第5話 補給線を維持する参謀
里緒奈から渡された衣服を身につけるため、私はひとまず洗面所へ向かったのだが――いや、今後この世界で無用な誤解を避けるためにも、こういう言い方は慎むべきかもしれぬ――私はひとまず、彼女が「着替えはそこで」と顎で示した狭い水場へ足を向けた。
その背中に、里緒奈の声が飛んできた。
「変な倒れ方したら呼んで」
変な倒れ方とは何だ。
倒れるという現象に、正しいも間違いもあるのか。戦場で槍に腹を貫かれて膝をつく倒れ方、毒を盛られて杯を取り落とす倒れ方、古代竜の尾に吹き飛ばされて城壁へ叩きつけられる倒れ方、それらを経験してきた私からすれば、倒れ方の分類など医官と葬儀屋に任せておけばよい些事であったものの、里緒奈の声にはからかいよりも実務的な警戒が滲んでおり、どうやらこの貧弱な器はただ着替えるだけでも監視対象に含まれるらしい。
確かに否定はできなかった。
この青山タツヤという肉体は、立つ、歩く、振り返る、服を脱ぐ、深呼吸をする、そういった生命活動の初歩にすらいちいち許可を求めてくるような頼りなさがあり、かつて片腕で巨人の斧を受け止めた私の感覚からすれば、骨組みからして神々の試作品か、あるいは予算不足の村大工が急ごしらえで組んだ人形に近かった。
「承知した」
ごく自然に、王が臣下の進言を受け取る程度の声音で返したつもりだった。
背後から、またしても不審者を見るような視線が突き刺さった。
どうやらこの世界では、了承の言葉ひとつにも身分相応の温度、年齢相応の軽さ、関係性に見合った弛みというものが求められるらしく、私は早くもこの国の礼法が剣術や軍略よりもよほど面倒な体系を持っている可能性に思い至った。難儀な文明である。魔力を捨てた代わりに、言葉の湿度を発達させすぎたのではないか。
洗面所に入り、扉を閉め、胸元に腑抜けた熊を飼っている寝巻きを脱ぎ捨てると、私は改めて鏡の前に立ちながら、そこに映る青山タツヤという器を焼け落ちた城塞の跡地に残された戦況図を前にした敗将の心持ちで眺めた。
細い。
あまりにも細い。
腹が出ていないことだけはかろうじて評価に値するかもしれない。腹部に余計な脂肪がないという事実だけを取り上げれば鍛え抜かれた暗殺者や飢えを知らぬ武人の身体と同じ棚に並べられなくもないものの、目の前にある平坦さは研鑽によって無駄を削ぎ落とした結果ではなく、本来蓄えるべき肉も熱も野性も持ち主が人生のどこかで遠慮してしまった末に生まれた、悲しき空白であった。
肩幅は控えめであった。
実に控えめであった。
控えめすぎて、もはや本人がこの世への参加を遠慮しているように見えた。
腕には剣を振るう者の重みも、槍を受け止める者の覚悟も、玉座の肘掛けを握り潰すだけの説得力もなく、血管の浮いた白い皮膚の下には戦場で鍛えられた獣の筋ではなく、講義室の椅子と寝具の柔らかさに甘やかされた若者の薄い筋肉が申し訳程度に身を潜めているだけだった。
皮膚には、戦場を渡った証となる大きな傷跡もなかった。
胸には聖剣に貫かれた痕もなく、肩には古竜の爪を受け止めた裂け目もなく、背には翼の根があった名残すらない。
かつて古竜の爪を胸で受け、聖騎士の刃を肩に沈め、呪詛の火に焼かれながらなお笑っていたこの私からすれば、今の身体は王宮の奥深く、直射日光も雨風も虫の一噛みも知らぬまま、絹の覆いをかけられて育てられた観賞用の若木に等しかった。
風向きひとつで折れそうだ。
下手をすれば、里緒奈のため息でも折れる。
私は鏡に映る青年をしばし睨みつけ、洗面台の白い陶器に片手をつき、声を潜めて問うた。
「青山タツヤ。貴様、本当に生き延びる気があったのか?」
当然ながら返事はない。
そこにいたのは、寝癖の名残と自信のなさを顔の端々に貼りつけ、魔王の魂を宿しているとは到底思えぬ頼りない面差しでこちらを見返す青年であり、瞳の奥には野心の火も復讐の影も覇道の兆しもなく、せいぜい朝の講義に遅れる不安と他人の機嫌を損ねたくない小動物じみた警戒が薄く漂っているだけだった。
腹立たしいほど無害そうである。
私は胸の奥から湧き上がるため息を押し殺し、里緒奈から渡された衣服を手に取って、まず白いシャツに袖を通した。
