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プロローグ


挿絵(By みてみん)




私は魔王であった。


こう言うと、多くの者は黒い外套をまとい、角を生やし、玉座の上で下卑た笑みを浮かべながら「世界を滅ぼしてくれるわ」などと喉の奥で笑う、いかにもな悪役を想像するのかもしれない。先に言っておくと、私はそこまで暇ではなかった。世界を滅ぼすという行為は、実際にやろうとすると驚くほど手間がかかる。山脈ひとつを焼き払うにも配下の補給線を考えねばならず、王都を落とすにも下水道の構造や民衆の避難路まで把握しておく必要があり、各地に散った古代結界を破るには面倒な儀式と、儀式を邪魔しに来る聖騎士たちを黙らせるためのそれなりに品のある暴力が求められる。玉座にふんぞり返って笑っているだけで世界が闇に沈むなら、どれほど楽だったか。少なくとも私は、毎朝目覚めるたびに宰相から積み上げられる羊皮紙の山を見て、これなら勇者一行と一日中斬り合っていたほうがまだ精神衛生に良いのではないかと、わりと本気で考えていた。


私の名はゾディアーク。灰燼の王、黒曜の覇者、千の軍勢を束ねし夜の主、古竜の心臓を喰らいし者、その他にも聞く者が途中で飽きるほど長い二つ名を持っていた。自分で名乗ったものはひとつもない。配下や敵が勝手につけ、歴史家が尾ひれをつけ、吟遊詩人が酒代欲しさに三倍ほど誇張したものが広まった結果、私の名前の前には、まるで貴族の晩餐会に出される料理の品書きのように長々しい修飾がくっつくようになった。正直に言えば、私はただのゾディアークでよかった。呼ぶ側も楽であろうし、呼ばれる側も返事をしやすい。


かつて私が生きた世界は、今思い返してもずいぶん騒々しい場所だった。東には霊峰が連なり、西には毒霧を吐く沼が広がり、南には神殿国家があり、北には私の城があった。空には二つの月が浮かび、夜が深くなると銀と紫の光が大地を照らしていた。魔力の濃い土地では草木が人の言葉を真似し、獣は影の中を泳ぎながら古い遺跡は気分によって入口の位置を変えた。あの世界では雨には雨の精霊が宿り、火には火の記憶があり、剣には鍛えた者の怨念や誇りが染みついていた。人間たちはそれを奇跡と呼び、魔族たちは理と呼び、神々は退屈しのぎの盤面と呼んでいたように思う。


人間と魔族は長く争っていた。理由は無数にある。領土、資源、信仰、血の恨み、先祖代々の言い伝え、どこぞの王子が魔族の姫に恋をして逃げられた腹いせ、逆に魔族の若き将が人間の聖女に貢ぎすぎて破産しかけた事件など、戦争というものは案外くだらない火種からでも燃え上がる。もちろん、歴史書にはもっと立派な言葉が並ぶ。種族の存亡、光と闇の宿命、聖なる秩序と原初の混沌の対立、耳触りの良い言葉はいくらでもある。けれど実際に戦場で剣を振るう者たちの顔を見ると、そこにあったのは腹を空かせた兵士の不満であり、家族を殺された者の怒りであり、明日には死ぬかもしれないという恐怖であり、誰かに褒められたいという小さな願望であった。私はそれを知っていた。知ったうえで、それでも世界をひとつに統べようとした。


なぜかと問われれば、私なりの理想があったからだ。人間は弱く、魔族は強く、強い者が弱い者を支配するのは自然なことだと、多くの魔族は笑っていた。私はその考えが嫌いではなかったものの、完全に同意していたわけでもない。強い者が好き勝手に奪えば、弱い者は必ず群れ、罠を張り、いずれ強者の寝首をかく。ならば最初から、すべての種族をひとつの秩序の下に置けばよい。誰が強く、誰が弱く、誰が従い、誰が裁くのかを明確にすれば、無駄な戦は減る。私は世界を闇で覆おうとしたと伝えられているらしいが、私からすれば、闇とは休息の名であり、混乱した世界に与える静寂の毛布のようなものだった。まあ、毛布にしては少々分厚く、うっかり被せられた者が息苦しさで悲鳴を上げていた点は否定しないが。


その理想の前にただ一人、どうしても退かぬ男が立ちはだかった。


勇者である。


その名は今なお私の胸奥に熾火のごとく残っている。思い出すたびにとうに塞がったはずの古傷が鈍く疼き、同時に喉の奥から愉快でたまらぬ笑いがせり上がってくるのだ。まったく、不思議な男であった。勇者などというものは本来、神殿が勝手に選んで王が見栄と打算で支援し、民衆が救いへの渇望を一身に押しつける実に迷惑千万な称号にすぎぬと、私は長らくそう考えていた。


事実私の前に現れた勇者候補どもの大半は、その認識を裏切らなかった。剣を握って数日も経たぬ青二才が、まだ血の匂いも知らぬ唇で正義を語り、仲間を三人ばかり引き連れて私の城門へ突撃しながら、挙げ句の果てには門番に説教されて追い返される。そんな茶番を私は玉座の上から幾度となく眺めてきた。中にはご丁寧にも謁見を求める書状を送りつけてきた者までいたが、その宛名が「魔王ゾディアック様」となっていた時には、さすがの私もわずかに眉をひそめたものだ。私は星占いの道具ではない。夜空に浮かぶ気まぐれな星座と一緒にされては、こちらの沽券にも関わる。


だが、あの勇者だけは違った。


彼もまた正義を口にしたが、その正義を己の行いを白く塗りつぶすための免罪符には決してしなかった。誰かを守るために剣を振るい、誰かを救うために敵を斬り伏せながら、それでもなお救えなかった者、斬らねばならなかった者、己の選択の陰で命を落とした者たちの数を決して忘れようとはしなかったのだ。


私の配下を斬れば、彼はその名を尋ねた。墓を作れる場所であれば石を積み、土を掘り、名も知らぬ兵にさえ祈りを捧げた。墓など作れぬ荒れ果てた戦場では血と泥に濡れた地面へ剣を突き立て、ほんの一瞬だけ目を伏せる。まったく愚かな所作であった。私は笑ってやった。戦場で死者に祈る暇があるなら次に迫る敵の首筋を見定めるべきだと、魔王として、そして戦場を知る者として、至極まっとうな忠告をくれてやった。


すると彼は汗と血と煤に汚れた顔を上げ、まっすぐに私を見据えて言った。


「お前には分からない」


その瞬間、私は思わず腹を立てた。玉座を揺るがすほどの怒りではないし、天地を焦がすほどの憤怒でもない。ただ胸の奥を鋭く突かれたような、ひどく厄介な苛立ちであった。


なぜなら、私がその言葉の意味を理解できなかったからではない。


むしろ逆だ。


ほんのわずかに、理解してしまったからである。


私と勇者は、数え切れぬほど刃を交えた。


黒曜石の柱が並ぶ黒い城の玉座の間で。天を映すほど凍りついた大河の氷上で。硫黄の匂いを含んだ熱風の中、炎の雨が斜めに降り注ぐ峡谷で。名も失われた神々の墓標が、折れた牙のように無数に突き立つ白い荒野で。地下深く、始祖竜の白骨が大地そのものの肋骨のように横たわる、息の音さえ呑み込む暗闇の中で。


私たちは再び相まみえるたび、互いの命をひと欠片ずつ削り取っていった。


剣と爪が打ち合う音は雷鳴よりも鋭く、耳ではなく骨の奥にまで響いた。私の魔力と彼の聖光が絡み合うたび、空間は裂かれた獣のように身をよじり、目に見えぬ傷口から甲高い悲鳴を噴き上げた。周囲の兵たちはもはや敵味方の区別すら忘れていた。ただ、あの衝突の余波に触れぬよう武器を取り落とし、盾を引きずりながら後退するほかなかった。


私の黒炎は彼の銀の鎧を焼き、胸甲に焦げた獣の爪痕のような跡を残した。彼の聖剣は私の角を砕き、欠けた断面からは灼けるような痛みと共に黒い血が滴った。私は彼の肋を折り、その呼吸を一瞬だけ途切れさせた。彼は私の左目に聖なる斬撃を叩き込み、二度と癒えぬ白い傷を刻みつけた。


最初、勇者は私にとって腹立たしい害虫にすぎなかった。


踏み潰せば終わるはずの、小さくしつこく、耳障りな存在。


次に、彼は厄介な敵となった。


無視すれば背を裂かれ、侮れば喉元へ剣を届かせる忌々しいほど確かな脅威。


そして、いつの頃からか。


戦場を覆う赤い煙の向こうに彼の姿を見つけるたび、私の胸の奥で何かが奇妙に跳ねるようになった。これは殺意だと、私は幾度も自分に言い聞かせた。あれは間違いなく殺意だったはずだ。牙を剥き、爪を研ぎ、相手の息の根を止めようとする熱。血を沸かせながら視界を狭め、世界から彼以外のすべてを消し去る衝動。


