第6話 外の世界
玄関を出ると、朝の外気が肌を撫でた。
冷たいというほどではない。しかし魔界の風とはまるで違う。血と硫黄と瘴気をほどよく混ぜた、あの懐かしい刺激がない。
建物の廊下は民家というより箱を積み重ねた巣の内部めいて狭く、白い壁は妙に均一で、遠くからは人間どもの話し声と車とやらが地を這う低い唸りが、石畳を踏む軍靴の響きとはまるで異なる調子で流れ込んでくる。
階段を一段ずつ下りるたび、私はこの身体の軽さと頼りなさを骨の内側から思い知らされた。
軽い。
いや、あまりにも軽すぎる。
一段下りるごとに骨と肉が「我々は戦闘向きではありません」と律儀に申告してくる。
魔王の肉体というより、まるで突風にさらわれた領収書が己の運命も知らず空を舞っているような有様である。
それだけではない。
私が驚いたのは、まず何よりも“外の世界”である。
風の匂いに魔力は混じらず、空を見上げても二つの月はない。世界の綻びから染み出す黒い瘴気も、天を裂いて飛ぶ竜の影も戦場の前触れのような血と鉄の気配も、どこにも漂っていない。
代わりに広がっているのは果てしなく青い、恐ろしいほど平坦な空であった。
定規で測ったかのように並ぶ建物や空を横切る黒い電線。
色とりどりの看板と、やけに硬く整えられた道路。
その上を何食わぬ顔で行き交う無数の人間どもの姿が、そこにはあった。
構造そのものが違う。
骨格から匂いから、空の色から、あまりにも違いすぎる。
私の知る都市とは、城壁の厚みや市場の位置、神殿の高さ、兵舎の向き、それらを一瞥するだけでどこに権力が座し、どこに信仰が溜まり、どこから兵が流れ、どの路地に貧者の怒りが沈殿しているかを読み取れる場所であり、街そのものが巨大な戦況図であった。
この世界の街は、その読み方を拒んでいるように見える。
誰も剣を帯びていない。
誰も鎧をまとっていない。
誰も魔獣の背にまたがっていない。
それでいて人々は見えぬ鞭に追われる家畜のように、あるいは不可視の王命を受けた伝令のように手元の小さな発光板へ目を吸い寄せられたまま足だけを器用に前へ運んでいる。
道の脇では車という名の鉄の箱どもが牙を隠した獣のように低く唸っていた。
平和に見える。
吐き気がするほど、平和に見える。
ゆえにこそ、不気味であった。
平和とは争いが存在しない清らかな状態を指すのではない。強者が人々の目に触れぬ場所で仕組みを支配し、民が己を縛る鎖の形さえ知らぬまま誰も剣を向ける相手を見つけられなくなった状態をも意味する。
この世界の王は、いったいどこに潜んでいる。
誰が民を動かし誰が金を集め、誰がこの鉄の箱どもを道に放ち、誰が人間どもの視線を小さな発光板へ縫いつけているのだ?
「ほら、ぼーっとしない。電車遅れる」
先を歩いていた里緒奈が、肩越しに振り返って言った。
電車。
その言葉に反応した器の記憶が、霧の奥から引きずり出されるように、ぼんやりと像を結んでいく。
鉄の蛇。
大量の人間を腹の内へ呑み込み、あらかじめ定められた道筋を、凄まじい速度で這い進む乗り物。
なるほど、大量輸送用の魔獣か。
否、どうやら魔獣ではないらしい。
少なくとも、この男の記憶を辿る限りでは。
しかし困ったな。
私は歩きながら、里緒奈の横顔を盗み見た。
彼女は何気ない素振りを装いながらも、自然にこちらの歩幅へ合わせている。時折こちらの顔色を確かめ、妙に古めかしくなった言葉遣いを怪しみながら、心配と疑念を同じ皿の上に載せて持ち歩いているようだった。
そこで私は、やはり最初に思いついた一つの戦略を改めて定め直すことにした。
青山タツヤの記憶が曖昧である以上、完全に普段通りを演じることは不可能であり、無理に平常を装えば装うほど綻びは大きくなるだろう。そしてやがて不自然さは疑惑となり、疑惑は追及となり、追及は病院という名の治癒院送りへつながるやもしれぬ。