布地は軽く、戦装束としては論外であり、矢を防ぐことも刃を逸らすことも毒霧を遮ることもできそうにない代物であったものの、不思議なことにそれを身につけるだけで顔色の悪さはいくらか薄まり、薄手の上着は貧弱な肩に最低限の輪郭を与え、細身のズボンはこの肉体の頼りなさを、どうやらこの世界で「清潔感」と呼ばれる別種の価値へ巧みに変換しているらしかった。
なるほど。
人間界の衣服というものは、なかなか侮れない。
鎧のように敵の刃を防ぐわけでもなく、法衣のように神の加護を宿すわけでもなく、魔導外套のように術式を編み込まれているわけでもないくせに、欠点を隠し、弱点を個性と言い張り、貧弱さに繊細という名札を掛けながら頼りなさを柔和と称して世に差し出すのだから、これはこれで相当に高度な幻惑術である。
顔立ちそのものは、冷静に観察すれば悪くなかった。
骨格は細いものの乱れてはおらず、目鼻の配置も凡庸の沼に沈みきっているわけではないため、弱々しく丸まった姿勢を正して顎を引き、背筋を伸ばし、目の奥にこびりついた余計な怯えを追い払い、その代わりに沈黙の圧と相手の魂の奥底まで見透かすような冷たい静けさを宿せば、少なくとも群衆の中で踏みつけられるだけの小動物から、何を考えているのか分からない若い雄くらいには昇格できるはずだった。
私は息を整えた。
背骨の一本一本に、玉座の記憶を通すように姿勢を伸ばした。
かつて何万もの兵が私の前に膝をつき、諸王が歯噛みしながら名を呼び、勇者が聖剣を構えて睨み上げたあの玉座の高さを思い出しながら、私はこの頼りない肉体の内側に失われた城の影を一本ずつ組み直していった。
鏡の中の青年は、先ほどよりもいくらか別人に見えた。
頼りない輪郭の奥から、灰燼の王であり、黒曜の覇者であり、かつて世界の半分を震え上がらせた魔王ゾディアークの魂が薄い影となってこちらを覗いていた。
悪くない。
筋肉がないなら、威厳で補えばよい。
武器がないなら、まず視線で支配すればよい。
そして何より。
この細腕で世界を征服できたなら、それはそれで伝説としてはかなり面白い。
部屋へ戻ると、里緒奈はこちらを見たままほんのわずかに口を閉ざした。
「……なに。急に姿勢よくなっただけで、けっこう雰囲気変わるじゃん。いつもそうしなよ」
その声音には隠そうとしても隠しきれない意外さが混じっており、私という存在を長く知っているらしいこの女でさえ、青山タツヤの肉体に宿ったわずかな変化を目ざとく見抜いたようだった。
ふむ。
見る目はある。
私は胸を張り、「この程度は当然だ」と王侯に褒美を取らせるような寛大さで言いかけたものの、唇の手前でその言葉を噛み殺した。
危ない。
危うく魔王ゾディアークとしての威厳が寝起きの若者の口から無警戒に漏れ出るところであった。
今の私は、青山タツヤである。
生まれてこの方、世界征服など一度も企てたことがなく、玉座に座った経験もなく、黒炎で山脈を焼いたことも諸王を跪かせたこともない、ごく普通の、やや頼りない、里緒奈という幼馴染に朝から世話を焼かれる程度の青年でなければならない。
私はわずかに視線を逸らし、この世界の若者が使いそうな曖昧さを必死に探りながら「まあ、うん」とだけ返した。
なんだ、この味の薄い返答は。
水で三倍に薄めた敗戦国の粥のような、腹にも魂にも残らぬ言葉である。
里緒奈は特に疑う様子もなく、こちらへ近づいてきた。
「あと、寝癖やば。ちょっとじっとして」
そう言うなり彼女は何の前触れもなく私の髪へ指を伸ばし、跳ねた毛先を当然のように押さえた。
私は思わず硬直した。
王の髪に触れることを許された者は、そう多くない。
側仕えの者、寵愛を受けた側室、戦支度を整える近衛、あるいは最後の戦いの前、挑発のつもりで私の髪を掴んだ勇者くらいのものである。
あやつはその後、床にめり込ませた。
目の前の女は、そのいずれにも属していなかった。
命知らずの挑発でも忠誠を示す儀礼でもなく、戦場で敵の隙を突くための卑劣な牽制でもなく、あまりにも自然に、あまりにも当然のように私の髪へ触れている。
まるで、そこに許可など必要ないとでも言うように。
この距離感はおかしい。