それは確かに、殺意に似ていた。


しかし殺すだけでは足りぬ何かが、いつしかその奥底に根を張っていた。


最後の戦いは、世界の中心にそびえる黒陽の塔で行われた。


天を貫くその塔は昼であっても黒い影を落とし、雲は頂の周囲で焼け焦げた布のように渦を巻いていた。塔の最上階には世界中の魔力を束ねる古き炉が眠っていた。私はその炉を掌握し、各地の王国や神殿、聖域、魔術院、そのすべてを同時に沈黙させるつもりでいた。王たちの祈りも神官たちの歌も民の希望も、炉の一息で灰に変えるつもりだった。


勇者は仲間を失いながら塔を登ってきた。


一人、また一人と背後に残し、それでも足を止めず、血の跡を階段に刻みながらついに私の前へ辿り着いた。彼の鎧は幾筋にもひび割れ、肩当ては砕け、聖剣の刃は半ば欠けていた。髪には乾きかけた血がこびりつき、頬には煤と涙の跡が黒く残っていた。乱れた呼吸のたびに肩がわずかに上下し、そのたびに彼の全身から限界を告げる軋みが聞こえるようだった。


だが、それでも彼の目は折れていなかった。


私もまた、無傷ではなかった。


右腕は半ば炭化し、指先は動かすたびに灰となって崩れた。片翼は根元から千切れ、背から流れ出た黒血は床に落ちる前に蒸気となって消えていった。胸には聖剣の光が毒のように入り込み、呼吸をするたびに内側から肉を焼いた。肉体は崩れかけて魔力の炉心は不吉な音を立てて軋み、玉座に君臨する王として立つにはあまりにも損なわれた姿だったろう。


それでも。


あの瞬間の私は、生涯で最も満たされていた。


愚かな話である。


世界の命運を賭けた戦いの最中に。無数の民が恐怖に震え、神々さえ沈黙し、勝敗ひとつで歴史が終わるその場所で。


私は王としてでも支配者としてでも、魔の軍勢を統べる者としてでもなく。


ただひとりの戦士として、勇者の前で笑っていたのだから。


勇者も笑っていた。


砕けた鎧の隙間から血を流し、唇の端を赤く濡らしながら、それでも彼は確かに笑っていた。歯を食いしばるたびに頬が震え、喉の奥からこぼれた血が顎を伝って胸当てに落ちる。それでもその目だけは折れていなかった。濁るどころか燃え尽きる寸前の星のように、ますます強く輝いていた。


あの男は私を憎んでいたはずだ。


当然だろう。私は彼の故郷を焼いた。幼い頃に駆け回ったであろう麦畑を黒い灰に変え、家族の眠る墓標さえ踏みにじった。彼に剣を教えた師を殺し、彼の仲間を幾度となく死の淵へ追い込んだ。許されるはずがない。許されたいと思ったこともない。私という存在は彼にとって倒すべき災厄であり、憎悪を注ぐにふさわしい敵だった。


それなのに、彼の笑みには単なる憎しみだけでは説明できない熱があった。


怒り。執念。痛み。誇り。そして、認めたくはないが、私にも覚えのある歓喜。命を削り、魂を焦がし、限界のさらに先へ踏み込んだ者だけが知る、あの狂おしい高揚がそこにあった。


おそらく、彼も分かっていたのだろう。


私たちは互いのすべてを否定しながら、互いの存在によって最も強く自分自身を証明していた。勇者は私を討つことで己の正義を貫き、私は彼を砕こうとすることで己の闇を完成させようとしていた。正義も悪も、光も闇も、勝者も敗者も、その瞬間だけは遠のいていた。残っていたのはぶつかり合う刃の火花、焼けた魔力の臭い、肺を裂くような呼吸、そして耳の内側で鳴り響く自分の鼓動だけだった。


最後に勝ったのは、勇者だった。


聖剣が私の胸を貫いた瞬間、世界が白く弾けた。肉を裂く感触よりも先に、胸の奥で何かが静かに砕ける音がした。黒陽の炉が悲鳴のような轟音を上げて崩壊し、塔の頂から膨大な魔力の光が夜空へ散っていく。紫紺の雲は裂け、焼け焦げた石床には光の粒が雪のように降り注いだ。


私は膝をついた。


崩れゆく世界の中心で、私は彼の顔を見上げた。血と煤に汚れ、片目は腫れ、呼吸も荒い。英雄と呼ぶにはあまりに傷だらけで、勝者と呼ぶにはあまりに疲れ果てていた。それでも彼は立っていた。私の前に、ただ一人で。


悔しさはあった。怒りもあった。敗北を認めることは、今思い返しても趣味が悪いほど不愉快だ。私は支配者だった。奪う側であり命じる側であり、世界を跪かせる側だった。その私が膝を折り、見上げる側に回っている。笑えるほど屈辱的で、吐き気がするほど腹立たしい。


けれどそれ以上に私は、終わってしまうことが惜しかった。


長い長い生涯の中で、これほどまでに「生きている」と感じた時間はなかった。玉座に座り、無数の配下に頭を垂れられた時でさえ、これほど胸は熱くならなかった。国を滅ぼし、宝物庫を満たし、敵の王に命乞いをさせた時でさえ、これほど鮮やかに自分の存在を感じたことはなかった。


ただ全力でぶつかること。互いの信念を刃に乗せ、魔力に焼きつけ、命の底までさらけ出すこと。相手を否定しながら、その強さだけは認めざるを得ないこと。燃やし尽くすようなその戦いの中で、私は初めて自分というものの輪郭をはっきりと知った。


勇者が何かを言った。


だが、耳はもうほとんど音を拾わなかった。遠くで塔が崩れる音がしている。石が砕け、風が唸り、誰かの叫びが闇の向こうへ流れていく。視界は端から黒く滲み、体は指先から灰になりかけていた。痛みさえ薄れていく中で、彼の唇だけが動いて見えた。


あれは別れの言葉だったのか。


呪いだったのか。


それとも、祈りだったのか。


私には分からない。


分からぬまま、私は死んだ。


少なくとも、そのはずだった。


そこから先の記憶は、深い水底に沈む夢のように曖昧である。深い深い闇があった。静かで冷たく、広すぎる闇だった。肉体はなく声もなく、玉座もなく、配下の足音もなく、戦場の匂いもなかった。魔王という名も、ゾディアークという存在も、ほどけた糸のように薄れていった。時の流れは感じなかった。千年か、万年か、一呼吸ほどの短さか、そのすべてが同じだった。ときおり遠い場所で誰かが笑う気配がした。あれは勇者だったのかもしれないし、私を迎えに来た死神の退屈そうな欠伸だったのかもしれない。いずれにせよ、私はその闇の中でひとつだけ消えずに残った願いを抱えていた。


もう一度、あの男と会いたい。


再び戦いたいのかと問われれば、答えは当然、是である。あの剣ともう一度ぶつかり、あの目にもう一度睨まれ、あの声で私の名を呼ばれたい。前回は負けたので、できれば今回は勝ちたい。魔王として当然である。負けっぱなしで満足するほど、私は人格者ではない。とはいえ勝つためだけなら、勇者でなくともよかったはずだ。強者など世界にはいくらでもいた。神も竜も巨人も、殺し甲斐のある相手は山ほどいた。それでも私の魂が求めたのは、ただひとりだった。あの勇者と、あの時間の続きをしたかった。たとえ世界が変わり果て、私が灰になり、あの男が遠い転生の果てに別の姿を得ていたとしても、魂の奥に刻まれた火だけは消えぬと根拠もなく思っていた。


その願いがどれほど長いあいだ闇の中をさまよい続けていたのか、私には知るすべがなかった。時間というものがまだ存在しているのかさえ曖昧で、ただ冷たく重い暗闇だけが、果てのない海のように私の意識を包み込んでいた。


しかしやがてその闇の底に、針で突いたような小さな光が差した。


最初は頼りない一点に過ぎなかったその光は、閉ざされた瞼の裏側へじわじわと染み込み、やがて薄い膜を押し広げるように私の意識の輪郭を照らし出していった。それに続いて耳の奥にくぐもった音が戻ってくる。遠くで水が滴るような音。布がこすれるような音。どこかで何かが低く唸っているような、規則正しく間の抜けた振動音。


次に、鼻の奥へ奇妙な匂いが入り込んできた。


薬草の青臭さではない。血の鉄臭さでもない。硫黄の焼けつくような刺激臭でもなかった。湿った布の黴びた匂い、長く使い込まれた古い木材の乾いた匂い、甘ったるく安っぽい人工的な香料、そして人間が日々を営む場所にこびりつく、汗や埃や食べ物の残り香。それらが狭い空間の中でぐずぐずに混ざり合い、ひどく曖昧で、ひどく生々しい臭気となって私の鼻腔を満たしていた。


私はその不快な匂いに、思わず顔をしかめようとした。


そこで気づいた。


顔がある。


瞼がある。舌がある。歯がある。喉があり、肺があり、胸の奥には小さな心臓が頼りなく脈打っている。空気を吸い込むと薄く冷えたものが喉を通り、肺の内側をぎこちなく膨らませた。呼吸ができる。鼓動がある。私は、再び肉体の中にいる。