ならばいっそ異常を隠しきろうとするのではなく、「寝不足と軽い記憶混濁により、少しばかり様子がおかしい」という状態に偽装するほうが現実的であった。
この世界では、“体調不良”というものが思いのほか便利な盾になるらしい。
しかも里緒奈は心配性で世話焼きで、青山タツヤの過去にもかなり詳しい。
この世界における最初の案内役として、これ以上の駒はそうそう望めぬ。
問題は、その駒があまりにも近い位置にいることだった。
距離の近い味方ほど、誤魔化しは難しい。
城門の前に立つ敵兵より、寝所の扉の前に控える侍女のほうが恐ろしい場合など、魔王城では珍しくもなかった。
私は言葉の刃先を慎重に丸めてから口を開いた。
「リオ。今日の飲み会には、どれほどの人数が集まる?」
里緒奈は歩調を緩めることなく答えた。
「たぶん十五人くらいかな。文学サークルにしては多いほう。新歓ほどじゃないけど、夏休み前だし、テスト前に一回集まっとこって感じ」
十五人。
小規模な会議である。
酒が入るなら、舌の錠前は緩み、隠していた情報は杯の底から浮き上がるだろうし、人間関係の線もまた酔いに照らされてくっきりと見えてくるだろう。
派閥、序列、好意、敵意、劣等感、虚栄心。
酔った人間は、戦場で捕らえた密偵よりよほど素直に喋るのだ。
実に都合がよい。
「小春という……小春ちゃんも来るのか?」
「来るって。あと、あんたが苦手な三橋も来るよ」
三橋。
その名を聞いた途端、記憶の底に沈んでいた断片が泥水をかき回されたように浮かび上がった。
背の高い男。
声が大きい。
女子の前でよく笑う。
やたらと肩を組んでくる。
青山タツヤを、悪意の牙を見せぬまま軽くいじる。
明確な憎悪ではない。
殺意を抱くほどでもない。
胸の奥に残った感覚を言語にするなら、それはただ一つだった。
面倒くさい。
つまり、面倒くさい男。
なるほど、ライバルか、厄介者か、あるいは宴席に必ず一体は湧く騒音兵器である。
「俺は、その三橋が苦手なのか?」
「自覚ないの?あんた、三橋くんに絡まれると毎回すごい顔してるよ」
「すごい顔」
「うん。魂だけ別の部屋に避難してるみたいな顔」
それはもはや表情ではない。
脱出である。
「まあ、悪い人じゃないんだけどね。陽キャ圧が強いから」
陽キャ。
余はその奇怪な響きを、舌の上で毒味するように心の中でゆっくりと反芻した。
陽の者。
太陽に属する者。
すなわち、光属性か。
勇者めいた気配を感じる。
そのうえ圧が強いという。
光属性で、圧が強い。
最悪である。
聖騎士団の先鋒か神殿から派遣された説教好きの突撃兵か、いずれにせよ、こちらの精神を削る類いの存在に違いない。
「警戒しておこう」
「いや、そこまでしなくていいから」
里緒奈は呆れたように言ったものの、私の胸中から警戒の旗が降ろされることはなかった。
この世界には剣も鎧も見当たらない。
ゆえに敵がいない、などという甘い結論を出すほど私は愚かではない。
むしろ笑顔で近づき、肩を組み、親しげな声で領域を侵してくる光属性の男など、血飛沫の上がる戦場よりよほど厄介である。
なぜなら斬れない。
そして、たぶん断りづらい。
駅へ着くと、そこには人間の群れがまるで見えざる水路に流し込まれた魚の群れのように、互いの肩をぶつけぬぎりぎりの距離を保ちながら驚くほど一定の秩序をもって流れていた。改札と呼ばれる門の前では、老いた者も若い者も荷物を抱えた者も、眠気を顔に貼りつけた者も、それぞれ小さな板や札を手にして門柱の一部へ軽くかざすだけで次々と内側へ吸い込まれていった。私は一瞬その場に立ち止まり、目の前の仕組みを観察した。門番はいない。槍を構えた衛兵もいない。通行税を徴収する役人の姿もなく、門扉には魔法陣の輝きも封印術式の刻印も、聖堂都市の関所にありがちな偉そうな神官の咳払いも見当たらない。それにもかかわらず料金を支払った者だけが音もなく許され、資格のない者は弾かれるらしいその構造は、魔力なき世界における結界の一種と考えるほかなく、私はしばし感心と警戒を等分に混ぜた目でその無人の門を見据えていた。里緒奈が私の腕を軽く引いた。
