第10話 梅酒のロックで
日が傾き、飲み会の時刻が近づくにつれて里緒奈はますます頻繁にこちらを横目でうかがうようになった。警戒しているのか心配しているのか、あるいは目の前で起きている変化をどう分類すればよいのか分からず内心で頭を抱えているのか。おそらく、そのすべてであろう。
「ほんとに大丈夫?今日、帰ったほうがよくない? 小春ちゃんの前でまた権力論とか始めたら終わるよ」
「終わらせぬ」
「何を?」
「青山タツヤという男の停滞を」
里緒奈は、そこで言葉を失った。
その沈黙は単なる呆れだけで塗り潰せるものではなかった。目の前にいる幼馴染が昨日までの頼りなく笑ってばかりいた青年とはどこか決定的に違って見えることへの戸惑い。けれどその変化をただ気味が悪いと切り捨ててしまうには、あまりにも彼女自身が青山タツヤの弱さと不器用さを近くで見すぎていたのだろう。
里緒奈はきっと彼が自分から一歩前へ出られないことを知っている。誰かを傷つけたくないという、聞こえだけは美しい布の下に隠れて、幾度となく自分の望みを諦めてきたことも知っている。欲しいものを欲しいと言えず、嫌なものを嫌だと言えず、肝心な場面で笑ってごまかし、そのあと一人で勝手に傷ついてきたこともおそらく見抜いていた。だからこそ今日の私を不可解だと思いながらも、その変化のすべてを間違いとして退けることができないのだ。
里緒奈は小さく息を吐き、困ったように眉を寄せた。
「変なの。ほんと、変なのに……なんか、ちょっとだけ頼もしいのがムカつく」
その言葉が耳に届いた瞬間、青山タツヤの胸の奥深くに沈んでいた何かが微かな熱を帯びて震えた。
無論、それは私の感情ではない。魔王たるこの私が、たかだか幼馴染のひと言に胸を揺らすなど、天地が裂けても認めるわけにはいかぬ。だが、器には器の記憶というものがあり、肉体には肉体の未練というものがある。これはおそらく青山タツヤという人間が長いあいだ胸の底に沈め続けてきた、湿った灰の下でまだ死にきれずに燻っていた火種なのだろう。
里緒奈に認められたい。
失望されたくない。
格好悪いところばかり見せたくない。
そう願いながら結局いつも肝心な場面で足を止め、情けない笑みを浮かべ、あとになって己の不甲斐なさを噛みしめてきた若い雄の、痛ましくも切実な祈りであった。
私は心の内で、今はもう表に出てこられぬ青山タツヤへ告げる。
安心しろ。
貴様のその湿りきった根性、少しずつ、だが確実に叩き直してやる。
もっとも私は教育者ではない。慈母でもなければ聖人でもない。ましてや傷つきやすい若者の心に寄り添い、優しい言葉で背中を撫でてやる趣味など魔王の職務経歴には一行たりとも記されておらぬ。
ゆえに手加減という概念には、あまり期待するな。
*
飲み会の会場は、大学から歩いてそう遠くない雑居ビルの二階に押し込められた、いかにも若い人間たちが財布の薄さと胃袋の勢いを持ち寄るために作られたような居酒屋だった。入口の看板には、焼き鳥、唐揚げ、飲み放題、学生歓迎といった言葉が、まるで安価な呪文札のように色とりどりの光をまとって並び、細い階段を一段上るごとに、熱せられた油の匂い、甘辛いタレの焦げる匂い、酒精を含んだ息、人間たちの笑い声と湿った熱気が少しずつ濃くなっていく。酒宴の匂いそのものは決して嫌いではない。魔王城で開かれた宴はもっと濃厚な血の鉄臭さと、異国から運ばせた香辛料、古竜の脂を落とした肉、磨き上げられた黒曜の杯に注がれる重い酒、そして配下どもが勝利に酔いながらも私の顔色を窺う緊張の匂いに満ちていたものの、この世界の人間たちが集まる酒場にもこれはこれで独自の熱と秩序がある。狭く騒がしくどこか安っぽく、それでいて腹の底から生きている者たちの息遣いが立ちのぼる場所。なるほど、王侯の広間にはない種類の戦場である。