意識が柔らかく脆い器の内側へ無理やり押し込まれていくような感覚に、私は反射的に魔力を巡らせようとした。魂の中心を掴み、かつてと同じように暗黒魔力の奔流を血脈へ叩き込もうとする。


何も起きなかった。


いや、厳密には、何かは起きた。


胸の奥でひどく頼りない心臓が、どくん、と一度だけ大げさに跳ねた。続いて腹のあたりが、きゅるり、と情けない音を立てる。飢えた獣の咆哮などではない。戦場を震わせる魔王の怒号でもない。ただの空腹だった。


ありえない。


かつて私の体内を黒い奔流となって駆け巡っていた暗黒魔力は、一滴たりとも残っていなかった。血管を流れているのは魔を帯びた灼熱の血ではなく、ぬるく弱い、ただの血。骨は羽根のように軽く、筋肉は頼りなく薄く、皮膚は傷ひとつで裂けそうなほど柔らかい。牙もない。爪もない。額にそびえていた角も、背を覆っていた翼も、影を従える尾もない。


私は、恐る恐る目を開けた。


視界に飛び込んできたのは、黒曜石を磨き上げた城の天井ではなかった。戦場を覆う血のように赤い空でも、玉座の間を荘厳に飾っていた巨大な魔獣の頭骨でもない。


そこにあったのは、ただ白っぽい、平たい天井だった。


低い。


あまりにも低い。


天井が、信じがたいほど低い。


私の城であれば、召使い用の物置でさえもう少し威厳と高さを備えていたはずだ。少なくとも魔王たる私の視界いっぱいに、こんなみすぼらしい白い板が迫ってくることなど断じて許されなかった。


私は、まず体を起こそうとした。


ただ上半身を持ち上げるだけの、あまりにも単純な動作のはずだった。玉座から立ち上がるより容易く、戦場で倒れ伏した巨獣の背を踏み越えるよりも退屈な所作。そう思っていた。


だが、現実は違った。


布団の下に沈んだ体は予想以上に重かった。いや、重いというより、力の通し方が分からない。腹に力を込めたつもりなのに、肝心の腹筋という部位がまるで長年職務を放棄していた下級兵のように鈍く、必要な時に限ってまともに働かない。


「……っ、ぐ」


喉の奥から、思わず情けない呻き声が漏れた。


上半身を起こす。ただそれだけの行為に失敗しかけたのである。


魔王が。


この私が。


かつて魔族の頂点に君臨し、数多の勇者を返り討ちにし、竜の咆哮すら退屈な子守唄として聞き流していたこの私が、起床という人類最初の試練に敗北しかけている。


その事実を、私はしばらく受け入れることができなかった。


どうにか肘をつき、ぎこちなく体を支えながら自分の腕を見下ろした。


細い。


白い。


そして、ひどく頼りない。


骨の形が薄い皮膚の下に透けて見え、青い血管が頼りなく浮かんでいる。かつての私の腕には、鎧の上からでも分かるほどの筋肉と幾度もの戦で刻まれた傷跡と、敵の血を浴び続けた者だけが持つ凄惨な迫力があった。ところがどうだ。今ここにあるのは全然違う。硬い剣だこもなければ爪の根元に宿っていた黒い毒もない。指先から呪詛を滲ませることもできない。


あるのは、五本ずつの指だけだった。


私はその手を握った。


開いた。


もう一度、強く握ってみた。


何も起きない。


骨が軋むほどの力も空気を震わせる魔力の波動も、掌の内側に集まる破壊の予兆もなかった。ただ、柔らかい指が頼りなく丸まり、すぐに疲れたように力を失うだけだ。


握力は、良く見積もっても病み上がりの文官程度。


悪く見積もれば、書類の束にすら敗北しかねない。


かつて片手で竜の首を捻り、爪先ひとつで城壁を砕き、退屈しのぎに巨大な魔獣の顎を押さえつけていたこの私が、今は布団の端を掴むだけで己の非力さを思い知らされている。


……屈辱にもほどがあった。


深く息を吸いながらもせめて威厳だけは失うまいと心を落ち着けてから、周囲を見回した。


そこは、奇妙な小部屋だった。


まず、狭い。圧倒的に狭い。私の城であれば、従者が夜間に燭台を補充するためだけの控え室でももう少し余裕があった。天井は低く壁は近く、空気はどこか湿っていて、人間の生活が長く染みついたような重さがあった。


床には布や紙や用途の分からない小物が無秩序に散らばっていた。丸められた衣類、開きっぱなしの本、何かの包装紙、細い紐の絡まった道具、空になった容器。どれも一応は人間の生活に必要なものなのだろうが、少なくとも玉座の間に置かれるべき品ではない。


壁には、何枚もの絵が貼られていた。


それも戦勝記念の肖像画や、英雄を処刑する場面を描いた荘厳な絵画ではなかった。色だけはやたらと鮮やかで、妙に大きな目をした人間らしき男女がこちらに向かって不自然な笑みを浮かべている。隅には意味の分からない記号や文字が並び、何かの紋章かと思えば、どうにも威厳がない。


机の上には薄い板のようなものが置かれていた。さらにその隣には黒く光る長方形の物体が沈黙している。魔道具かとも思ったが、魔力の気配は一切ない。にもかかわらず表面は妙になめらかで、こちらの姿をぼんやりと映し返していた。


私は警戒しながらそれを睨んだが、黒い長方形は何も答えなかった。


小さな棚には本が並んでいた。


そこに魔導書のような圧力はない。禁呪を封じた革装丁の重々しさも、読み手の精神を侵す古代文字の気配もない。代わりに表紙には笑顔の男女や、派手な衣装をまとった人物、意味不明な記号、やたらと甘ったるい色彩が印刷されている。


おそらく本なのだろう。


しかし、私の知る本とは別の生き物だった。


部屋の隅には衣服が山のように積まれていた。畳まれているわけではない。整えられているわけでもない。ただ脱ぎ捨てられ、押しやられ、忘れ去られた布の群れが敗残兵の死体のように折り重なっている。椅子の背には上着が引っかかっており、その姿は脱皮に失敗した蛇の抜け殻に似ていた。


私は結論を下した。


ここを支配する者の美的感覚は、相当に終わっている。


いや、美的感覚以前の問題かもしれない。秩序がない。威厳がない。支配者の気配がない。あるのは怠惰と生活臭と、片づけという概念に敗北した者の痕跡だけである。


私の配下であれば、三日ほど地下牢に放り込み、雑巾と箒だけを与えて掃除の大切さを骨の髄まで学ばせるところだった。


私は壁に片手をつきながら、どうにか立ち上がった。


その瞬間、膝が小さく鳴った。


本来骨が鳴る音とは、戦いの前に肉体が目覚める合図であり、血を沸き立たせる高揚の響きであるはずだった。だが今この貧弱な関節から発せられた音は、戦士の覚醒などでは断じてない。ただ長らく運動らしい運動をしてこなかった若者の膝が、突然の労働に対して不満を申し立てただけのひどく情けない抗議音に聞こえた。


足元がぐらりと揺れる。


私は反射的に壁へ手をついた。


壁は冷たかった。表面は滑らかだが、石壁のような重厚さはない。掌を押し当てると、向こう側からかすかな振動が伝わってくる。どこか遠くで、誰かが歩いているような音。床を踏む鈍い響き。何かを引きずるような低い気配。


薄い。


あまりにも薄い。


私の城の石壁であれば、巨人が戦槌を振り下ろしたところで埃ひとつ落とさず耐えてみせた。炎竜の突進でさえ、外壁に傷をつけるには三度の助走が必要だったほどだ。


それに比べて、この壁は何だ。


厚みも威圧感もない。守護の魔法陣もなければ、侵入者を焼き殺す呪印もない。触れれば分かる。これは防壁ではない。ただ、空間を仕切るためだけに立てられた薄い板だ。


人間は、本当にこんな薄皮一枚の棲家で眠るのか。


寝ている間に敵が来たらどうする。


壁を破られたら終わりではないか。


窓を割られたら終わりではないか。


いや、待て。この体なら、壁も窓も破られる前に終わる可能性が高い。寝首をかかれる以前に、転んだだけで何かしら致命的な損傷を負いかねない。


ふむ。


問題は、想像以上に深刻である。


私は眉間に皺を寄せながら、よろよろと歩き出した。足裏に触れる床の感触は頼りなく、踏み出すたびに体の重心が思うように定まらない。かつての私なら戦場の瓦礫の上でも、竜の背でも、崩れゆく城壁の縁でも、微塵も揺らがず立っていられた。しかし今は部屋の床を数歩進むだけで、まるで老いた下級悪魔のように足取りが覚束ない。


