第7話 いや、だからその喋り方
里緒奈は私の横で、片手に持ったスマホへ視線を落としたままこちらの命運を何気なく左右する軍師のような口ぶりで言った。
「飲み会、一次会だけで帰ってもいいからね。無理に二次会まで行かなくていいし、小春ちゃんと話すにしても、変に気合い入れすぎないほうがいいよ」
私は二次会という言葉を聞き、この世界の酒宴が一度の乾杯で終わる簡素な儀式ではなく、第一次酒宴、第二次酒宴という段階的侵攻作戦のような構成を持っていることを知った。なるほど、戦争に似ている。最初の会戦で敵味方の腹を探り、生き残った者たちが第二戦線へ移動し、そこでより深い同盟、裏切り、失言、酩酊、そして翌日の後悔が生まれるという仕組みなのだろう。
「気合いを入れすぎるとは、具体的に何を指す」
私が問い返すと里緒奈はスマホから顔を上げ、わずかに眉を寄せた。
「いや、だからその喋り方。あと、急に距離詰めすぎるとか、恋愛経験ないのに恋愛論語り出すとか、変な武勇伝話すとか。小春ちゃんは穏やかな子だから、普通に本の話とか映画の話すればいいんじゃない?」
武勇伝なら山ほどある。古竜討伐、七王国制圧、勇者との決戦、神殿焼き討ち、反乱鎮圧、毒杯を飲み干して平然と宴を続けた話、配下の裏切りを事前に察知して裏切り者本人に処刑台の設計を命じた話、数え上げれば夜明けまで語れるほど蓄えはあるものの、そのいずれも小春という穏やかな女との初歩的な会話には向かなそうであった。私はひとまず、現代の若者における無難な話題という名の安全地帯を胸に刻むべく、「本と映画の話だな」と頷いた。器の記憶を探ると、青山タツヤは映画を少し見る。本も多少読む。文学サークルに所属している理由も、燃え盛る創作意欲や思想的野心に突き動かされた結果ではなく、里緒奈に誘われてさらに静かそうだからという、風の弱そうな場所を選ぶ草食獣じみた判断によるものらしい。実に情けない。魔族なら静かそうだから軍団に入る者などどこにもいないぞ。いや、暗殺部隊ならいるかもしれないが。
電車を降りて大学へ向かう道を進むにつれ、周囲には青山タツヤと同じ年頃の男女が少しずつ増えていった。肩に軽そうな鞄をかけた者、眠気を顔に残したまま友人と笑う者、手の中の発光板に意識の半分を奪われている者、遠くに見知った顔を見つけて気安く名を呼ぶ者――その姿はばらばらでありながら、彼らは皆、この場所へ通うことに何の疑いも抱いていないように見えた。
なるほど、ここが青山タツヤの戦場である。
剣も魔法もなく、黒炎も聖光も飛び交わず、城壁も軍旗も屍の山も見当たらぬ代わりに、この場所には出席、単位、人間関係、恋愛、サークル、飲み会、就職、既読、未読、そして空気を読むという名の不可視の圧力が、姿なき敵として無数に潜んでいる。しかも厄介なことに、それらは敵意を剥き出しにして襲いかかってくるわけではなく、日常という顔をして人の背後に回り込みながら気づいたときには逃げ道を塞いでいる類いのものらしい。
私はまだ、この世界の戦い方を知らぬ。
相手の心臓を狙うのではなく適切な距離で笑いながら相槌を打ち、話題を選び、沈黙を埋めすぎず踏み込みもしすぎない絶妙な距離感が基本ベースになりそうだが、かといって退きすぎもせず場の温度を乱さぬよう己の言葉を調整するなどという戦場は、魔王として長く生きた私の記憶の中にも存在しなかった。勇者を探すにも、まずはこの青山タツヤという器の生活を維持しなければならぬ。
里緒奈、小春、三橋、文学サークル、飲み会。
一見すれば取るに足らぬ名や集まりにすぎぬそれらも、今の私にとってはすべて情報源であり、同時に罠でもある。こちらが不用意に足を踏み入れれば、魔法陣も毒矢もないまま、噂、沈黙、気まずさ、失言、既読無視といった得体の知れぬ刃によって、社会的に息の根を止められる可能性さえあった。
特に、童貞という称号については判断が難しい。
早急に返上すべき不名誉な烙印なのか、それとも現代社会においては焦る必要のない成長過程の一部なのか、あるいは誰も表立っては口にせぬだけで密かに人間の序列を測るための見えざる紋章として機能しているのか、現時点の私には判然としない。
私は魔王として世界の運命を考えたことはある。どの王国を先に屈服させるべきか、神殿勢力をいかに切り崩すべきか、反乱の芽を摘むには恐怖と恩寵のどちらを先に与えるべきか、その程度の思索なら幾度となく重ねてきた。しかし大学生として飲み会の席に座り、隣の女に何を話せばよいのかを考えた経験は一度たりともなかった。
…ふむ、考えれば考えるほど世界征服より難しい可能性があるな。