いや、おかしいのは彼女ではないのかもしれぬ。
青山タツヤという男がどれほどこの女に心を許し、どれほど近い場所へ彼女を招き入れていたのか、その事実のほうが私にとってはよほど不穏で、よほど恐ろしい。
里緒奈は洗面所から水を取って戻ってくると私の髪を指先で軽く湿らせ、どこから持ってきたのか細い櫛を使って跳ねた髪を手際よく整え始めた。
「何固まってんの。昔からあんたの寝癖、私が直してるじゃん」
「昔から……?」
「あー、覚えてないふり?小学校の卒業写真のときなんて、あんた寝癖ついたまま並んでてさ。私が直したのに、あとからおばさんに私が感謝されたんだからね」
その言葉を聞いた途端、意識の奥に沈んでいた青山タツヤの記憶が、泥の底から浮かぶ泡のようにぽつりと輪郭を持った。
体育館。
ワックスの匂いが薄く残る床。
きちんと並びきれていない子どもたちの列。
少し高い位置に構えられたカメラ。
背伸びをしながらタツヤの髪を押さえる、幼い里緒奈。
そして自分の髪に触れる小さな指を意識しすぎて、どこを見ればよいのか分からず恥ずかしそうに目を逸らす青山タツヤ。
なるほど。
この行為は単なる世話焼きではない。
彼らが積み重ねてきた年月の一部なのだ。
髪を直すという取るに足らぬ仕草の中に幼いころから続く関係の記憶が折り畳まれており、里緒奈にとっては朝の挨拶ほど自然で、青山タツヤにとっては反抗する理由すら見つからないほど馴染んだ習慣であったらしい。
私は抵抗をやめた。
王たるもの、異国の風習にはある程度従わねばならない。
たとえそれが幼馴染に寝癖を直されるという魔界の玉座ではまず発生しなかった珍妙な儀式であっても、現地の慣習を軽んじて統治に失敗した王が歴史上どれほど多かったかを思えば、ここで無意味に反発するのは下策であった。
準備が終わるまでの間、里緒奈は私へ細々と指示を出し続けた。
「財布持った?」
「スマホは?」
「学生証」
「鍵」
「ハンカチ」
「飲み会の会費、ちゃんと下ろしてある?」
怒涛である。
一国の軍務会議でも、ここまで短時間に確認事項は飛んでこない。
しかも彼女の問いには単なる確認を超えた実戦指揮官の鋭さがあり、忘れ物を未然に潰し、行動不能の芽を摘み、出立前の混乱を最小限に抑えるという意味では下手な兵站将校よりもはるかに有能であった。
私はそのたびに、この器の記憶と部屋の中の惨状を照合しながら必要なものをひとつずつ集めていった。
学生証は財布の中。
鍵は玄関脇の小皿の上。
ハンカチは引き出しの奥。
会費は、どうやら財布の中に入っている紙幣で足りるらしい。
ふむ。
青山タツヤの生活は、私から見れば穴だらけの砦であった。
城壁は低く、堀は浅く、門番は居眠りし、兵糧庫の場所すら当人が曖昧にしか把握しておらず、敵が攻めてこずとも、朝の支度という名の小競り合いで自滅しかねない構造をしている。
里緒奈という女がいなければ、彼は大学へたどり着く前に何かを忘れ、玄関先か道中か、あるいは得体の知れない飲み会なる集会の入口あたりで詰んでいた可能性が高い。
幼馴染というより、補給線を維持する参謀である。
しかも有能だ。
「ほんと、あんたって私がいないと生活できないよね」
里緒奈が呆れたように言った。
私は真剣に頷きかけた。
かなり危なかった。
確かに、その通りではある。
少なくとも今の私は、この世界の流儀をほとんど知らぬ。
金銭の扱いも学生証という小さな身分証の価値も、飲み会なる謎の集会に求められる作法も分からず、スマホという小型の情報魔具に至っては朝から私の尊厳を何度も傷つけている。
この女がいなければ、私は開戦前に補給不足で敗北していた。
それでも、頷いてはならぬ。
魔王としての誇りが落城寸前の最後の城門のように私を押しとどめた。
私はわざとらしく咳払いをし、できるだけ青山タツヤらしく、軽く、薄く、先ほど里緒奈に不審がられない程度の濃度を狙って言った。
「いや……まあ、助かってはいるけど」
「はいはい。もっと感謝して」
「感謝している」
「急に重いな」
重いのか。
感謝とは、もっと軽く投げるものなのか。
人間界は難しい。
感謝にも適正重量があるらしい。




