第8話 急にラスボスみたいになってんじゃん
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大学という場所は、私が思い描いていた学び舎とはいささか趣を異にしていた。
本来、知識とはもっと陰惨であるべきだ。
私の記憶にある学び舎は、石造りの塔の奥に閉じこめられた青白い見習いたちが凍えた指で羊皮紙へ呪文を書き写す場所だった。発音を一音でも誤れば眉毛が灰になり、居眠りをすれば師の杖が後頭部へ落ちる。夜更けに禁書を開いた愚か者が「世界の真理を見た」と叫んだ翌朝、水瓶の中で蛙として沈黙していたこともある。
あれこそ学問だ。
命と正気を机の上に置き、代わりに知識を一片だけ持ち帰る。そういう割に合わぬ取引を若さゆえの愚かさで繰り返す場所である。
それに比べて、目の前の大学はどうだ。
門は開かれ、道は広く、建物の窓には朝の光が反射している。掲示板には紙が並び、教室には机と椅子が整然と用意されてはあちらこちらから若者たちが流れ込んでくる。形だけ見れば、たしかに知の砦と呼べなくもない。
ただし、砦にしては守りが軽すぎた。
誰も怯えていない。
眠そうな顔で歩く者がいる。手の中の発光板に視線を奪われたまま、器用に人波をすり抜ける者もいる。友人と笑いながら肩を並べる一団の横では、甘い飲み物を抱えた若者が朝の時点ですでに人生へ小さく勝利したような顔をしていた。
私はしばらく、その光景を眺めていた。
堕落か。
いや、違う。
平和か。
それも少し違う。
これは、おそらく人間特有の傲慢である。
彼らは知識を恐れていない。学び舎へ入るという行為を試練ではなく日課として受け入れている。命を賭ける覚悟も真理に焼かれる緊張も、師に蛙へ変えられる危機感もない。ただ鞄を肩にかけて眠気を引きずり、甘い飲み物の蓋を吸いながら世界の仕組みを受け取りに来ている。
なんと図太い種族だ。
人間は脆い。爪も牙も頼りなく、寿命は短い。少し転べば怪我をして雨に濡れれば体調を崩す。それなのに知識に対してだけは妙に馴れ馴れしい。
まるで真理が朝食のついでに配られるパンか何かだと思っている。
「青山、講義中に変なこと言わないでよ」
隣を歩く里緒奈が、こちらを見ずに言った。
「教授に向かって、『この者は何を司る賢者か』とか聞いたら、本気で置いてくからね」
口調は軽い。
だが、目が笑っていない。
私は学んでいた。この女の「冗談っぽい警告」は、冗談の皮を被った命令である。うかつに聞き流せば、次の瞬間には社会的な首を落とされる。
「分かっている」
私は慎重に頷いた。
「教授とは、この学府における知の管理者。講義とは、若き民へ概念を授ける儀式。私は沈黙をもってその権威に敬意を示す」
里緒奈は足を止めた。
額を押さえた。
「だから、その翻訳された魔族みたいな言い方をやめろって言ってるの」
翻訳された魔族。
ほぼ正解である。
危ない女だ。幼馴染という柔らかな立場に収まっているが、言葉の刃先がやけに鋭い。本人にその気がないぶん、なおさら恐ろしい。こちらが王冠を隠していても、うっかり角の根元を撫で当ててくる。
「ほんと今日どうしたの。口調だけじゃなくて、目つきも変だし」
「目つき?」
「なんか、全員を見下ろしてる」
それは癖だ。
玉座に長く座ると、どうしても視線が高所から降る。
私は慌ててまぶたの奥にある支配者の気配を引っ込めた。威圧はかなり薄めたつもりだったのだが、人間界の日常にはまだ濃かったらしい。
里緒奈は数秒こちらを見つめる。
「……今度は悪だくみしてる顔」
難しい。
ただ歩くだけで疑われる。
ただ黙るだけで怪しまれる。
人間に化けるとは、世界征服よりも細かい技術を要求されるらしい。
一限の教室へ足を踏み入れた瞬間、私は青山タツヤという人間がこの大学なる群れの中でどの程度の位置に置かれているのかを、周囲から向けられる視線の温度とその視線がどれほど早く逸れていくかによって、おおよそ理解した。