やがて扉らしき板の前にたどり着いた。


取っ手を握る。


これもまた軽い。あまりにも軽い。封印扉のような重みもなければ、開けた者の魂を試す試練もない。少し力を込めると、扉は拍子抜けするほど簡単に開いた。


その先には、細い廊下があった。


狭い。


横幅は私の城の大廊下に敷かれていた絨毯の模様ひとつ分にも満たない。左右の壁が妙に近く、前へ進むだけで圧迫感がある。廊下の先にはさらに小さな空間が口を開けていた。


私は警戒しながらそこへ入った。


そこには白い陶器の器があった。滑らかな曲線を持ち、奇妙な清潔感を放っている。近くには銀色に光る蛇口が突き出し、壁には四角い鏡がかかっていた。


水場か。


私は蛇口を一瞥した。魔力の気配はないが、形状からして水を出すための装置であることは想像できる。人間の道具は不可解だが、完全に無秩序というわけではないらしい。


問題は、鏡だった。


その鏡面は、やたらと鮮明だった。魔法鏡のような禍々しい気配も、古代精霊が封じられた気配もない。ただ壁に取りつけられただけの平凡な鏡であるにもかかわらず、こちらの姿を残酷なまでに正確に映し出している。


私はその前に立った。


そして、言葉を失った。


鏡の中に、一人の冴えない人間がいた。


いや、冴えないという表現は、その人間に対していささか寛大すぎるかもしれない。


年は十代の終わりか、二十代の始め。黒い髪は寝癖であちらこちらへ跳ね、頭の上で好き勝手に反乱を起こしている。顔立ちそのものは極端に醜いわけではない。だが、問題はそこではなかった。


全体から覇気がない。


目元には薄い疲れが滲み、まぶたは重たげに落ちている。瞳には敵を威圧する鋭さも、軍勢を従える支配者の光もない。ただ、昨日も今日も明日も大して変わらぬ日々を過ごしてきた者特有の、諦めに近い鈍さが沈んでいた。


輪郭にも姿勢にも、自信のなさが染みついている。


肩は狭く背は丸い。首は前に出ている。胸を張るという発想そのものを、人生のどこかに置き忘れてきたような立ち姿だった。肌には陽に焼けた戦士の色も、魔力に灼かれた魔族の仄暗い艶もない。代わりにあるのは、長く室内で過ごした者だけが持つ、薄く、頼りなく、どこか血の巡りまで弱そうな白さだった。


服装もまた、理解しがたいものだった。


柔らかい布でできた上下。防御力は皆無。刃を受ければ一瞬で裂け、火を浴びればたちまち燃え、毒液をかけられれば何の抵抗もなく染み込むだろう。戦場どころか、城の廊下を歩くにも不安が残る装備である。


そしてその胸元には、妙に愛嬌のある獣の絵が描かれていた。


私は、その獣と目が合った。


丸い耳。丸い目。短い手足。ふにゃりと緩んだ口元。敵意も殺意も野性もない。威嚇するつもりなど最初から持ち合わせていないような、徹底して腑抜けた顔をしている。


私はしばし、その獣を睨みつけた。


おそらく、熊だ。


熊は熊なのだろうが、熊にしてはあまりにも弱そうだった。魔界の熊であればこんな顔で生まれた時点で群れから見捨てられる。牙を剥く前に淘汰され、爪を振るう前に食物連鎖の下層へ叩き落とされるだろう。


それが今、私の胸元で呑気に笑っている。


魔王たるこの私の胸元で。


私は、鏡の中にいる人間を睨みつけた。


するとその人間もまた、こちらを睨み返してきた。


私が眉を片方だけ持ち上げると、鏡の中の人間も同じように眉を上げる。私が目を細めれば、向こうも目を細める。唇を引き結べば、そいつもまた妙に頼りない口元をきゅっと結んだ。


私はしばらく無言で睨み合った。


あちらが折れる気配はない。


当然だ。


それは私なのだから。


いや、分かっている。理屈では理解している。鏡というものが、そこに立つ者の姿を映す道具であることくらい、魔王である私とて知っている。しかしだからといってこの冴えない人間を即座に自分だと認められるほど、私は寛容ではなかった。


私はゆっくりと手を上げ、自分の頬をつねった。


むに、と柔らかい感触が指先に潰れる。


痛い。


しっかり痛い。


鏡の中の人間も実に間抜けな顔で自分の頬を引っ張っていた。頬は赤くなり、目元にはわずかに涙まで滲んでいる。威厳も何もあったものではない。


つまり、これは私だ。


認めたくはない。


認めたくないが、認めたくないからこそ私はもう一度、今度は少し強めに頬をつねった。


痛い。


やはり痛い。


三度目も痛い。


四度目も痛い。


何度試しても、結論は変わらなかった。


私は魔王ゾディアークであるはずだった。


灰燼の王。


黒曜の覇者。


竜の心臓を喰らいし者。


かつてはその名を口にするだけで、人間の王は玉座から転げ落ち、聖騎士は剣を取り落とし、神官どもは祈りの文句を忘れて震え上がった。私の影が戦場に差せば空は黒く淀み、大地は割れ、魔獣たちは歓喜の咆哮を上げた。


その私が、今はどうだ。


寝癖で髪を爆発させ、目元に疲れを貼りつけ、胸元に気の抜けた熊を飼っている若造である。


神々は冗談が過ぎる。


仮に私が神であったなら、こんな悪趣味な転生を企画した担当者を即座に呼び出し、理由を聞く前に左遷している。左遷先はもちろん炎と氷が交互に降る辺境の無人神殿だ。そこで千年ほど、転生という制度の意味について一人で反省文を書かせる。


私は鏡の中の人間をさらに睨みつけ、低く問いかけた。


「……誰だ、貴様」


出てきたのは、か細く、弱々しい声だった。


私は一瞬、沈黙した。


今のは誰の声だ。


少なくとも私の声ではない。地の底から響くような魔王の声ではなかった。城壁を震わせ、兵士の膝を砕き、竜の咆哮すら喉の奥へ押し戻したあの声ではない。


それは寝起きの青年が、喉の奥に絡んだ空気を無理やり押し出したような、ひどく人間的で、ひどく頼りない声だった。威圧感はない。呪力もない。聞いた者の魂を冷やす響きもない。せいぜい隣室の者に「朝から何をぶつぶつ言っているのか」と思われる程度の声である。


私は喉に手を当てた。


細い。


喉仏のあたりに触れても、そこにあるのは強大な魔力を震わせる器官ではなかった。乾ききった、ただの人間の喉である。


私は息を吸い直し、今度こそ威厳を込めて発声した。


「我は、ゾディアーク……」


言い終える前に、激しく咳き込んだ。


「げほっ、……っ、く」


喉が乾いている。


あまりにも乾いている。


魔王の名を名乗るだけで喉が敗北するとは、何という軟弱な器か。これでは名乗り上げの途中で敵に同情されかねない。いや、同情ならまだよい。水を差し出されたら終わりである。魔王の威厳が完全に死ぬ。


私は忌々しげに舌打ちし、水を探した。


目の前には、先ほどから気になっていた銀色の蛇口がある。白い陶器の器の上に突き出したそれは、口を閉じた金属の蛇のようにも見えた。私は慎重に手を伸ばし、出っ張った部分をひねる。


次の瞬間、銀色の口から透明な水が勢いよく噴き出した。


私は思わず身構えた。


詠唱もない。


供物もない。


水精霊への呼びかけも、地下水脈へ接続する魔法陣も見当たらない。


それなのに、水が出た。


なるほど。


この世界にもそれなりの術式は存在するらしい。見たところ魔力の気配はないが、仕組みとしてはなかなか興味深い。民家の小さな水場にまで水を呼び出す装置が備わっているとは人間どもも存外あなどれない。


私はしばし蛇口を観察したのち、慎重に手を差し出した。


透明な水が掌に当たり、指の間をすり抜けて白い器の中へ流れていく。冷たいが、呪毒の痺れはない。腐敗の臭いもない。水底から魔物が這い出してくる気配もない。


私は警戒を解かぬまま両手で水をすくい、口へ運んだ。


喉を通る水は、ほどよく冷えていた。


味は、非常に薄い。


薄すぎる。


私の城の地下水のほうが、よほど鉱物の旨味と深みがあった。あれは黒曜岩の層を抜け、古代竜の骨の下を流れ、魔力を含んだ大地に濾過された名水である。それに比べるとこの水はあまりにも無個性だった。よく言えば清らか。悪く言えば、魂がない。


とはいえ乾いた喉は確かに潤った。


咳も少し収まり、声帯の情けない震えもいくらかましになった気がする。


私は蛇口をもう一度見下ろした。


小さい。


質素。


威厳は皆無。


だが、役には立つ。


私はこの小さな水の祭壇に、ひとまず一定の評価を与えることにした。


問題はここがどこで、私は誰なのかということだった。いや、私はゾディアークである。そこは揺るがないし、意識も記憶もずいぶんはっきりしている。ところが鏡に映るこの青年が何者で、なぜ私の魂がこの器に入り込んでいるのかは分からない。魂の転移、憑依、転生、封印の破損、神の悪戯、勇者の呪い、古代魔術の残滓、可能性はいくつも浮かんだものの、どれもしっくりこない。何よりこの世界には魔力の流れが感じられなかった。魔力がなく空気は乾き、清らかというより薄く、地脈の鼓動も精霊の囁きもない。世界そのものが私の知る理から切り離されている。そんな場所へ、なぜ私が来たのだろうか。


