第4話 これは戦装束ではないのか
それに比べて青山タツヤはどうだ。
二十年。
二十年である。
魔族であれば多少なりとも力ある血統に生まれた雄はとっくに子を成し、家門の繁栄を示すために後継の数や質を親族会議で品評され、場合によってはすでに孫の顔を見ながら「この角の反りは父方の系統だ」などと無用に誇らしげな顔をしていてもおかしくない歳月である。もちろん人間は魔族より寿命が短く、肉体の成熟速度も家族制度も、社会の仕組みも繁殖や婚姻にまつわる文化的手続きも異なるらしく、現代社会には結婚、恋愛、倫理、法律、経済、同意、感情、将来設計、住居、職業、親族関係、その他やたらと細分化された条件が絡み合っていることは、器の記憶からおおよそ理解している。力で奪えばよい時代ではないこともこの青山タツヤの神経に染みついた常識がかなり強く警告しており、むしろこの世界では相手の意思を尊重せぬ雄は社会的にも法的にも厳しく処断されるらしい。当然である。その一点については、強き者の欲望がしばしば法律より速く走り出す魔族社会より、よほど文明的かもしれない。
とはいえ誰とも経験がないとは。
青山タツヤよ、貴様は子孫を残す気がないのか。種族存続に対する危機感が冬眠明けの沼亀よりも鈍いのではないか。人間は魔族に比べて繁殖率が極端に低いとまでは言わぬものの、一度に生まれる子の数は少なく、妊娠期間は長く、子が自力で獲物を狩れるようになるどころか衣食住を整え、言語を教え、社会規範を植え込み、学費なる供物を長期間捧げねばならぬほど育成負担が重い。こんな雄ばかりなら、飢饉、疫病、戦乱、隕石、神々の気まぐれ、少しばかり過酷な時代のうねりが来ただけで種族全体の存続が危うくなるのではないかと、私はかなり真剣に人類の未来を案じた。かつて人間の王国を焼き、人類史の余白に黒い爪痕を残し、世界を闇の秩序で統べようとした私が人類の繁殖状況を内心で憂慮する日が来るとは、運命というものは悪ふざけにしても少々手が込みすぎている。
「なに固まってんの。まさか傷ついた?」
里緒奈が首を傾げる。私は喉の奥に残った驚愕を咳払いで押し流しながら、「いや、事実確認に驚いていただけだ」と答えた。彼女はこらえきれないというように吹き出した。
「事実確認って何その言い方。あんた、ほんと今日おかしいよ。童貞を公的資料みたいに扱わないで」
私は慎重に言葉を選び、青山タツヤとしての自然さをどうにか保とうとしながら、「その、小春という女は、青山……俺に興味を持っているのか」と尋ねた。危うく自分を青山と呼びかけた舌の裏切りを私は内心で即座に処罰したものの、里緒奈はその不自然な揺れを聞き逃さなかったらしく、片目を細めてこちらを見た。もっとも、今は私の異常な一人称よりも小春という女の話題を優先することにしたらしい。
「たぶんね。少なくとも話したがってる感じはある。あんたがまともに会話できればワンチャンあるんじゃない?顔はまあ、ちゃんと整えれば悪くないし、無害そうだし、変にチャラくないし、文学サークルの女子って、意外とそういう男子好きな子いるし」
無害そう。雄としてそれは褒め言葉なのか。魔族社会で「無害そうな男」などと評されれば、前線指揮官にも近衛にも種馬にも向かぬ者として、せいぜい食料庫の管理係か、毒見役か、戦場で荷車の車輪を数える係に回される程度である。人間社会では攻撃性の低さや欲望の薄さが安心感へ変換されるらしい。覚えておく必要がある。私は青山タツヤの器を見下ろした。
細い腕。頼りない胸板。寝癖。気の抜けた熊の服。
戦闘能力は低く生殖経験は皆無で、部屋は混沌としており学業成績も器の記憶を辿る限りでは突出していない。にもかかわらず顔を整え、無害さを適切に提示すれば可能性が生まれるとは。現代日本とやらはずいぶんと奥が深い。
「参加する」