個室と呼ばれる、薄い壁と引き戸で他の客から区切られただけの小部屋へ通されると、そこにはすでに数人の若者たちが腰を下ろしていた。今夜の参加者は男が四人、女が四人、合わせて八人。文学サークルからは、私、里緒奈、三橋、相馬、黒瀬真奈の五人。別のサークルからは、小春という少女、西園寺詩織という金色の髪をした女、藤堂廉という人懐こそうな笑みを浮かべた男の三人である。青山タツヤの頼りない記憶を探れば、別サークルの三人は映画研究会に属しており、小春は文学サークルの活動にも時折顔を出す、境界線の曖昧な客人のような立場らしい。表向きの名目はサークル同士の交流。人間たちが好む、いかにも穏当でいかにも健全で、いかにも誰からも責められにくい看板である。内実を覗けば、若者同士の親睦を深めること、酒の力を借りて普段より少しだけ踏み込んだ言葉を交わすこと、さらに里緒奈の言い分を信じるならば小春と青山タツヤの距離を少しでも縮めることが裏の目的として据えられている。ひとつの酒宴に複数の意図を忍ばせ、誰もそれを真正面から口にせずに笑顔と乾杯の声で覆い隠す。やはり人間の集まりは侮れぬ。剣を抜かぬだけで、構造としては戦場となんら大差ない。
小春は青山タツヤの記憶の中に残っていた印象よりも、ずっと柔らかな気配をまとった少女だった。栗色の髪を肩のあたりでふわりと揺らしながら丸みのある目でこちらを見上げると、相手の反応を確かめるようにほんのわずか間を置いてから、「青山くん、こんばんは」と控えめに笑う。その声は小さく、押しつけがましさがなく、言葉を投げるというより相手の足元にそっと置いて様子を見るような慎重さを含んでいた。青山タツヤがこの少女に好意を抱いた理由は分からなくもない。弱い雄は、ときに自分を傷つけなさそうな柔らかな雌へ心を寄せる。爪を隠しているのか、本当に爪を持たぬのかはまだ判断できぬものの、小春という少女からは少なくとも正面から相手を焼くような苛烈さは感じられなかった。小さな灯火に似ている。風が吹けば揺れ、強く掴めば消えそうで、それゆえに誰かが手をかざして守りたくなる類いの光だ。
その小春の背後には、まるで別の絵具で塗られたような女がいた。西園寺詩織。金に近い短い髪は店内の照明を受けて淡く光り、少し眠たげに細められた目には、退屈と警戒と、こちらが踏み込めば容赦なく刺してくるであろう冷えた鋭さが同居している。白い薄手のパーカーの下には黒いインナー、丈の短いパンツから伸びる脚、手首で重なるいくつかのブレスレット、首元に揺れる小さな黒い飾り。椅子に座る姿勢は褒められたものではなく、片肘をつき、空いた皿をつまらなそうに眺めているだけなのに、その全身からは「近づきたいなら勝手にしろ、退きたいならもっと勝手にしろ」とでも言いたげな、乾いた強さが滲んでいた。里緒奈の友人であり、同級生でもあるという情報は事前に聞いていたものの、なるほど、この女は小春とはまったく別種である。小春が手のひらで庇いたくなる柔らかな灯火なら、詩織は路地裏に転がった瓶の破片に映る夕焼けのような、少し欠けていて少し危うく、それでも妙に目に残る光だった。
「リオナ、遅い」
詩織は頬杖をついたまま、まるで待ちくたびれたという感情さえ椅子の背に預けてしまったかのような調子で言った。声は低すぎず、高すぎず、妙な媚びも飾りもない。刃物のように鋭いわけではないのに、余計な布で包まれていないぶん、相手の耳へまっすぐ届く声であった。
「ごめんごめん、青山が朝から変でさ」
里緒奈は軽く笑いながら、私を連れて席へ入り込んだ。
その一言に、私は少なからず不服を覚えた。変なのは青山タツヤという男が築き上げてきた生活態度であり、散らかった部屋であり、朝から人間の胃袋に反乱を起こされるこの脆弱な肉体であって、少なくとも私自身ではない。私は魔王ゾディアークである。世界を闇の秩序によって統べようとした者を捕まえて「朝から変」の一言で片づけるとは、なかなか豪胆な女であった。
「変って?」
詩織がこちらを見る。
視線が合った。
彼女の目は遠慮を知らず、相手の輪郭を一枚ずつ剥がして中身を確かめるような、いささか不躾な光を宿していた。三橋のように騒がしく踏み込んでくる目ではない。小春のように柔らかく受け止める目でもない。観察し、値踏みし、面白ければ近づき、つまらなければ容赦なく視界の外へ追いやる者の目だった。私は嫌いではない。無礼ではあるが、無能ではない目だ。
