第2話 サークルの飲み会とは
「なに、その呼び方」
彼女の声に含まれた違和感の鋭さを聞いた瞬間、私は己がまたしても浅い水場で足を滑らせた魚のような失態を犯したことを悟った。青山タツヤはこの女を普段どのように呼んでいたのか。
那月。里緒奈。りおな。リオナ。
いくつかの呼称を意識の中で転がしているうちに、青山タツヤという器の奥底から幼いころの高く頼りない声が泡のように浮かび上がり、「リオ」と誰かを呼ぶ響きだけが妙に鮮明に残った。これだ、と判断した私は、不自然さを薄めるために軽く咳払いを挟みながら「リオ」と慌てて呼び直したものの、彼女は納得するどころか眉間の皺をさらに深く刻んだ。
「いや、合ってるけど、なんで今ためらったの。あんたもしかしてほんとに頭打った?昨日の夜、ゲームしながら椅子から落ちたとか?それなら納得するけど」
私は思わず即座に頷きかけた。なるほど実に便利な説明である。相手の側から疑念を処理するための逃げ道を差し出してくれるとは、人間社会にもなかなか洗練された尋問回避の作法が存在するらしい。とはいえどこまで嘘を重ねるかは慎重に見極めねばならず、椅子から落ちたと認めれば痛む場所を聞かれる可能性があり、ゲームというものについて深掘りされた場合私の知識が青山タツヤ本人の記憶の残滓にどれほど支えられるかも分からない。私は喉の奥で小さく息を整え、「少し、頭がはっきりしない」とできるだけ病人らしく、かつ王としての品位を完全には捨てない程度の声で答えた。
「ほらやっぱり病院じゃん。ってか、なんでそんな時代劇みたいな喋り方なの」
青山タツヤよ、貴様は普段どれほど語彙を投げ捨てて生きていたのだ。威厳を抑える演技ならまだしも、知性そのものを半分ほど地面に埋める方向での擬態を求められるとは難易度が別の方角へ跳ね上がっているぞ?
里緒奈は私を押しのけかねない勢いで部屋へ踏み込もうとし、玄関で靴を脱いだところで室内の惨状を視界に収めながら怒るでも嘆くでもなく一拍だけ動きを止めた。
「うわ、いつも通り汚い。ここは安心材料なの腹立つな」
彼女は見慣れた戦場を進む古参兵のように床へ散らばった衣服を足先で端へ寄せ、勝手知ったる他人の部屋というにはあまりにも迷いのない足取りで奥へ進んでいく。私はその後ろ姿を眺めながら、青山タツヤと那月里緒奈の関係が単なる知人や同じ学び舎に通う者という範疇では到底収まらない深度を持っていることを、改めて思い知らされた。異性の住居へここまで無防備に入り込むのは、彼女の警戒心が致命的に薄いからなのか、青山タツヤが雄としてほとんど認識されていないからなのか、あるいは互いの生活圏へ許可なく踏み込むことを長年の習慣として許し合ってきた家族に近い関係だからなのか。いずれの可能性であれ、今の私にとっては貴重な情報源であり、下手な密偵よりも多くの手がかりを運んでくる存在であることに変わりはない。彼女は部屋の窓を開けて淀んだ空気を外へ逃がし、机の上に置かれた空き容器を見つけると、こちらを振り返らないまま「朝から牛丼食べたの?珍しいね。いつもなら朝ごはん抜いて低血糖みたいな顔で講義受けてるくせに」と、あまりにも自然に青山タツヤの日常を暴露した。私は心の中でこの器の本来の持ち主を再び叱責した。朝食を抜くなど、戦士である以前に生物として甘い。戦場なら午前中の突撃で倒れているぞ。腹を満たすのは生物たるものの基本中の基本であり、厳しい世界を生きていく上での第一防壁であり、剣を研がずに戦場へ出る愚か者や補給線を確認せずに遠征を始める無能な将軍と同じく、空腹のまま一日を始める者は己の敗北を朝の時点で半ば受け入れているに等しい。
「それで、今日どうするの?」
里緒奈は私の寝台、いや、この世界の人間がベッドと呼ぶ柔らかな布と綿の集合体の端へ当然の権利のように腰を下ろし、片脚をもう片方の膝へ乗せるという貴族の謁見作法にも軍議の着席規則にも属さぬ姿勢を取りながら尋ねてきた。私は内心で静かに身構えた。
今日どうする、とは一体どの領域についての質問なのか。
