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第1話 女の勘というものは、ときに星の巡りを読む占星術師よりも鋭い



「え、ちょ、ほんとに病院案件じゃん!」という、悲鳴とも怒号ともつかない女の声を玄関先で真正面から浴びた私は、たった今自分が口にした返答が、この世界の人間社会において相当に危険な部類へ分類されるものだったのだろうと相手の反応だけで即座に理解した。世界を闇の秩序で統べようとした魔王であろうと、目の前の人間の顔色を読めぬほど鈍くはない。扉の向こうに立つ女、すなわち先ほどから小さな発光板の中に幾度となく名を表示させていた「里緒奈」と思しき人物は、床に落とした鞄を拾い上げることすら忘れたまま、まるで私の顔面に未知の病原菌か古代呪詛の刻印でも浮かび上がっているかのように瞬きも惜しんでこちらを凝視していた。その瞳の奥では怒り、心配、困惑、疑念、ついでに「こいつ本気で面倒なことを言い出したな」という実に人間らしい感情が忙しなく渦を巻いており、かつて私の城へ単身で斬り込んできた若き聖騎士が足元の罠にかかった仲間を助けるべきか、それとも玉座に座る私へ突撃すべきか、命の残量と正義感の配分を必死に計算していたときの表情によく似ていた。要するに、かなり切羽詰まっている。


「青山、冗談だよね? 朝からそういうタイプのボケいらないんだけど。いや、あんたのボケって基本的につまんないし、今のは笑えないし、普通に怖いんだけど」


彼女は息継ぎの場所を見失ったかのような早口でまくし立てながら、こちらの許可を求める素振りもなく私の額へ手を伸ばしてきた。私は反射的にその手首を取ろうとした。敵対者の接触を無防備に許すなど、王としても戦士としても本来なら論外であり、相手が暗殺者なら毒針を仕込まれ、呪術師なら皮膚から魂へ楔を打ち込まれ、勇者ならそのまま距離を詰められて胸を貫かれている場面である。ところがこの貧弱な肉体の反応速度は私の魂が想定した十分の一にも満たず、命令を受けたはずの腕は寝ぼけた下級兵のようにわずかに遅れ、彼女の手のひらはあっさりと私の額へ触れていた。温かい。人間の体温だ。戦場で私に掴みかかってきた兵士たちの血と汗にまみれた手よりもずっと柔らかく、触れ方には警戒よりも心配が勝っていて妙に遠慮がない。


「熱は……なさそう?顔色は悪いけど、寝不足? ていうか、目つき変じゃない?いつも死んだ魚みたいなのに、今日はなんか魔王みたいな顔してる」


惜しい。実に惜しい。女の勘というものは、ときに星の巡りを読む占星術師よりも鋭く刃物のように理屈を飛び越えて真実の皮膚へ届くことがあるとは聞いていたものの、まさか初手から本質のすぐ脇を掠め、あと指一本ぶん踏み込まれていれば正体を言い当てられていたような場所まで迫られるとは思っていなかった。私は内心の動揺を眉ひとつにすら宿さぬよう努め、できる限り青山タツヤという人間の声帯に負担をかけぬ平坦な声音で、「魔王ではない」と答えた。里緒奈はその一言を聞いた途端、先ほどまでの心配と困惑をさらに深く煮詰めたような顔になり、私の額に触れていた手をわずかに引きながらまるで本当に危険な患者を前にした治癒師のような目でこちらを見た。