誰も私を敵として警戒しない。王として膝を折る者もいない。会話の流れが私を中心に組み替わる気配もない。数人がこちらを一瞥し、里緒奈には慣れた様子で手を振りながら私に対しては「お、青山も来たんだ」程度の、湯気の消えた薄い反応を寄こすだけだった。
これは無視ではない。嫌悪でもない。侮蔑でさえない。
もっと厄介な、存在の希薄さである。
魔王軍における末端の補給係であっても、敵襲の際には所在を確認される。荷車が一台消えれば兵糧の流れが乱れ、矢束の数が足りなければ前線の兵が死に、幕営地の火番が怠れば夜襲ひとつで部隊は崩れる。取るに足らぬ者など戦場には本来存在しない。にもかかわらず青山タツヤは、大学という平和な戦場において悪人として憎まれるわけでも、友人として便利に使われるわけでも、笑いの中心として重宝されるわけでも、恋愛対象として誰かの胸を騒がせるわけでもなく、背景と空気のあいだに挟まった、名前だけはある柔らかな余白のように扱われているらしい。
席に着くまでのわずか数歩で、私はこの器の持ち主に対する評価を改めざるを得なかった。
冴えない男だとは思っていた。顔つきや姿勢、部屋の有様や熊の寝巻き、どれを取っても覇気というものからはほど遠い。とはいえここまで社会的な輪郭が薄いとは想定外である。
記憶の底を探ると、青山タツヤの大学生活はあまりにも慎重で臆病で、そしてら相手任せだった。
講義では前から三番目でも後ろから三番目でもない、教師の目にも友人の誘いにもかかりにくい中途半端な席を選ぶ。指名されぬよう視線を伏せ、グループワークでは誰かが出した方針に「いいと思う」とだけ添え、サークルでは里緒奈が橋渡しをしてくれた相手と辛うじて言葉を交わす。飲み会では自分のグラスが空になっても追加を頼む声を出せず、場が盛り上がる理由をつかめないまま表面だけの笑みを頬に貼り付けていた。
悪意があるわけではない。むしろその逆なのだろう。人を傷つけたくないという小さな善性があり、目立つことへの恐れがあり、失敗した姿を誰かに見られたくないという実に人間らしい弱さもある。問題はそれらを一つずつ丁寧に積み上げた結果、青山タツヤという男が誰の敵にもならないかわりに、誰の心にも深く刻まれぬ存在へと仕上がってしまったことだった。
私は内心で腕を組んだ。
これはいけない。
弱き器であることは仕方がない。魔力がないことも、角がないことも、熊の寝巻きを所有していることもこの世界の事情として一応は受け入れよう。
しかし己の意思を示さぬことだけは、断じて見過ごせない。
講義が始まると、年配の教授が教壇の前に立ち、人間社会における文化表象について語り始めた。
口にする語彙はいちいち難解で、まるで平民が読めぬようわざと飾り立てた宮廷文書のようだったものの、話の芯そのものは王国が神話をいかに利用するか、民衆の物語がどのように権威を支えるか、権力者が象徴を掲げることで群衆の心をどこへ誘導するか、という実に馴染み深い領域に近かった。
私は少しばかり興味を覚えた。
魔王であった私も、象徴の扱いには相応の注意を払ってきた。城の尖塔を黒曜石で築いた理由、軍旗に古竜の骨片を縫い込ませた意図、処刑場をあえて市場の隣に置かなかった判断、民衆に恐怖を染み込ませながらも日々の営みを完全には壊さぬための演出、そのどれもが支配という巨大な仕掛けを支える細い歯車だった。そうした実務の記憶に照らして教授の話を聞いていると、この退屈そうな教室にも意外なほど噛み応えのある知が転がっているものだと感心する。
教授が「権力は暴力そのものだけではなく、暴力が来るかもしれないという予感によっても維持される」と語ったとき、私は思わず低く呟いていた。
「よく分かっている」
隣の里緒奈が、すかさず肘で私の脇腹を突いた。
「小声でもやめて」
囁きは鋭く、肘は思いのほか的確だった。
痛い。
青山タツヤの肉体は、幼馴染の肘打ちにさえ耐性がないらしい。これでよく今まで生き延びてきたものだ。ある意味では、この平和な世界そのものが彼の鎧だったのかもしれない。
講義を終えて教室の外へ出ると、数人のサークル仲間がこちらへ寄ってきた。
最初に現れたのは三橋陽斗という男である。