「なにしてんの。Suica出して」
すいか。果物ではない。少なくとも、この場で緑の皮に包まれた大玉を取り出し、門へ叩きつける儀式ではないはずだ。私は器の記憶を頼りに財布を開いて緑色を帯びた薄い板を取り出すと、周囲の人間たちの所作を一つひとつ盗み見ながら見よう見まねで改札へかざした。ピッ、という小鳥の鳴き声にも似た短い音が響き、目の前の扉が従順に開く。私は少し感動した。なるほど、この世界の小さな板は通行許可証にも金銭の代替にも、身分を示す札にもなるらしい。魔力は存在しないくせに、生活を支える術式だけは恐ろしく発達しており、人間という種族はどうやら自らの非力さを補うためなら、王国ひとつ分の魔導師団にも匹敵する執念で奇妙な道具を生み出すものらしい。
階段を下って地下とも地上ともつかぬ石と鉄の通路を抜けると、ホームと呼ばれる細長い待機場所に立った。しばらくして遠くの闇から低い唸りが押し寄せ、巨大な鉄の箱が轟音と風をまとって滑り込んできたため、私は反射的に足を引きながら全身の力を戦闘態勢へ移しかけた。これが記憶の中にあった鉄の大蛇か。長大な胴の内側には人間がぎっしり詰め込まれ、透明な窓の向こうには疲れた顔に眠った顔、無表情な顔や発光板を見下ろす顔が所狭しと並んでいる。扉が開くと大蛇は腹の中から人間を吐き出し、吐き出しきらぬうちに新たな人間を飲み込んでいく。なんという乗り物だ。魔王軍の輸送魔獣でさえもう少し生き物としての情緒があり、餌を食うときには尻尾を振り、機嫌の悪い朝には飼育係の腕くらい噛んで自己主張をしたものだというのに…。この鉄の大蛇は泣きも笑いも怒りもせず、ただ正確に人間を運ぶためだけに造られているらしかった。
電車の中は嫌気が差すほどに混んでいた。人と人との距離が近すぎる。戦場なら短剣が何本も腹や脇腹へ滑り込む距離だぞ?暗殺者なら歓喜し、近衛なら即座に主君を壁際へ移す密度である。私は周囲の気配に神経を尖らせながらも、肩の動きに手の位置、視線の流れと足の踏み込みを一つずつ拾おうとしたものの、乗客たちは互いの存在を見て見ぬふりをするという奇妙な芸当に長けており、ある者は発光板を無言で見つめ、ある者は耳に小さな装置を差し、ある者は吊り下げられた広告をぼんやり眺め、またある者は立ったまま目を閉じ、己の肉体をこの揺れる箱へ預けきって眠っていた。人間社会の不思議なところは、ここまで密集していながら誰も他者と関わっていないように振る舞う点である。肩が触れて息が届き、鞄が足に当たり、互いの疲労や体温さえ薄く伝わる距離にいながら、そこには会話も争いも同盟も求愛も生まれず、ただ無数の孤独が一つの箱に押し込められ、同じ方向へ運ばれていく。魔族の宴なら、これだけ近ければ喧嘩か求愛か同盟交渉が始まっており、三呼吸以内に誰かの杯が割れ、五呼吸以内に家名を賭けた決闘が宣言され、十呼吸後にはなぜか婚姻の話に発展しているところだ。
「青山、つり革持ちなよ」と里緒奈が言う。私は頭上から垂れる輪を掴んだ。車体が揺れ、床が足裏から逃げるように震えたため、私は膝と腰で揺れを受けつつもかろうじて姿勢を保つ。隣の会社員らしき男は目の下に深い疲れを沈めたまま眠そうな顔で前後に揺れており、その姿には戦場帰りの兵士にも似た諦念と、家畜小屋の中で運命を受け入れた牛にも似た静かな忍耐が同居していた。
…これが日常なのか。毎朝鉄の箱に押し込まれ、見知らぬ者たちと息を殺し、揺られ、どこかへ運ばれ、また夜になれば同じ鉄の箱で戻ってくる。人間は弱いと言いながら、案外と奇妙な耐久力を持っているではないか。