「誰も本気で言ってないのに、そこ真顔で否定するの怖すぎるから」


私は、己の失策を認めざるを得なかった。現在の私は魔王ゾディアークであると同時に、青山タツヤという人間として扱われる存在でもあり、この里緒奈という女は少なくともその青山タツヤの異変を見過ごさず、顔色、目つき、声の調子、朝一番の返答ひとつから普段との違いを拾い上げる程度には彼の生活圏のかなり内側へ入り込んでいるらしい。今ここで必要なのは力任せの威圧でも、玉座の上から下す命令でも黒炎によって相手を黙らせる暴力でもなく、あくまで情報収集と演技である。魔王軍を率いていた時代、私はいくつもの人間王国へ間者を送り込み、王族同士の不仲、軍備の配置、食糧庫の備蓄量、城壁の脆い箇所、将軍が何人の愛人を抱え、そのうち何人に酔った勢いで機密を漏らしているかまで把握させていた。情報の重みを知らぬ者は剣を抜く前から自分の墓穴の寸法を測り始めているも同然であり、たとえ戦場が黒煙に包まれた平原ではなく朝日が差し込む安っぽい集合住宅の玄関先であったとしても、その原則だけは変わらない。私は玄関扉を半分だけ開けたまま、里緒奈という女の顔立ち、姿勢、呼吸の速さ、視線の癖、そしてこちらとの距離を詰めることに迷いを見せない仕草をできる限り自然な沈黙の中で観察した。年齢は青山タツヤと大きく離れていない。肌の張りや声の高さ、服装、肩に掛けた鞄、朝の時間帯にわざわざこの部屋まで来た事実を総合すれば、同じ学び舎に通う者と見てよいだろう。背は今の私より少し低く髪は黒に近い茶色で、差し込む朝の光を受けた毛先だけが淡く透け、横顔の輪郭を柔らかくほどいている。目はよく動き表面上は怒っているように見えながら、その奥にはこちらの小さな変化を逃すまいとする警戒と放っておけば何か取り返しのつかないことになるのではないかという心配が同居していた。口調はかなり砕けており、遠慮という防壁をほとんど持たない。敵意はない。心配はある。怒りも少々ある。つまりこの女は青山タツヤに対して長年積み重ねてきた権利、あるいは許可なく踏み込むことを互いに許してきた関係性のようなものを持つ人物である。幼馴染、という器の記憶の断片が意識の底からゆっくり浮かび上がった。幼馴染。幼きころより馴染みし者。魔族社会にも似た関係はあった。幼体のころから同じ巣穴で牙を研ぎ合い、成体になった暁には権力争いの末に片方が片方を崖から落とす、実に健全で分かりやすい絆である。人間の場合は、もう少し穏やかなものらしい。


私は青山タツヤの記憶を掘り起こした。できる限り必死に、容赦なく、敵国の地下牢へ隠された密書を探すとき以上の執念で意識の奥底へ手を突っ込みながら、白く濁った霧の向こうに沈んでいる断片を爪で引っかくようにかき集める。


那月里緒奈。


なつき、りおな。


改めてその名を心の中で唱えた途端、古びた幻灯機が壊れかけの光を壁へ投げるようにいくつかの景色が途切れ途切れに浮かび上がった。


小さな公園、

夕暮れ、

錆びたブランコ、

木の上から下りられなくなって泣いている青山タツヤらしき幼い少年、

その足元で腕を組みながら「泣くくらいなら最初から木に登らなきゃいいじゃん」と呆れた声を投げつつ、なぜか彼が無事に地面へ足をつけるまで帰らず待っていてくれた少女。


小学校の教室、ざわつく授業前の空気で消しゴムを忘れて机の中を無意味に探り続けるタツヤ、そんな彼へ半分に折った消しゴムを何も言わず投げてよこし、受け取り損ねて床へ落としたのを見て小さくため息をつく里緒奈。

中学の体育祭、乾いた土の匂いの下で白線の引かれたトラック、足の遅いタツヤがリレーで何人にも抜かれ、焦れば焦るほど走り方が崩れていく姿を観客席から見つけた彼女が、「せめて腕を振れ!」と応援なのか叱責なのか判別しにくい声を張り上げている場面。

高校の帰り道、灰色の空、濡れたアスファルト、傘を忘れて途方に暮れるタツヤの横で、彼女が「ほんと昔から準備って概念ないよね」と呆れながらも、自分の傘をわずかに傾けて彼を雨の中へ入れてくれる記憶。


どの断片も音は遠く、色は薄く、輪郭は水に浸した羊皮紙の文字のように滲んでいたものの、那月里緒奈という女が青山タツヤの人生のかなり深い場所へ根を張っていることだけは疑いようもなく理解できた。…これはまずい。深い関係の相手ほど些細な異変を見逃さないだろうし、まして私は先ほど自分のことを「私」と呼び、この場所はどこか、自分が誰なのかと真正面から尋ねてしまった。青山タツヤという男が普段からその種の奇行を日常的に披露していたならまだ取り繕う余地もあっただろうに、記憶の中の彼は気弱でやや鈍く、無気力気味で、少なくとも魔王的な威厳や支配者としての圧とは縁遠い存在だった。つまり今の私は、全身の毛穴という毛穴から不審さを盛大に噴き出している状態である。


「えっと、里緒奈」


私は喉の奥に残る違和感を押し殺しながら、できる限り青山タツヤという人間が発しそうな温度と弱さを探り当て、慎重に彼女の名を呼んだ。


彼女の眉が動いた。



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