私は部屋に戻り、机の上の黒い長方形を手に取った。表面は冷たく、つるつるしている。魔導板の一種かと思い、魔力を流そうとして失敗し、ただの黒い板として沈黙した。側面を押すと突然光った。私は反射的に投げそうになった。…危ない。魔王たるもの未知の発光物に怯えてはならない。いや、怯えたのではない。戦術的距離を取ろうとしただけだ。手元の板には数字や記号が並び、上のほうに「7:42」と表示されている。時間か。さらに何か文字が浮かんでいた。「不在着信」「LINE」「里緒奈」「今日大学来るよね?」……読める。奇妙なことに、私はこの世界の文字を読めた。器に刻まれた知識が、私の意識に滲み込んでいるのかもしれない。


「り、お、な」


声に出してみる。舌に馴染まぬ名だ。表示された文面を読む限り、この青年には里緒奈という人物がいて、大学という場所へ行く予定があるらしい。大学。文字から受ける印象では、学び舎の一種だろう。魔王である私が学び舎に通う必要など本来ない。私は王であり、教師を呼びつける側だった。そもそも何を学ぶというのか。剣術なら千年前に飽きるほど学んだ。軍略も統治も呪術も歴史も、配下の不正経理の見抜き方まで修めている。もしこの世界の学び舎で「友達の作り方」などを教えられるのなら、少し…というかかなり困る。私はその科目に関してだけは、どうにも成績が伸びる気がしないのだ。


机の引き出しを開けると、紙の束や小さな手帳、財布らしきものが出てきた。財布を開くと、薄い札と硬貨、そして一枚の板が入っている。板には写真と文字があった。写真の男は鏡の中の冴えない青年そのもので、名前の欄には「青山タツヤ」と書かれていた。私はその板をしばらく見つめた。


青山タツヤ。


これがこの器の名らしい。魔王ゾディアークに比べると、あまりにも平和そうな響きである。青い山に竜の矢、という漢字なら多少は格好がついたかもしれない。実際の文字を見れば「達也」であり、特に竜も矢もない。達する也。何に達するつもりだったのか、この青年自身も分かっていなかったのではないか。部屋の散らかり具合を見る限り、少なくとも掃除の境地には達していない。


私は、改めてこの肉体に残された記憶を探ることにした。


青山タツヤ。


おそらく、それがこの器の本来の名である。


私は目を閉じ、意識の奥深くへ沈んでいった。魔力の残滓を探る時のように魂の表層を指先でなぞる。すると深い霧の向こう側で、薄い映像がちらついた。


教室。


白い壁。


横一列に並んだ机。


窓から差し込む退屈な午後の光。


誰かが笑っている。少女の声だ。しかしその顔はぼやけていて目鼻立ちまでは掴めない。次に男たちの声が聞こえる。気安い調子の笑い声。からかうような響き。講義という名の退屈極まりない知識の朗読。紙に書かれた課題。意味の分からない数字の羅列。見知らぬ建物の一室で、アルバイトの面接に落ちた時の胃の底が重く沈むような感覚。


さらに奥へ進むと、幼い頃の記憶があった。


夕暮れの公園。


赤く染まった遊具。


砂場の隅で泣いている小さな誰か。


その前にしゃがみ込み、不器用に手を差し伸べる幼い青山タツヤ。自分も泣きそうな顔をしているくせに、それでも誰かを慰めようとしている。


母親らしき女の声が聞こえた。


優しく少し疲れていて、それでも温かい声。


父親らしき男の背中も見えた。


大きいというほどではない。威厳があるというほどでもない。ただ幼い子供の目には、ひどく遠く、ひどく頼りないものに見えた背中だった。


あらゆる記憶が断片的だった。


手を伸ばせば届きそうなのに、掴もうとした瞬間、水面に浮かぶ泡のように弾けて消える。形はある。匂いもある。感情の名残もある。しかしそれらは私のものではない。私が生きた記憶ではなく、この肉体に染みついた残響にすぎない。


青山タツヤという人間は、完全に消えたわけではないのかもしれない。


あるいは魂はすでに去り、その残り香だけがこの頼りない肉体の隅々にこびりついているのかもしれない。


どちらにせよ、今の私が利用できる情報は限られていた。


この世界の仕組み。人間関係。生活の手順。この肉体が何を好み、何を恐れ、どこで何をして生きていたのか。


必要な情報ほど霧の向こうに隠れている。


まったく、不便な器である。


その時だった。


ぐう、と腹が鳴った。


低く情けなく、それでいて部屋中に響くほど明確な音だった。


私はゆっくりと自分の腹を見下ろした。


魔王の思索を中断するほどの轟音を放ったのは、この貧弱な胃袋である。


空腹。


懐かしい感覚だった。


魔族としての私は、食事そのものは好んでいた。焼いた魔獣の肉、血の滴る竜の心臓、黒い香辛料をまぶした獣の腿肉。勝利の宴で振る舞われる料理にはそれなりの愉しみがあった。


だが、食わねば動けぬ、ということはほとんどなかった。


私は魔力で肉体を維持できた。暗黒魔力さえ巡っていれば数年食わずとも戦場に立てた。飢えとは下等な生物を操るための鎖であり、私自身を縛るものではなかったのだ。


しかし、今の体は違うらしい。


胃という臓器が、腹の内側から反乱軍のように要求を突きつけてくる。


食料を寄こせ。


今すぐ寄こせ。


さもなくば思考能力を低下させ、手足から力を奪い、さらに情けない音を鳴らしてやる。


実に傲慢な臓器である。


誰からの指図も受けたくはないが、この体を動かす以上従わざるを得ない。


私は忌々しげに息を吐き、食料を探すために部屋の外へ出た。


廊下を抜けると、台所らしき場所があった。


白い壁。狭い床。銀色の流し台。用途の分からない器具がいくつも並び、人間の生活というものが魔法陣よりも複雑な手順で成り立っていることを静かに主張していた。


その中でひときわ目を引く白い箱があった。


腰ほどの高さがあり、表面はつるりとしている。魔力の気配はない。しかしなぜかただの箱とも思えない。私は慎重に取っ手へ手をかけ、扉を開けた。


冷気が漏れた。


白く澄んだ冷たい空気が、足元へ流れ落ちる。


私は目を細めた。


中には透明な容器、飲み物の入った瓶、卵、袋に包まれた野菜らしきもの、そして半分ほど食べかけの何かが並んでいた。


なるほど。


氷室か。


小型で便利で、そして少し臭い。


古い油、冷えた肉、甘い飲み物、切った野菜、人間の怠惰。それらが密閉された空間の中でひっそりと混ざり合い、何とも言えない生活の匂いを放っている。


私は奥にあった透明な容器を取り出した。


中には茶色い液体に沈んだ肉らしきものが入っていた。表面に白く固まった脂が浮いているが、腐敗臭はない。むしろ匂いは悪くなかった。甘辛い香り。油の丸み。わずかに焦げたような肉の気配。


食える。


私はそう判断し、蓋を開けてそのまま口へ運ぼうとした。


その瞬間、この肉体の記憶が意識の片隅からひとつの言葉を差し出してきた。


電子レンジ。


私は動きを止めた。


名前からして雷属性の調理魔法具に違いない。


台所の横に四角い箱が置かれていた。前面には黒い窓があり、横にはいくつもの小さな印が並んでいる。私はそれをしばらく睨んだのち、記憶の断片に従いながら容器を中へ入れた。


扉を閉める。


印のひとつを押す。


すると低い唸り声とともに、箱の内側が明るくなった。


さらに中の容器がゆっくりと回り始めた。


私は腕を組み、厳粛な気持ちでそれを見守った。


食料が回っている。


なぜ回る。


加熱と回転の間に、いかなる因果がある。


これは儀式か。


生贄の踊りか。


人間は肉を回転させ、何らかの見えざる神に捧げてから食うのか。


それとも、回すことで肉の魂を鎮めているのか。


箱は低く唸り続けた。中の容器は規則正しく回り続けた。私はその光景から目を離せなかった。奇妙だ。実に奇妙である。しかし同時に、どこか理にかなっているような気もするのが腹立たしい。