やがて、門が見えてきた。
広い敷地を囲む低い柵、その奥に並ぶ無機質な校舎、風に揺れる街路樹、石畳の上を当然のように行き交う若者たちの群れ――それらは青山タツヤの記憶の底に沈んでいた断片と寸分違わぬ、大学と呼ばれる人間の学び舎そのものだった。もっとも、私の目にはそれが学問を求める者たちの聖域というより、朝という号令に従って同じ方角へ流されていく妙に従順な民の行列に見えた。手のひらほどの黒い板を覗き込みながら歩く者もいれば、耳に小さな器具を差し込んで外界との交渉を絶っている者もいる。笑い声を上げる者、眠たげに欠伸を噛み殺す者、誰かに見られることを過剰に意識して髪を整える者。彼らは皆それぞれ自由に振る舞っているつもりなのだろうが、私にはまるで巨大な見えざる河に運ばれ、講義という名の河口へと吸い込まれていく小舟の群れに見えた。
隣を歩く里緒奈が、こちらを見上げてくる。
その視線には幼馴染を心配する女の優しさと、いつ奇行に走るか分からぬ不審者を監視する者の警戒心が、実に人間らしい割合で混ざっていた。
「ほんとに大丈夫? 今日一日、変なこと言わないでよ。小春ちゃんの前で『我は』とか言ったら、私フォローできないからね」
小春。
先ほどから何度か耳にしている名だ。青山タツヤの記憶にも、薄桃色の霧の向こうに揺れるような輪郭だけが残っている。明るい声と柔らかな髪、こちらを見て笑う顔。それが友人なのか恋慕の対象なのか、あるいは青山タツヤという凡庸な若者が胸の奥で密かに崇めていた小さな女神なのかは判然としないが、里緒奈の口ぶりから察するに、私がその者の前で魔王としての正体を露呈させれば、社会的に何らかの致命傷を負うらしい。
ならば慎重に振る舞うべきだ。
私は深く頷いた。
「分かっている。俺は青山タツヤとして振る舞う」
里緒奈はその場で足を止め、私を見た。
先ほどまでの心配は消え、代わりに道端で人間の言葉を喋る狸でも見つけたかのような疑念がその目に浮かんでいた。
「その宣言がもう変なんだけど」
なるほど。人間社会においては、自然に振る舞うための決意表明そのものが不自然と見なされるらしい。厄介な世界である。王であったころならば、「私は王として振る舞う」と宣言しても誰も疑問を抱かなかった。むしろ配下は跪き、楽師は音を奏で、宰相は胃を痛めながら政務の書類を差し出してきたものだ。しかしこの世界では己が己であることを声に出して確認するだけで、幼馴染の眉間に深い溝が刻まれる。権威も肩書も失った魔王とは、かくも扱いが難しい。
私は返す言葉を探す代わりに、空を見上げた。
そこには二つの月も、裂けた黒陽も、竜の影もやはりなかった。ただ薄く晴れた青い空がどこまでも広がっている。魔力の匂いはなく、精霊の囁きもなく、神々の悪意めいた気配すら感じられない。あまりにも空虚で、あまりにも平穏で、だからこそ私には、その青さがどこか不気味に思えた。かつて世界を震わせ、王たちを跪かせ、勇者と黒陽の塔で命を削り合った魔王ゾディアークは今、幼馴染の監視を受けながら大学という名の未知なる迷宮の入口に立っている。剣はなく玉座もない。配下もいなければ戦場に響く鬨の声もない。代わりにあるのは小春という女の存在、飲み会という用途不明の儀式、そして青山タツヤが背負っていたらしい童貞という、魔王の威厳を正面から砕くほどではないにせよ、靴底に小石が入り込んだようにじわじわ尊厳を削ってくる忌まわしき称号だけであった。
だが、よい。
私は心の内で、静かに拳を握った。
まずは情報を集めて人間を知る。この世界の秩序を理解する。青山タツヤという男を演じ、その周囲にいる者たちの関係を見極め、やがてこの魔力なき星のどこかにいるはずの勇者を必ず探し出す。私が求めているのはあの男だけだ。あの剣の輝き、あの目に宿った愚直な光、私の存在を否定しながら、誰よりも強く私をこの世に刻みつけた宿敵との再会。それを果たすためなら、サークルの飲み会だろうと青春という名の理解しがたい祭事だろうと、笑顔で交わされる牽制と好意と虚栄の応酬だろうと、一つ残らずすべて制してみせる。
世界を相手に戦ったこの私に、大学生の酒宴ごときが乗り越えられぬはずがない。
もっとも、この時点の私はまだ知らなかった。
酒と恋と見栄と劣等感、そこに好意の勘違いと友情の建前、さらには誰が誰を好きで、誰が誰に好かれていると思い込み、誰が誰の前で平静を装っているのかという、戦場の布陣図よりもはるかに面倒な情報が絡み合った“若者の集まり”が、時として魔王城の御前会議よりも陰湿で、勇者の聖剣よりも鋭く、古代竜の炎よりもじわじわと胃に来るということを。




