚えた。
怯えている。
失敗を恐れているのではない。
何かを飲まされている人の震え方だ。
私は膝をついた。
兵の唇が白い。
舌の奥に、わずかな甘い匂い。
「この方も、飲んでいます」
廊下がざわめいた。
私は兵の手首を取る。
脈が速い。
「清めの水とは別に、口止めの薬を飲まされています」
兵の目が揺れた。
そして、かすれた声で言った。
「水を、礼拝堂へ運べば……弟を、返すと」
その場の空気が凍った。
弟。
人質。
クラリスだけではない。
運ばされた者まで、脅されている。
私は兵の手を握った。
「大丈夫。話せるだけ話してください」
兵は震えながら、たった一つの名を口にした。
「トーマ様が……」
書記官トーマ。
第十話の審問に姿を見せなかった男。
逃げていると思っていた。
だが、まだ王宮の中で動いている。
封印された水差しよりも重い沈黙が、廊下に落ちた。
次に追うべき相手が、はっきりした。




