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第9話 そんなことはとうに知っている



私はその場で、ひとつ決めた。


青山タツヤという男が長年にわたって他人の顔色へ献上してきた領土を、今日から少しずつ取り戻す。


身体は借り受けた器にすぎず、名もまた私本来のものではない。大学という居場所でさえ、青山タツヤが曖昧な笑みと小さな遠慮を積み重ねてかろうじて築いてきた仮の砦である。それでもこの身に私の魂が宿った以上、己の輪郭を霧のように薄めたまま群れの端で笑っているなど到底看過できなかった。


人間は弱い。


そんなことはとうに知っている。


戦場で膝を折った兵士も、王座の前で命乞いをした貴族も、炎に巻かれた村で子の名を叫び続けた母親も私は嫌というほど見てきた。弱さそのものを罪だとは思わない。己の脆さを知りながらそれでも何かを守ろうと前に出る者の姿には、魔族であった私でさえしばし目を奪われたことがある。


問題は、青山タツヤが己の弱さを盾にして望むことさえ忘れかけている点だった。


奪われたわけではない。敗北を刻まれたわけでもない。刃を喉元に突きつけられたのでも鎖で四肢を縛られたのでもない。彼はただ誰かに嫌われることを恐れ、場の空気とやらへ静かに首を垂れ、自分の欲求が声になる前に喉の奥へ押し戻してきた。


それは優しさではない。


魂の緩慢な降伏である。


三橋たちは笑いながら歩き出し、里緒奈は私の隣で「今日ほんと余計なこと言わないでよ」と念を押してきた。私は返事の代わりに廊下の窓へ映る青山タツヤの顔を一瞥する。


そこにいたのは、寝癖こそ直っているものの覇気という言葉からはいまだ遠い青年だった。肩はわずかに内側へ入り、油断すれば視線は床へ落ちる。口元には相手の機嫌を損ねぬための曖昧な笑みが、長年使い込まれた仮面のように貼りついていた。


私はその表情を、意識して消した。


背筋を伸ばす。顎をわずかに上げる。周囲の目から逃げるのではなく、こちらから拾いにいく。


たったそれだけで世界の手触りは少し変わった。


すれ違う学生の何人かが、ほんの一瞬だけこちらを見る。里緒奈は横目で私を確認し、三橋が「なんか今日、青山姿勢よくね?」と笑った。相馬は「中身入れ替わった説、わりと濃くなってきたな」と呟き、黒瀬真奈はその言葉を面白がるようにスマホへ打ち込んでいる。


中身が入れ替わっているのだから、その推察はかなり鋭い。


その後の講義でも、私は青山タツヤという男が日常の中でどれほど己を殺してきたのかを、いくつもの小さな場面から確認することになった。


教室へ入れば、彼は目立たぬ席を選ぼうとする記憶を残していた。教授が問いを投げれば、答えを思いついても視線を伏せる癖が体の奥に染みついている。隣席の学生が筆記具を落としたときも、拾うべきか声をかけるべきか、相手が迷惑に思うのではないかという無駄な逡巡が先に立つ。まったく、青山タツヤという男は日常の一挙手一投足にまで小さな評議会を開く性質らしい。魔王軍であれば、決断が遅すぎるという理由だけで前線指揮から外しているところだぞ。


私はその都度、体に残った逃げ癖を押さえ込んだ。


席は里緒奈の隣ではなく、あえて通路側を選ぶ。教授が黒板に書き損じた文字を見つけた際には、周囲の反応を窺う前に手を挙げて指摘した。声は大きすぎず、卑屈にもならぬよう意識する。たったそれだけのことで近くの学生がこちらを振り返り、教授が「青山くん、今日は冴えているね」と妙な感心を見せては里緒奈が机の下で私の袖を引いた。


「ほんとに何があったの」


彼女は小声でそう尋ねてきた。


私は正直に答えるわけにもいかず、しばし考えた末に言った。


「内なる王権が目覚めた」


「その説明で納得する人類いないからね」


里緒奈は頭痛をこらえるように眉間を押さえた。


人類の理解力にも限界があるらしい。


午前の時間は、そうした小さな戦の連続で過ぎていった。誰かに話しかけられれば曖昧に笑って終わらせる代わりに相手の目を見る。意見を求められれば、「何でもいい」という呪詛にも等しい降伏文句を封じ、短くとも自分の考えを返す。ひとつひとつは取るに足らぬ所作であっても、私は青山タツヤが長年の習性として骨身に染みつかせていたいくつもの卑屈で矮小な所作を、ひとつずつ矯正していった。


