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第3話 あんた童貞なんだから



「行く必要があるのか?」


私は、青山タツヤという器が本来ならば口にするべきであろう曖昧な同意や若者特有の軽薄な返事を選ぶ前に、魔王ゾディアークとしての本音をつい喉の奥から漏らしてしまった。里緒奈はまるで長年飼っている犬が今さら散歩の意味を問い始めたときのような、呆れと諦めとごくわずかな面白がりを混ぜた顔で笑った。


「必要っていうか、あんたが行きたいって言ったんでしょ。まあ、半分くらい私が背中押したけど。ほら、例の子いるじゃん」


例の子。私はその曖昧きわまりない符号を手がかりに、青山タツヤの記憶の底へ意識を沈めた。


例。子。女性。大学。サークル。飲み会。


関連しそうな単語をひとつずつ投げ込んでみると、湿った霧の向こう側で柔らかい声と茶色がかった髪を持つ少女の横顔が、古びた水晶球に映る遠国の幻影のようにちらついた。しかし肝心の名はなかなか浮かんでこない。青山タツヤの記憶め。己の部屋の床に衣類を散乱させるだけでは飽き足らず、情報管理までこの有様とは恐れ入る。かつて私の配下にこの程度の索敵能力しか持たぬ斥候がいれば、減俸のうえ三日間は補給部隊の帳簿整理に回している。


「例の子とは」


私が慎重に尋ねると、里緒奈は「そこも忘れたの?」と言わんばかりに眉を持ち上げ、それから口元に人の弱みを見つけた者特有のにやつきを浮かべた。


「小春ちゃん。将棋サークルの。あんたにこの前、好きな映画の話振ってくれた子。覚えてない?」


小春。こはる。その名を口の中で転がした途端、記憶の霧がわずかに薄くなり、講義棟の前に集まる数人の男女、その端のほうで自分の存在を空気に近づけようとする青山タツヤがいた。そこへ歩み寄ってくる小柄で柔らかな雰囲気の少女が少し遠慮がちに「青山くんって、映画とか見る?」と尋ねる場面が、頼りない灯火のように浮かび上がる。タツヤは、魔王軍の捕虜尋問を受ける新兵でももう少し気の利いた返事をするであろう緊張ぶりで、「見る、かも」とだけ答え、会話はわずか三十秒ほどで寿命を迎え、その直後に里緒奈が肘で彼の脇腹を小突き、「今の何? 生まれたての鹿?」と囁いた。


なるほど。ひどい記憶だ。


戦場で槍に貫かれたときの記憶よりいくらか精神への損傷が大きい。


里緒奈は私の苦々しい沈黙を青山タツヤらしい照れか何かと解釈したのか、実に楽しげな調子で言葉を続けた。


「小春ちゃん、あんたのこと気になってるっぽいよ。いや、気になるって言っても恋愛的にどこまでかは分かんないけど、少なくとも嫌われてはないし、あんたみたいな無害そうな男子がタイプって子も世の中にはいるからさ。せっかく青春っぽいイベントが発生してるんだから、ちゃんと乗っかりなさいよ」


青春、イベント、私は心の内でその二語を、古代碑文に刻まれた異民族の神名を読み解くときのように慎重に反芻した。青春とはおそらく人間の若い個体が成熟へ向かう過程で経験する、学び舎、友人関係、恋愛未満の視線、酒精を含む集団儀礼、本人にとっては世界の終末にも等しい誇張された不安、後年になって思い出すたび頬の筋肉が引きつる失敗、当人だけが運命と誤認する些細な偶然などが複雑に混ざり合った短命種特有の不安定な通過儀礼を指す語であり、イベントとは当人の意思や準備の有無に関係なく発生し、参加者の感情、評判、予定、財布の中身、場合によっては人生観の一部まで巻き込みながら進行する小規模な社会的災害の一種と考えてよいのかもしれない。


つまり青山タツヤという人間は今、種族としての成熟過程における重要な交流儀式の入口に立たされているらしく、見た目は貧弱、部屋は汚く、朝食すらまともに管理できず、会話能力は湿った薪のように火がつきにくく、自己主張は地下牢の壁に生えた苔ほど控えめであるにもかかわらず、そんな個体に対しても雌が興味を示すことがあるという事実は、人間社会というものが私がかつて支配しようとしたどの王国よりも分類困難な領域であることを示していた。