背は高く、歯は白い。声は大きく、周囲の空気を当然のように自分の領地だと思い込んでいる種類の人間だった。青山タツヤの記憶においては、「悪いやつではないけれど、近くにいると少し疲れる男」という、なんとも平和で曖昧な分類に収められている。
私から見れば、若い雄としては悪くない。
群れの前方へ出る性質を持ち、笑いで場の主導権を奪いながら相手の肩を叩くことで距離を一方的に詰める。魔族社会であれば、小隊長くらいには任じてもよい。もっとも、目の奥に命を賭けた経験はない。致命的な恐怖の底を覗いたことのない者だけが持つ、明るく乾いた自信がそこにはあった。
「おー、青山じゃん。今日ちゃんと来てるの珍しくね? 飲み会バックレるかと思ってたわ」
三橋はそう言いながら、私の肩を軽く叩いた。
私はその手を見た。
青山タツヤの記憶によれば、ここでは曖昧に笑って「いや、まあ」と気の抜けた返事をするのが定石らしい。相手は悪気のない笑みを浮かべ、こちらは少し身を縮め、里緒奈が横から別の話題を差し込む。そんな流れが、これまで何度も繰り返されてきた。
実に不健全だ。
私は三橋の手首を掴まなかった。
掴めば騒ぎになる。まして腕を折るなど論外である。この世界の法は、どうにも面倒な匂いがする。血を流した者より、先に手を出した者のほうが裁かれる仕組みであるなら、私としても不用意な武力行使は避けるべきだった。
代わりに肩へ置かれた手をゆっくりと見下ろしてから、三橋の目を正面から見返した。
「来ると決めた以上、退く理由はない。酒宴の場において誰がどのように振る舞うか、それを見極めることも、今の俺には必要だからな」
言葉を終えた途端、周囲の空気がわずかに硬くなった。
三橋の笑顔がほんの少しだけ固まる。里緒奈は横から慌てた声を差し込んだ。
「ほら、今日ちょっとおかしいんだよ。朝から頭打ったみたいな感じでさ」
私は特に気に留めなかった。
頭を打った程度で魔王になるなら、この世界の病院は今ごろ覇王で溢れている。
三橋は数秒ほど私を見つめたあと、こらえきれなくなったように吹き出した。
「なにそれ、青山どうした?キャラ変?急にラスボスみたいになってんじゃん」
ラスボス。
最後に立ちはだかる者。
悪くない響きである。少なくとも、その他大勢として背景に溶けるよりは遥かにましだ。
「最後に立っている者が強者とは限らぬ。最初からそこに座り、挑む者を待つ者もいる」
三橋はまた笑った。
相馬蓮という細身の男が、横から感心とも呆れともつかぬ声で「今日の青山、語録強いな」と呟く。黒瀬真奈という眼鏡の女は、こちらを観察しながら「昨日、徹夜で変な作品読んだ?」と首を傾げた。
里緒奈は両手で顔を覆った。
「もうやだ、ほんとに今日の青山、私の知ってる青山じゃない」
私の知っている青山でもないので、そこは安心してほしい。
文学サークルの仲間は、三橋陽斗、相馬蓮、黒瀬真奈の三人である。
三橋は陽の気が強く、群れの中心へ自然に歩み出る若い雄。相馬は薄い笑みを口元に浮かべ、他人の言葉を斜めから眺める皮肉屋。黒瀬真奈はおとなしく見えるものの、手元のメモに相手の発言を淡々と刻みつける学者肌の女だった。
青山タツヤは彼らの中で、里緒奈の幼馴染として辛うじて輪郭を与えられていた。たまに課題の話を振られ、文学サークルらしく本や映画の感想を求められては薄い返事を返し、誰かが強めの冗談を投げれば曖昧な笑みで受け流す。領地は持っているものの、隣国に睨まれた途端、城門の鍵を自ら差し出しそうな弱小領主のような位置取りである。
彼自身はその扱いに大きな不満を抱いていなかったらしい。
波風が立たないことを安全と呼び、強く押されれば退き、場が盛り上がれば端で笑う。何かを望んでも「別にいいか」という薄い蓋を被せ、自分の欲求が腐る前に見なかったことにする。
私はその記憶を掘り返すたび、魂の奥で黒炎がじわじわと燃え広がるのを感じた。
貴様、それは優しさではない。
ただ己の輪郭を差し出すことに慣れただけだ。
人間には人間の強さがあると認め始めていた私でさえ、青山タツヤのその弱腰だけはどうにも腹に据えかねた。