私は軽く顎を引いた。
「青山タツヤだ。今宵は世話になる」
言い終えた直後、隣の里緒奈が小さく「だから」と呻いた。小春の笑顔は春先の湖面に薄氷が張るように、ほんのわずか固まった。三橋は「ほら、今日ずっとこれ」と肩を揺らして笑い、相馬は「今宵って居酒屋で聞く単語じゃないんだよな」と、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
詩織だけが、しばらく私を見ていた。
笑うでもなく引くでもなく、こちらの言葉を喉の奥で転がして味を確かめるように沈黙したのち、彼女はふっと口角を上げた。
「へえ。面白いじゃん」
その声に含まれていたのは、安いからかいではなかった。退屈な場に、ひとつだけ妙な石が投げ込まれたときの興味である。
席順は私の左に里緒奈、右に三橋、向かいに小春、その隣に詩織、さらに相馬、黒瀬真奈、藤堂廉と続く形になった。里緒奈は当然のように私の隣を選んでいる。偶然ではない。逃走を防ぎ、失言を止め、必要とあらば肘で脇腹を突ける距離である。監視役としては悪くない配置だった。もっとも、かつて私の配下にいた密偵長なら、監視対象の正面、背後、出口付近の三方向に人員を置いたうえで酒器の中身まで確認したであろうから、里緒奈の布陣にはまだ改善の余地がある。
乾杯のために飲み物を注文する段になると、三橋がメニューを片手に何の疑いもなくこちらへ顔を向けた。
「青山、ビールでいい?」
青山タツヤの記憶が、濁った水底から泡のように浮かび上がる。
この男は麦酒の苦味を好んでいなかった。喉を通るたびに顔をしかめたくなるくせに、最初の一杯だけは周囲に合わせて麦酒を頼み、飲みたい甘い酒の名を口にする前に場の空気という見えない鎖へ自ら首を差し出していたらしい。哀れな男である。魔王城であれば、飲みたくもない酒を飲ませる者は無礼者として処され、飲みたくもない酒を自分から頼む者はまず精神面の鍛錬からやり直させるところだ。
私はメニューを開き、そこに並んだ酒の名を眺めた。
麦酒、梅酒、ハイボール、酎ハイ、カクテル。いずれも名は珍妙で、響きだけ聞けば小国の辺境に棲む妖精族の部族名のようでもある。度数は低い。魔王城の地下で百年寝かせた黒血酒に比べれば、幼竜が眠るときに漏らす寝息ほどのものだろう。あれは杯を近づけただけで並の人間なら膝から崩れ、上級魔族でさえ翌朝には先祖へ詫びる羽目になる酒だった。
「俺はこれにする」
私はメニューの一点を指した。
梅酒のロック。
「え、青山が最初から梅酒?女子かよ」
三橋が笑った。
青山タツヤであれば、おそらくここで曖昧に笑い、喉の奥に小さな諦めを押し込めつつも望まぬ麦酒へと注文を変えたのだろう。自分の望みより、これ相手の笑いに合わせる。好みより、場の流れに従う。誰から命じられたわけでもないのに自ら膝を折る。平和な時代の人間はこういう見えない屈服を積み重ねて生きているらしい。
私はメニューから顔を上げ、三橋を見た。
「飲みたい酒を他者の性別で決めるほど、俺の喉は暇ではない」
個室が静まり返った。
剣を抜いたわけでも、魔力を放ったわけでもない。ただ一杯の酒を選んだだけで場の空気がわずかに凍る。人間社会とは実に繊細で面倒な戦場である。
里緒奈が隣で「言い方」と小さく呟いた。黒瀬真奈は、また何かを記録している。小春は目をぱちぱちと瞬かせ、詩織は口元を隠して肩を震わせた。相馬は半ば感心し、半ば呆れたような顔でグラスを眺めている。
三橋は一瞬だけ気まずそうに目を泳がせたのち、乾いた笑いを浮かべた。
「お、おう。青山、今日キレキレじゃん」
誤魔化しとしては粗い。けれど、敗走の判断は悪くなかった。
私は梅酒を注文した。
勝利と呼ぶには小さい。戦場に旗を立てるほどの出来事ではなく、吟遊詩人に歌わせるにはあまりに地味で歴史家が羊皮紙に残す価値もない。けれど青山タツヤという男にとって、自分の飲みたい酒を自分で選ぶことは、王都攻略に匹敵する偉業だったのかもしれない。