魔族であれば、雄の価値は力、血統、魔力量、獲物を仕留める腕、領地の広さ、夜の持久力、政治的後ろ盾、敵対者の頭蓋をいかに美しく戦利品として飾れるかといった比較的明快な基準によっておおむね判断されるため、青山タツヤがその基準で評価された場合、床下の苔にも負ける可能性がある。それでも小春という女が興味を持っているなら、人間には私の知らぬ選別基準が存在するのだろう。


「小春、か」


私はいかにも以前からその名を知っており、なおかつ不自然に思考を探っているわけではないという顔を作りながらできる限り平静にその二音を舌の上へ乗せた。里緒奈は私の微細な間を特に怪しむこともなく当然の情報を補足する者の気安さで頷いた。


「そうそう。今日の飲み会、小春ちゃんも来るって。あんたも前からちょっと気にしてたじゃん。目で追ってたし」


私は内心で青山タツヤという器の持ち主に対し、軽い驚愕とやや深めの失望を覚えた。貴様、目で追うほど興味を抱いていたのか。器の底に沈んでいる記憶を探ってみても、その小春という女とまともに言葉を交わした形跡は乏しく、視線だけを送り、胸中で勝手に何かを膨らませ、実際には何ひとつ行動へ移せぬまま日々を過ごしていたらしいことがうっすら分かる。勇気がないのか経験がないのか、作戦がないのか。おそらく全部である。私ならば、気になる女がいればまず相手の家系、能力、忠誠心、政治的価値、嗜好、弱点、親族間の権力関係、好む香料、苦手な酒、毒への耐性、過去に受けた侮辱の記録まで洗い出し、必要なら宴へ招き、必要なら決闘を見せ、必要なら宝物庫を開き、必要なら敵対勢力を一つ滅ぼして贈り物とする。もちろんこの世界の人間の大学生がそこまでやれば、恋慕ではなく犯罪、求愛ではなく国家規模の迷惑行為、贈答ではなく司法機関を呼ばれる案件として処理される可能性が高い。ここでも情報不足が、私の足首に湿った蔦のように絡みついている。


里緒奈はそんな私の内心に広がる魔王式求愛戦略の不穏さなど知るはずもなく、軽い励ましのつもりらしい手つきで私の肩を叩いた。


「あんた童貞なんだから、がんばんなさいよ」


童貞。耳に届いたその語は、初めて聞く呪具の名称にも古い修道会の階位にも、未熟な兵士へ与えられる侮蔑的称号にも聞こえた。童の貞。幼き者の貞節。字面から受ける印象だけならば、聖堂の奥で清らかな水を汲む少年神官にでも与えられそうな響きである。私は器の記憶を静かに探り、その語の実際の意味を引きずり出したところで思いのほか生々しい概念が意識の奥からぬるりと顔を出すのを感じた。性経験がない男。女性と肉体的な関係を持ったことのない男。私は一瞬、呼吸の仕方を忘れかけた。


青山タツヤ。およそ二十年を人間の雄として生きている若者。性経験なし。


私は里緒奈の顔を見た。彼女の表情には侮辱というより、姉が頼りない弟の背を雑に押すような気安さがあり、悪意の刃ではなく日常会話の中で少し遠慮のない石ころを投げた程度の軽さしかない。つまりこの世界では二十年ほど生きた雄が未経験であることは、珍しさやからかいの対象にはなり得ても、ただちに一族の長老会議へ召喚され、血統維持への怠慢として槍の柄で背を叩かれるほどの異常事態ではないらしい。


私は驚愕した。魔族の社会において子を残すことは本能であり、義務であり、力の証であり、時に外交であり、血脈を通じて領土と盟約を固定するための極めて実務的な制度でもあった。私のように王位へ立つ者ならば、血を広げ、同盟を結び、優れた血統を残し、側室を抱えることは政治の一部であり、欲望だけでなく国家運営の延長線上に置かれる営みである。私自身側室は数百人を超えていた。誤解のないように言えば、全員を同じように愛していたわけではない。そもそも当時の私は、愛という言葉を外交文書の末尾に添えられる香草のような飾り、あるいは講和条件を少し柔らかく見せるための便利な装飾語程度にしか考えていなかった。血統、権力、快楽、盟約、支配、慰め、暇潰し、時に敵対勢力への牽制、さまざまな理由で女を抱いた。抱かぬ夜のほうが珍しかった。魔王城の夜は忙しい。政務を終え、謁見を終え、暗殺者を返り討ちにし、側室の部屋を訪れ、翌朝には軍議へ出る。あの生活を健康的と呼ぶつもりはないものの、少なくとも生物としての繁殖機能は存分に活用していた。


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