歩くときは肩を内側へ巻き込み、まるで世界から身を隠そうとする小動物のような姿勢をやめさせた。声をかけられたなら、視線を床や壁際へ逃がすのではなく相手の目を真正面から受け止めさせた。何か問われた際には曖昧な笑みで空気に溶け込み、場の判断を他者へ委ねるような真似を禁じつつ、たとえ一言二言であろうとも自分がどう考えどう選ぶのか、その意思の杭をきちんと地面へ打ち込ませた。必要もない場面で反射的に謝罪を差し出す癖も改めた。席を譲るときは「すみません」と己の存在まで小さく折り畳むのではなく、ただ静かに道を開け、「どうぞ」と言えばよいのだと教えた。何を食べ、どの道を行き、どの色を身にまとうかといった些細なことを選ぶときも周囲の顔色をうかがい、誰からも咎められぬ無難な選択肢へ逃げ込むなどという魂の退却にも似た悪癖を即座に封じた。


たった、それだけのことである。


私は剣を抜いたわけではない。玉座の間に諸侯を呼び集め、血判をもって忠誠を誓わせたわけでもない。万の軍勢を率いて城門を蹴破ったのでも、雷鳴のような演説で群衆の膝を折らせたのでもない。ただほんのわずか、青山タツヤの肉体を青山タツヤ自身の所有物として扱わせただけだ。


だというのに、その変化は驚くほど大きかった。


三橋は面白がり、相馬は観察を深め、黒瀬真奈は記録を増やす。里緒奈だけは私の変化を笑い飛ばすにはあまりに近い場所で見てきたせいか、軽い困惑の奥に薄い不安を滲ませていた。


私はその視線に気づいていた。


彼女にとって青山タツヤは弱く、頼りなく、放っておくと何も言えずに流される幼馴染だったのだろう。そんな男が急に背筋を伸ばし、目を逸らさずに言葉の端々に王のような物騒さを混ぜ始めたのだから、心配するなというほうが無理な話である。


それでも、私は戻るつもりなどなかった。


青山タツヤの沈黙は、彼を守ってきたのかもしれない。余計な衝突を避けて人の輪から弾かれぬための、弱き者なりの処世術だったのだろう。


けれど、守られることと生きることは同じではない。


傷つかぬよう身を縮めたまま、望みの名さえ忘れていく生を、私は生存とは呼ばない。


生きるとは、己の望みに名を与えることだ。


欲しいものを欲しいと言い、嫌なものを嫌だと知り、恐ろしいものの前で足が震えたとしても、せめて自分が何を恐れているのかだけは見失わない。王であれ、兵であれ、魔族であれ、人間であれ、己の内側にある小さな火を他者の息遣いひとつで消してしまう者はやがて自分が寒がっていることにさえ気づけなくなる。


青山タツヤは、おそらく寒さに慣れすぎていた。


誰かと争わずに済むならそれでいい。笑われても場が和むなら構わない。望みを口にして拒まれるくらいなら、最初から望まなかったことにすれば傷は浅く済む。そうやって彼は自分の心に何度も小さな布を被せ、痛みも怒りも願望もすべて同じ暗がりへ押し込めてきたのだろう。


実に愚かで痛ましく、腹立たしい。


私はこの男を尊敬しているわけではない。むしろ今朝から幾度となく呆れている。部屋は散らかり、体は頼りなく、記憶の端々には遠慮と諦めがこびりついている。魔王城の末席に置くにも鍛え直しが必要な器だ。


それでもこの身体に残された青山タツヤの微かな気配を辿っていると、ただ弱いだけの男ではなかったのだとも分かる。


誰かを傷つける言葉を飲み込んだ夜がある。里緒奈に迷惑をかけまいとして、助けを求める手を引っ込めた朝がある。冗談の的にされても笑って済ませたのは、怒り方を知らなかったからだけではなく、その場にいる誰かが気まずくなるのを恐れたからでもある。青山タツヤの沈黙には卑屈さが混じっていた。臆病も確かにあった。けれどその奥底には不器用な善性の残り火が、まだ完全には消えずにくすぶっている。


ならば、踏みにじるだけでは足りない。


この器を借り受けた以上、私は青山タツヤの弱さをただ嘲笑うのではなく、彼が明け渡した領土の名をひとつずつ確かめ、その境界線へ杭を打ち直さねばならない。これは慈悲ではない。乗っ取った身体を多少は使いやすく整えるための、極めて合理的な判断である。そう自分に言い聞かせたものの、胸の奥に生じた奇妙な熱が本当に合理だけでできているのか、私自身にも少しばかり判然としなかった。


この男がこれまでどれほど自分を薄く、小さく、害のない影のように見せて生きてきたのか、私はその一挙手一投足のたびに思い知らされ、呆れを通り越していっそ奇妙な感心すら覚えていた。ここまで丹念に己を貶めるにはそれはそれで相当な忍耐と訓練を要する。まったく、人間という種はなぜこうも無益な方向へ努力を積み上げるのか。