しばらくすると甲高い音が鳴り、箱は沈黙した。


私は扉を開け、容器を取り出そうとした。


次の瞬間、指先に熱が走った。


「……っ」


思わず手を引っ込める。


私は小さく舌打ちした。


魔王の指を焼くとは、なかなかの魔具である。


見た目は地味だが、油断した相手に熱傷を与える罠としては悪くない。雷属性だけでなく、炎属性も併せ持つらしい。人間の道具にしてはなかなか侮れなかった。


私は近くにあった布を使い、今度こそ慎重に容器を取り出した。


湯気が立っている。


茶色い液体はとろりと揺れ、肉の表面には照りが戻っていた。匂いは先ほどよりも濃い。甘く、塩気があり、胃を直接刺激する香りだった。


私は、ひとまず食器を探した。


そして、細い二本の棒を見つけた。


箸、というらしい。


記憶によれば、これで食べるのだという。


私は箸を手に取り、肉片を挟もうとした。


逃げた。


もう一度挟む。


また逃げた。


三度目でようやく持ち上げたと思った瞬間、肉は茶色い汁を垂らしながら滑り落ち、床の上にぺちりと落下した。


私は無言でそれを見下ろした。


これは何だ。


食事か。


試練か。


人間は毎日この細い棒で食料と戦っているのか。


私は気を取り直し、再び肉を掴もうとした。今度は少し力を入れすぎたらしく、肉片が箸の間から弾かれ容器の縁に当たって床へ転がった。


二敗目である。


魔王ゾディアーク、箸に敗北。


認めがたい戦績だった。


ようやく引き出しの奥からフォークという三叉の金属器具を見つけるまでに、私は二度ほど肉片を床へ落とし、一度だけ箸そのものを取り落とした。


これがこの世界の戦闘訓練なら、なかなか屈辱的な難度である。


だがフォークを肉へ突き刺し、ようやく一口目を口に運んだ瞬間、私はわずかに沈黙した。


悪くない。


悔しいが、悪くない。


それは認めよう。


見た目こそ地味だった。豪奢な大皿に盛られているわけでもなく、銀の燭台が照らす宴席に並べるにはいささか格が足りない。戦勝の宴でこれを出せば、配下の将軍たちはおそらく困惑し、近衛兵たちは皿を前にして「これは兵糧ですか」と目で訴えてきただろう。


茶色い汁をまとった肉は柔らかく、甘辛い味が米らしき白い粒のひとつひとつに染み込んでいる。噛むたびに塩気と甘みが舌の上へ広がり、空腹に支配された胃袋が、恥も外聞もなく歓喜の声を上げた。


私は無言で食べ進めた。


一口。


また一口。


フォークで肉を突き刺し、米をすくいながら時おり容器の底に溜まった汁を絡める。魔界の祝宴で食した竜の丸焼きや、溶岩釜で煮込んだ魔獣の臓物料理に比べれば、迫力も凶暴さも足りない。しかしこの貧弱な人間の体には、むしろその程度の穏やかさがちょうどよかった。


最後の一口を飲み込んだあと、私はしばし動きを止めた。


腹が温かい。


体に力が戻ってくる。


思考の霧が、少しだけ晴れた気がする。


不本意ながら、私は満足していた。


魔力も失い、王座も失い、角も翼も軍勢も失った魔王が、冷蔵庫から取り出した残り物に救われる。


歴史家が聞けば、筆を折るだろう。


いや、待て。


人間の歴史家なら、むしろ喜々として記録するかもしれない。


『魔王、牛丼に屈す』


……やめろ。


そのような題で後世に残されてはたまらない。万が一私の子孫がそれを読む可能性を考えただけで、魂の奥がざわつく。魔王の偉業はもっと黒く、もっと重く、もっと畏怖を伴って語られるべきである。少なくとも、牛丼に敗北した存在として語り継がれる筋合いはない。


食事を終えた私は、空になった容器を前に改めて状況を整理することにした。


まず、ひとつ。


私は死んだはずだった。


勇者との最後の戦いの果てに、魂ごと闇へ沈んだはずである。にもかかわらず、今は青山タツヤという人間の肉体で目覚めている。この事実は現時点で最も大きな異常だ。


ふたつ。


この世界には、魔力が存在しない。


少なくとも私が感知できる範囲には、魔族の血に馴染むような力の流れは見当たらない。あるいはあまりにも希薄すぎて、この衰弱した器では読み取れないのかもしれない。いずれにせよ、以前のように暗黒魔力で肉体を補強して影を操り、死者を従えることはできない。


みっつ。


この体は、非常に弱い。


腹が減る。喉が渇く。熱い容器に指を焼かれる。立ち上がるだけで膝が鳴り、箸という細い棒に翻弄され、少し咳き込んだだけで威厳が死ぬ。戦場に出せば敵の矢より先に階段で負ける可能性がある。


よっつ。


青山タツヤには大学という場所と、里緒奈という人物との関係がある。


記憶の断片はまだ曖昧だが、その名だけは妙に引っかかっている。少女の笑い声。胸の奥に残るわずかな緊張。言葉にし損ねた何か。青山タツヤという人間の生活を知るうえで、この里緒奈という者は無視できない存在らしい。


そして、いつつ。


私は、勇者にもう一度会いたい。


最後の項目だけは、どれほど世界が変わろうと揺るがない。


勇者はいるのか。


この世界に。


あの男もまた私と同じように別の肉体へ転生したのか。あるいは魂だけが流れ着き、見知らぬ誰かの器に宿っているのか。もしくは私だけがこの奇妙な世界へ落とされ、勇者はすでに完全な死の彼方へ消えてしまったのか。


分からない。


しかしもし存在するのなら、私は探し出さねばならない。


義務として。


いや、義務という言葉では足りないかもしれない。


これは執念だ。


戦場で幾度も刃を交え、互いの命を削り合い、最後の瞬間まで私の前に立ちはだかった唯一の存在。その魂の手触りを、私はまだ忘れていない。あの眼差し。あの剣筋。あの愚直なまでの正義。忌々しく、腹立たしく、そして認めざるを得ないほど美しかった。


執念というより、恋慕に近い熱ではないか。


そう言われれば、少し不本意ではある。


大いに不本意ではある。


少なくとも私の中では、これは戦士としての再会を望む純粋な願いである。


純粋、という言葉を魔王が使うこと自体、なかなかの矛盾を孕んでいる気もするが、今の心情を表すには悔しいことにその言葉が最も近かった。


勇者に会う。


そのためにはまずこの世界を知らねばならない。


私は空の容器を脇に置き、頭の中で必要な情報を並べていった。


ここはどこか。


今はいつの時代か。


この世界の社会はどのような仕組みで動いているのか。


人間の階級はどう分かれているのか。


金銭にはどれほどの価値があり、青山タツヤはそれをどの程度持っているのか。


交通手段は何か。


武器は存在するのか。


法とはどれほど厳格なものか。


宗教は力を持っているのか。


そして青山タツヤという人間は、この世界の中でどのような立場にいるのか。


情報なくして、戦はできぬ。


私はかつて情報収集を怠った将軍のせいで、大きな損害を受けたことがある。


その将軍は、敵城についてこう報告した。


「門は木製です。火攻めで容易に破れましょう」


だが実際に軍を進めてみれば、その門は木などではなかった。古代竜の肋骨を幾重にも組み合わせ、呪術で固めた骨門である。火を放てば燃えるどころか逆に炎を吸い込み、こちらの攻城兵器へ向けて吐き返してきた。


結果、我が軍は三日ほど足止めを食らった。


私はその将軍を即座に降格させた。


今思えば、処刑しなかった私は相当に寛大だったと言える。


情報は命である。


敵を知り、地形を知り、己の兵力を知る者だけが、戦場で最後に笑う。無知な者は剣を抜く前に罠へ落ちる。慢心する者は、門の材質ひとつを見誤っただけで軍を止める。


そして今の私にとって、情報は命どころではなかった。


財布の中身。


大学の出席。


青山タツヤの人間関係。


この世界の常識。


それらを把握できなければ、勇者を探す以前に私は社会という名の見えない迷宮で行き倒れる。


魔王ゾディアークが、飢えと単位不足によって滅ぶ。


そのような結末だけは、断じて認めるわけにはいかなかった。


私は、再びあの黒い板を手に取った。


机の上で沈黙していた時はただの光沢のある長方形にしか見えなかったが、指先で表面に触れた途端に板は眠りから覚めた魔道具のように明るくなり、そこに無数の小さな絵が並び始めた。


四角い絵。


丸い絵。


文字の刻まれた印。


見知らぬ記号。


どれもこれも小さすぎるうえに、やたらと色が多い。魔法陣の一種かと疑ったが、魔力の流れはない。にもかかわらずこの板は確かに何かを表示し、何かと繋がっている。


青山タツヤの記憶に従い、眉をひそめながらもいくつかの絵に触れてみた。


すると、世界が開いた。


文字が流れる。


写真が現れる。


知らぬ人間たちが笑っている。


怒っている。


食べ物を撮影している。


猫を讃えている。


どこかの誰かの失敗を大勢で笑っている。


妙に短い映像の中で、若者たちがよく分からぬ踊りを披露している。


誰かが高価そうな食事を見せびらかし、誰かが空の色について語り、誰かが見知らぬ相手と罵り合い、誰かが「眠い」とだけ呟き、それに何人もの人間が反応している。


……ううむ。


情報量が、多すぎる。


王国の密偵網よりも騒がしい。いや、密偵網であれば少なくとも集められる情報には目的がある。敵国の動向、兵糧の数、王族の不和、要塞の弱点。そういった意味のある情報が、密かに秩序立って運ばれてくるものだ。