私はそう言い切った。里緒奈はまるで聞き間違いでも疑うように目をぱちぱちと瞬かせ、しばらく私の顔を見つめてから、「え、ほんとに? いつもなら『えー、人多いの苦手』とか『飲み会って何話せばいいか分かんない』とか言って、最終的に私が腕引っ張って連れてく流れなのに」と驚き半分、疑念半分といった声を漏らした。私はその言葉を聞きながら、青山タツヤという男の情けなさに内心で膝から崩れ落ちそうになっていた。人が多いのが苦手。何を話せばいいか分からない。分かる、いや、理解そのものはできる。私とて魔王城で毎年開かれていた諸侯会議は得意ではなかった。あれは長い。誰も彼も己の領地の不満をもっともらしい言葉で飾り立て、隣の領主への悪口を礼節という薄皮で包みながら最終的には軍費だの復興予算だの交易路の優先権だのを寄こせと要求してくる。終わった頃には、勇者一行と正面から斬り結んでいたほうがよほど精神に優しかったとすら思える代物である。それに比べれば若者たちが酒を飲み、食べ物をつつきながら意味のあるようでない会話を交わすだけの集まりなど、赤子の昼寝ほど穏やかなものに違いない。私は里緒奈の目を正面から受け止め、「行く」と、もう一度言った。
「理由は?」
里緒奈がすかさず問う。
「その小春という女、そして飲み会という集まりに興味がある」
私が答えると、里緒奈の表情は驚きから完全な疑いへと変わった。
「女って言い方やめな。あと、興味があるっていうより普通に仲良くなりたいって言えばいいじゃん。ほんとにキャラ変した?大学デビュー二年目にして遅咲きの中二病?」
中二病。
器に残る記憶が、その奇妙な言葉の意味をおぼろげに差し出してくる。思春期特有の万能感、闇の力、自分は他者とは違う特別な存在であるという妄想。私は本当に闇の力を持っていたし、実際に特別な存在であったためそれを病と呼ばれる筋合いはない。今となっては闇の力も失われ、特別と呼べるものは魂の来歴くらいで、この肉体は冷蔵庫の残り物と牛丼で腹を満たす冴えない若者に過ぎないという点がいささか悲しいところではある。
里緒奈は立ち上がると、まるで検査官のような目つきで私の部屋をぐるりと見回し、「とりあえず、飲み会の前に大学行くよ。今日一限あるし、昼にサークルの連中とも顔合わせるかもだし。あんた、まず着替えな。あと髪どうにかして。小春ちゃん以前に、その熊のスウェットで外出たら社会がざわつく」と、容赦なく言い放った。私は胸元に描かれた熊へ視線を落とした。たしかにこの獣の顔には王者の風格がなく、威嚇の意思もなく、野生の矜持すら感じられない。
「これは戦装束ではないのか」
「寝巻きだよ」
即座に返された。寝巻き。寝るためだけに身へまとい、外敵を威圧することも、臣下へ威信を示すことも、己の格を世界へ知らしめることも想定されていない、きわめて無防備な衣。私は王として眠る際にも、最低限の威厳を損なわぬ衣装をまとっていたし、寝所に入るからといって己が魔王である事実まで脱ぎ捨てた覚えはない。少なくとも、胸元にこのような気の抜けた熊を住まわせ、見る者の戦意どころか警戒心までも削ぎ落とすような装束を選んだことは一度もなかった。私は無言でクローゼットを開けた。中にはシャツ、ズボン、上着の類が、撤退命令を聞き逃した敗残兵のように押し込まれており、青山タツヤの衣服は全体的に黒、白、灰、紺といった、主張を避けることに全力を尽くしたような地味な色で占められていた。まあ、悪くはない。黒は良い。闇を思わせるからな。
私は黒い上着と黒いズボンを選び、さらに黒いシャツへ手を伸ばしたところで横から里緒奈にあっさり奪い取られた。
「全身黒はやめよ。あんたが着ると、ただでさえ陰キャ感強いのに、今日の喋り方も相まって呪術系ユーチューバーみたいになる」
陰キャ。日陰の者。呪術系ユーチューバー。
意味の輪郭は完全には掴めないものの、少なくとも名誉ある称号ではなさそうだった。
「これ着て。普通でいいから。普通が一番大事。あんたの場合、普通に到達するのがまず目標」
彼女は白いシャツと薄い上着、それから細身のズボンを私に押しつけてきた。普通に到達する。魔王だった私がまず普通を目指す。人生とは急転直下にも程があるな…