器が弱いなら、弱いなりの立ち方というものがある。


恐怖を消す必要などない。臆病であること自体は罪ではなく、震える膝も、乾く喉も、縮む胃も、戦場においては珍しいものではない。真に問題となるのは恐怖を抱くことではなく、その恐怖に膝の主導権を明け渡し、己の足がどちらへ進むかを臆病風に決めさせることだ。震えていようが顔色が悪かろうが、前へ踏み出す足さえ残っているなら兵はまだ兵であり、戦える。反対に傷ひとつ負っておらずとも、心の奥で敗北を認め、相手の機嫌を神託のごとく仰ぎはじめた者はその時点ですでに地に伏している。


そしてこの人間どもの大学という場所もまた、規模こそ矮小で血の匂いも硝煙もないとはいえ、見えぬ槍と柔らかな圧によって構成された、一種の戦場に似ていた。敵意を剥き出しにした刃ばかりが人を傷つけるわけではない。悪意なき視線、軽い冗談、場の空気、誰かの沈黙、そうした綿で包まれた圧力が、怯えて縮こまる者の背をじわじわと押し潰していく。自ら立つ意思を示さぬ者は、憎まれていなくとも踏まれる。人間社会とは、案外その程度には残酷にできている。


人間とはじつに面倒な生き物だ。


他者の目を恐れながら、他者に見つけられることを望む。傷つきたくないと願いながら、誰かの一言で救われたいと期待する。孤独を守りながら孤独に耐えきれず、差し出された手を疑いながらその手が離れると胸を痛める。魔界の瘴気より複雑で、古代結界より厄介な生き物である。


だからこそ、知る価値があるのかもしれない。


私が勇者を探し出すためにも、この世界の人間を理解することは避けて通れぬ。あの男がもし本当にどこかで生まれ変わっているのなら、きっとこの面倒な人間たちの中で息をしている。剣も魔法もない世界で、何を望み、何に傷つき、どのような顔で笑っているのか。考えた瞬間、胸の奥に古い戦場の熱がわずかによみがえった。


私は廊下の窓から視線を外し、青山タツヤの足を前へ進めた。


まずは、この男の小さな領土を取り戻す。


その先に、勇者へ続く道があるかもしれないのだから。



昼休み、私たちは学食という大食堂へ向かった。


広い空間には若者たちが溢れていた。彼らは食券という小さな札を買い、列の流れに従って料理を受け取りながら盆を手に空席を探している。城の食堂より効率はよく、兵舎の配給所より清潔で、貴族の晩餐会よりはるかに騒がしい。揚げ物の匂い、湯気を立てる味噌汁、椅子を引く音、笑い声、誰かが落とした箸の乾いた響き。そのすべてが混ざり合い、この大学という巨大な生き物の腹の中へ放り込まれたような気分になる。


私は里緒奈に促されるまま定食を選び、盆を持って席へ着いた。


白い米、薄い汁、焼いた魚、甘辛く煮られた小鉢。見た目は質素で、魔王城の饗宴に比べれば兵站記録の余白ほど地味だったものの、匂いは悪くない。何よりこの体は先ほどから空腹を訴えていた。人間の胃袋というものは、実に声が大きい。王命より食欲を優先する臓器など、私の全盛期であれば厳重に再教育したところである。


三橋が隣に腰を下ろし、にやにやとした顔をこちらへ向けた。


「青山、今日の飲み会マジで来るんだよな?小春ちゃん来るからって気合い入ってんの?」


里緒奈がすぐに眉を寄せる。


「あんまりいじらないで。今日ほんと調子変だから」


「でも面白いから少し見たい」


黒瀬真奈が眼鏡の奥で目を光らせた。


相馬は水の入ったコップを揺らしながら、薄い笑みを浮かべる。


「青山が覚醒した日として、サークル史に残るかもな」


私は箸を持ったまま、三橋へ視線を向けた。


「気合いとは、相手に見せるための飾りではない。己の内側で刃を研ぎ、必要な瞬間に迷わず抜くための準備を指す。小春という人物に会うにあたり、俺が整えるべきものは髪型や話題だけでは足りぬ。相手を一人の人間として見据え、何を恐れ、何を望み、どのような言葉で己の心を守っているのかを見極める覚悟こそ必要になる」


三橋が口を開けたまま止まった。


相馬は水を吹きかけ、黒瀬真奈は猛烈な勢いでスマホに何かを打ち込み始める。里緒奈は私の袖を掴み、声量だけを必死に抑えた叫びを放った。


「青山、恋愛の入り口で人を尋問対象みたいに見るのやめて!」


「尋問ではない。観察だ」


「もっと怖いわ」


三橋は笑っていたものの、先ほどより私を見る目をわずかに変えていた。


からかい半分だった視線の奥に、「こいつ、今日は押してもいつもの反応を返さないな」という警戒が混じっている。よい兆候である。人は反応の変わった相手に注意を向ける。注意は印象の始まりであり、印象は支配の入り口となる。


私は青山タツヤの柔らかすぎる輪郭に、ほんの少しだけ魔王の影を差し込むことに成功したらしい。


しかし里緒奈だけは、成功を祝うどころか胃を痛めている顔をしていたが。


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