しかしこの黒い板の中は違う。


あまりにも雑多だ。


あまりにも無秩序だ。


しかもその大半が一見すると重要そうに見えるにもかかわらず、よく読んでみると驚くほどどうでもいい。


新作の菓子がどうした。


誰が誰と食事に行ったから何だ。


猫が丸まって眠っていることに、なぜこれほど多くの人間が感情を動かされている。


いや、猫に関しては少し分からなくもないが、それでも騒ぎすぎではないか。


人間はこれほど小さな板の中で、日々叫び合っているのか。


戦場でもないのに。


敵軍が迫っているわけでも城門が破られたわけでも、王が暗殺されたわけでもない。ただ日常の些細な出来事を見つけては、笑い、怒り、嘆き、誇り、羨み、また笑う。


暇なのか。


いや、違うのかもしれない。


暇ではないからこそ、叫ぶのか。


日々の鬱屈を、この小さな板の中へ流し込んでいるのか。


分からない。


分からないことが多すぎる。


私がしばらく黒い板の中の混沌を眺めていると、画面の上に、また新たな文字が浮かび上がった。


『里緒奈:まだ寝てる?』


続けて、また文字が出る。


『里緒奈:今日一限あるよ』


さらに、間を置かずに次が来た。


『里緒奈:またサボる気?』


そして最後に、やけに圧のある一文が表示される。


『里緒奈:青山タツヤくん?』


私は無言で画面を見つめた。


この連続した文面から判断するに、里緒奈という者は青山タツヤに対してかなり遠慮のない立場にいるらしい。


ただの知人ではない。


少なくとも、朝から連続で詰問してくる程度には近い関係だ。


幼馴染か。


同級生か。


監視役か。


あるいは、この世界における小型の尋問官かもしれない。


文面そのものは短いが、そこには奇妙な圧力があった。怒鳴っているわけではない。脅しているわけでもない。にもかかわらず無視すれば後々面倒なことになるという気配だけが、はっきりと漂っている。


返信するべきか。


私は考えた。


下手に言葉を返せば、異変を悟られる可能性がある。


「我は魔王ゾディアークである」などと送れば、おそらく即座に事態は悪化する。冗談と受け取られるか病院に連行されるか、あるいは面倒な人間関係の渦へ叩き込まれるか。いずれにせよ得策ではない。


とはいえ、無視を続けるのも危険だ。


相手が直接ここへ来る可能性がある。


今の私はこの世界の常識も、青山タツヤの普段の振る舞いも、里緒奈との距離感も十分に把握していない。敵か味方かも分からぬ人物を、準備もなく迎え撃つのは愚策である。


ならば、最小限の言葉で返すべきだ。


短く。


不自然でなく。


情報を与えすぎず。


私は文字入力の方法を探った。


青山タツヤの記憶がおぼろげながら指先を導く。画面の下に並んだ小さな文字盤を押せば言葉が入力できるらしい。


私は慎重に、「起きた」と打とうとした。


だが、指が滑った。


画面には、なぜかこう表示された。


『沖田』


私は目を細めた。


誰だ、沖田。


私はそんな者を呼んでいない。


そもそも、この場に沖田なる人物は不要である。


慌てて消そうとすると、今度は別の記号が出た。さらに触れると、文字盤の形が変わった。戻そうとして別の窓が開いた。閉じようとすると見知らぬ顔の絵が大量に並んだ。


何だこれは。


感情を示す小型の仮面か。


人間は言葉の代わりに、このような顔面の群れを送りつけるのか。


私は黒い板を睨みつけ、親指で何度も画面を叩いた。


消えろ。


違う。


戻れ。


なぜ増える。


なぜ笑う。


なぜ泣く顔がそこにある。


小さな板は、私の命令をまるで聞かなかった。


かつて聖騎士団長を三合で退け、巨大な戦斧を片手で受け止め、古代竜の牙を折ったこの私が、今は「おはよう」の四文字を送るためだけに額に汗を浮かべている。


屈辱にも種類があることは知っていた。


敗北の屈辱。


裏切りの屈辱。


慢心を砕かれる屈辱。


まさか文字入力によって味わう屈辱まで存在するとは、長い魔王人生でも想定していなかった。


私はようやく不要な文字を消し、画面の上に暴れ回っていた余計な記号や、どこから現れたのか分からない顔文字の群れを退けた。


そして、慎重に。


ひどく慎重に。


まるで爆発寸前の呪具に最後の封印文字を刻むかのような心持ちで、五文字を打ち込んだ。


『起きている』


送信。


私の指先が小さな印に触れた瞬間、その文字は黒い板の中へ吸い込まれていった。まるで、闇の向こうにいる何者かへ捧げ物を放り込んだようだった。


私は、深く息を吐いた。


勝った。


いや、分かっている。


ただ現在の状況を伝えただけである。戦場を制圧したわけでも、敵国の王を屈服させたわけでも、勇者の剣を弾き飛ばしたわけでもない。ただ、青山タツヤが目覚めているという事実を、里緒奈という人物へ送っただけだ。


しかし今の私にとっては、これは間違いなく一つの勝利だった。


この世界の小型魔道具を使い、未知の相手へ言葉を送り届けたのである。しかも誤って「沖田」なる謎の人物を召喚することもなく、泣き顔の仮面を大量に送りつけることもなく、比較的まともな文章を完成させた。


十分な戦果と言えよう。


問題は相手がどう返してくるかである。


私は腕を組み、黒い板を正面に置いて待った。


まるで敵国からの返書を待つ王のように。


いや、実際、それに近い。


この小さな板の向こうには里緒奈という未知の存在がいる。青山タツヤに対して遠慮のない口調で詰め寄り、朝の行動を監視し、大学という施設への出頭を促してくる人物だ。軽く見てよい相手ではない。


やがて、黒い板が短く震えた。


返事が来た。


『ほんとに? 声変だったら病院行くよ』


私は、その文字列をしばらく無言で見つめた。


病院。


治癒院のことか。


まずい。


この里緒奈という女は、こちらの状態を確認するつもりらしい。


しかも「声変だったら」とある。つまり、声を聞く手段が存在するということだ。この黒い板を通じて遠方の相手と声を交わせるのかもしれない便利ではあるが、今の私にとっては非常にまずい。


私の声は、明らかに不安定だ。


つい先ほど、魔王ゾディアークの名乗りすら喉に敗北したばかりである。青山タツヤ本来の話し方など知らぬ。下手に応答すれば、一言目で異変を悟られる危険がある。


私は返答を考えようとした。


だが、その時だった。


部屋の外から、音がした。


ピンポーン。


私は固まった。


その音は高く、どこか間の抜けた響きをしていた。ところが狭い住居の中では妙に鋭く、まっすぐに耳へ突き刺さってくる。戦場の角笛ほど重くはない。城門を叩く破城槌ほど物々しくもない。にもかかわらず、その短い音にはこちらの平穏を一方的に破壊するだけの力があった。


警鐘か。


襲撃か。


罠か。


私は息を止め、玄関の方を睨んだ。


扉の向こうに、何者かがいる。


私は反射的に戦闘態勢を取ろうとしたが、手元には剣も杖もない。魔力もない。影の兵も呼べない。あるのは先ほどまで食事に使っていた箸と、空になった容器と黒い板だけだった。


箸で戦えぬことはない。


達人なら箸で人を殺せると聞いたことがある。


私は達人である。


少なくともかつての肉体であれば、箸どころか小枝一本で騎士団を黙らせることもできただろう。


しかしこの体で箸を武器にするのは、少々心もとない。


握力は弱い。手首も細い。指先も頼りない。何より、先ほど肉片を二度も床に落とした道具で敵を制圧できるという確信が持てない。


せめて包丁を探すか。


私は台所の方へ一瞬だけ視線を向けた。


しかしすぐに思い直す。


初対面の相手に包丁を構えて出迎えるのは、この世界の社会規範に著しく反する可能性が高い。器の記憶が、ほとんど悲鳴に近い勢いでそう訴えている。


やめろ。


それは事件になる。


警察が来る。


警察とは何だ。


おそらく、この世界の秩序維持部隊である。


つまり、面倒だ。


ピンポーン。


再び鳴った。


今度は、先ほどよりも長く感じた。


私は玄関を睨みつけたまま、ゆっくりと息を吸った。


扉一枚の向こうに、未知の人物がいる。


里緒奈かもしれない。


敵かもしれない。


青山タツヤの関係者かもしれない。


あるいは、集金人という名の徴税官かもしれない。


どれも厄介だ。


ここで逃げれば、情報を得る機会を失う。出れば私の正体が露見する危険がある。青山タツヤとして振る舞うには、あまりにも情報が不足している。里緒奈が相手ならなおさらだ。親しい者ほど、わずかな違和感に気づく可能性がある。