大学という学び舎へ向かうか否かか、治癒院に連行されるか否かか、青山タツヤとしての社会的義務を履行するか否かか、あるいは失われた魔力を回復させるためこの星の支配構造を調査し、最終的に諸国家の中枢へ干渉する長期的な覇道の第一歩についてか。
問いの射程があまりにも広く、古代竜の託宣でももう少し範囲を絞る。
「何を、という意味だ」
そう返した直後、私は己の舌がまたしても余計な忠誠心を発揮し、魔王ゾディアークとしての語彙を青山タツヤの喉から堂々と出陣させてしまったことを悟った。里緒奈の目が獲物のわずかな跛行を見逃さぬ山猫のように細くなる。
「だから、その喋り方なに。あんた昨日なんか変な動画でも見た?異世界転生系のやつ?まさか急にキャラ作り始めた?大学二年にもなって?やめときなよ、黒歴史は早めに損切りしたほうがいいって」
黒歴史。闇の歴史。言葉だけを聞けば、私のために鋳造された称号の一種のようにも思える。私の過去が黒いことは疑いようもなく、戦史家が真面目に筆を執れば世界史の半分は焦げ跡と虐殺の注釈で埋まり、残る半分には私の軍がどの王国の穀倉をいつ焼いたかという不愉快なほど詳細な一覧表が載るはずである。もっとも里緒奈の言う黒歴史とは、暗黒大陸遠征や神殿国家陥落の記録ではなく、若者が自意識と羞恥を混ぜ合わせて作り出す後年になって枕に顔を埋めたくなる類いの精神的遺跡を指しているらしい。私は喉を軽く整え、器の底に沈んでいる青山タツヤの記憶を探りながら、その頼りなく曖昧で相手の顔色をうかがう癖のある話し方をできる限り模倣しようとした。
「えっと……今日、なにかあったっけ」
声の芯を意図的に弱め、語尾を曖昧に濁しつつも背筋をわずかに丸めたあとに視線の圧を殺す。魔王としては屈辱的な姿勢である。玉座に座る者が猫背になれば、宰相はきっと国家運営の危機を感じることだろう。将軍たちは王権の衰えを疑い、反乱を考えていた地方領主などは嬉々として密書を飛ばし始めるに違いない。
里緒奈はなおも私を全面的には信用していない顔つきのまま、手にした小型の発光板をこちらへ向け、そこに並ぶ文字列と記号を私の視界へ突きつけた。
「今日はサークルの飲み会があるって先週から言ってたじゃん。あんたも行くって返信してたし。忘れたの?」
サークル?飲み会…?
未知の概念が二つ連続で現れたせいで、私は一瞬だけこの世界の学術機関が想像以上に呪術的な活動を内包している可能性を考慮した。
サークルとは円、輪、環、閉じた線、古代魔術においては内と外を分け、神聖と穢れを区別し、時に悪魔や精霊を封じるための基本構造であり、飲み会とは文字通り何らかの液体を摂取する集会を意味するのだろうから、両者を組み合わせれば「酒精を媒介にした円形集団儀礼」と解釈する余地が生まれる。
大学という学び舎では、若者たちが夜な夜な円陣を組み、発酵した毒性飲料を体内へ流し込みながら社会的結束を確認するのかもしれない。なるほど、魔力のない世界にも油断ならぬ儀式体系は残っているらしい。
「ああ、飲み会」
私は知っているふりをした。里緒奈は医師が熱のある患者の瞳孔を覗き込むような目で私をじっと見た。
「絶対忘れてた顔じゃん。ほんと大丈夫?今日、行ける?体調悪いなら無理しなくていいけど」
その声には先ほど玄関先でこちらを責め立てていた鋭さよりも、ずっと柔らかい心配が混ざっていた。私はその声音にわずかに戸惑った。魔王時代にも私の体調を気遣う者がいなかったわけではない。侍医は脈を取り、宰相は「陛下が倒れられると政務が止まります」と睡眠を勧め、側近の女将軍は「陛下の命は我らの命です」と片膝をついて忠誠を誓った。もっとも、それらは王としての私、軍勢の頂点に立ち、国家の中枢そのものとして機能する私へ向けられた懸念であり、玉座が空位になれば戦線が崩れ、政務が滞り、何万もの兵と民が迷うという極めて合理的な危機管理の一部でもあった。目の前の女が心配しているのは、灰燼の王でも黒曜の覇者でも夜の主でもなく“青山タツヤ”という冴えない青年である。その事実が妙に扱いにくかった。