ゆっくり、そして深く息を吐きながらも、鏡に映っていた冴えない青年の顔を思い出した。


大切なのは威圧しないこと。


睨まないこと。


魔王としての威厳を出さないこと。


できる限り、無害に。


寝起きの人間らしく。


少し間抜けで、少し弱々しく、少し申し訳なさそうに。


私は顔の筋肉を動かしながら表情を整えようとした。目元の力を抜いて口角をわずかに下げ、眉間の皺を消す。敵を値踏みするような視線ではなく、ただ玄関に出るだけの人間の顔を作る。


結果、鏡で確認していないので断言はできないが、おそらく寝起きの犯罪者のような顔になっていたと思う。


それでも何もしないよりはましだ。


私は箸を置き、黒い板を握りしめたままゆっくりと玄関へ向かった。


一歩。


また一歩。


床板が小さく鳴る。


心臓が、頼りなく胸を叩く。


かつて城門の向こうに勇者を迎えた時でさえ、これほど妙な緊張はなかった。


私は扉の前に立ち、息を潜めた。


この向こうにいるのは、味方か。


敵か。


それともこの世界の日常という名の、もっとも厄介な怪物か。


私は覚悟を決め、扉へ手を伸ばした。


「青山ー? 起きてるんでしょ? 開けないと管理人さん呼ぶよ?」


扉の向こうから、女の声がした。


明るい声だった。


ただ明るいだけではない。語尾にはわずかな苛立ちが混じっており、遠慮という概念を玄関先に置き忘れてきたような踏み込みの強さがある。それでいて完全に怒っているわけでもなかった。声の奥には、面倒くさそうにしながらも本気でこちらを気にかけているような、かすかな心配が滲んでいる。


里緒奈。


黒い板に表示されていた名が、その声と結びついた。


私は喉を鳴らした。


さて、どうする。


ここで何を言うべきか。


記憶喪失を装うか。


病を装うか。


それとも、あくまで普段通りを装うか。


いや、そもそも普段通りとは何だ。


私は青山タツヤという人間の記憶を断片的にしか持っていない。彼が里緒奈に対してどのような口調で話し、どの程度の距離感で接し、何を言えば不自然で何を言えばいつも通りなのか。その判断材料があまりにも少ない。


普段の青山タツヤをほとんど知らぬ私が普段通りを演じるなど、地図も灯りも持たずに敵の迷宮を全力で走り抜けるようなものだ。


ならば、選ぶべきは最も説明範囲の広い異常である。


記憶喪失。


便利な言葉だ。


多くを忘れていても許される。多少口調が変わっていても、頭を打ったで済む可能性がある。人間関係を把握していなくとも、「思い出せない」の一言で時間を稼げる都合のいい盾は、なかなかない。


問題は実際に頭を打った事実がないこと。


そして、病院へ連行される危険があることだ。


病院。


この世界における治癒院。


もしそこで体を調べられれば、私が青山タツヤではないと判明するかもしれない。いや、待て。魔力のない世界で、魂の入れ替わりなど検査できるのだろうか。骨折や発熱ならともかく、肉体に宿る魂の正体まで見抜けるとは考えにくい。


だが、油断は禁物である。


人間という種族は弱いくせに妙なところで執念深く、時おり理解不能な技術を生み出す。詠唱なしに水を出す蛇口、食料を回転させながら温める電子レンジ、遠方の者と言葉を交わせる黒い板。ここまで見せられたあとで、魂を覗く装置など存在しないと断言するのは危険だった。


白衣を着た人間が、無表情でこう告げる。


「あなた、魔王ですね」


……駄目だ。


いくらなんでも受け入れがたい。


私はその想像を振り払い、玄関へ向かうことにした。


数歩進んだところで足元に散らばっていた衣類を踏んだ。


布が床の上でずるりと滑る。


「……っ」


私は危うく体勢を崩しかけ、近くの壁に手をついた。


危なかった。


今、私は自室の汚さに殺されかけた。


戦場では勇者の剣を受け、竜の炎を浴び、神々の呪いを退けてきたこの私が、脱ぎ捨てられた衣服によって転倒死しかけたのである。


魔王の死因としては、過去最悪の部類に入る。


いや、死んだあとにさらに死ぬという状況そのものがすでに相当おかしいのだが、だからといって「原因・部屋着による滑落」などという記録を残されるわけにはいかない。


足元を注意深く睨みながらも、今後この布の山を敵性存在として扱うことを決めた。


そしてようやく扉の前に立つ。


薄い扉だ。


頼りない板一枚。


その向こうに、里緒奈がいる。


私は深く息を吸った。


外の気配を探ろうと反射的に感覚を広げる。しかし当然ながら魔力感知は何の役にも立たない。闇の波紋も魂の色も、敵意の匂いも感じ取れない。


代わりに聞こえるのは、ごく普通の音だけだった。


扉の向こうで、誰かが靴先を床に軽く当てる音。


苛立ちを隠しきれず、こつ、こつ、と小さく足を鳴らしている。


遠くでは、車という鉄の獣が低く唸りながら通り過ぎていく。


建物のどこかでは、水が配管を流れる鈍い音がしている。


上の階か隣の部屋か、誰かが扉を開け閉めする気配もあった。


人間の世界は、静かなようで騒がしい。


戦場の喧騒とは違う。


剣がぶつかる音も、兵士の怒号も、魔獣の咆哮もない。しかしあらゆる場所から細かな音が絶え間なく染み出している。水が流れ、機械が唸り、人が歩き、壁の向こうで誰かが生活している。


それらはまるで、生活という巨大な生き物の内臓音だった。


この世界そのものが、眠っているようで起きている。


平穏に見えて、常に動いている。


私は、扉についた鍵を見下ろした。


そこにはいくつもの金具がついていた。つまみ、鎖、よく分からない小さな金属の突起。城門の封印術式に比べれば玩具のようなものだが、今の私にとっては十分に複雑だった。下手に動かせば開かなくなるのではないか。いや、そもそもこの扉は内側から開けるものなのか。人間は、出入りのたびにこの面倒な儀式を行っているのか。


私は青山タツヤの記憶を探りながら、まずつまみを回した。


かちゃり、と小さな音が鳴る。


次に、扉の隙間を塞ぐようにかかっていた鎖を外す。細い金属の輪が頼りなく揺れ、壁に当たって軽い音を立てた。これで本当に侵入者を防げるのかは甚だ疑問だったが、少なくともこの住居では防御設備として認められているらしい。


私は息を整え、できる限り人間らしい表情を作った。


そして、扉をゆっくりと開けた。


強烈な朝の光が、細い隙間から一気に差し込んできた。


思わず目を細める。


廊下の白い壁が光を反射し、視界が一瞬だけぼやけた。魔界の月明かりや燃える戦場の赤い空とはまるで違う。あまりにも平凡で、あまりにも無防備で、それでいて妙に容赦のない朝の光だった。


その光の中に、一人の女が立っていた。


私の知るどの種族とも違う。


角はない。牙もない。尾も翼もない。背後に魔力のゆらぎも見えない。


間違いなく“人間の女”だった。


年は青山タツヤと同じくらいか、少し若くも見える。長い髪を後ろでひとつにまとめ、片手には鞄を持っている。身に着けているのは制服ではなく、動きやすそうな現代の衣服だった。細身ではあるが弱々しくはなく、立ち姿には妙な芯がある。少なくとも、目の前の冴えない青年を朝から叩き起こしに来るだけの気力は十分に備えているようだった。


目は大きい。


眉は少しきつい。


口元には、「言いたいことが山ほどあります」という感情が、そのまま貼りついている。


なるほど。


これが里緒奈か。


里緒奈は私を見るなり、大きく息を吸い込んだ。


私は身構えた。


怒鳴るのか。


この距離なら、声量次第では私の貧弱な鼓膜にそれなりの被害が出る。防御魔法は使えないから耐えるしかない。


しかし予想に反して、彼女はすぐには怒鳴らなかった。


その表情が、目まぐるしく変わった。


まず、怒り。


次に、困惑。


それから、心配。


最後に、さらに深い疑念。


感情が顔の上で忙しく隊列を組み替えていく。まるで戦況報告を聞いた参謀たちが、それぞれ別の作戦を叫び始めたようだった。


里緒奈は数秒ほど私を見つめ、それから眉をひそめた。


「……青山、あんた、顔色やばくない?」


私は答えようとした。


喉が動く。


唇が開きかける。


言葉はすぐには出てこなかった。


ここで何を言うべきか。


魔王としての威厳を完全に捨てるわけにはいかない。かといって青山タツヤとしての不自然さを露呈するわけにもいかない。さらに、この里緒奈という女から情報を引き出す必要もある。


つまり、必要なのは慎重な一言だった。


短く自然で、疑念を招かず、なおかつ今後の展開を有利にする言葉。


私は長い戦乱を生き抜いてきた。


幾多の王と交渉し、古竜と契約し、裏切り者の貴族を言葉だけで泣かせたこともある。敵国の使者を沈黙させ、神官どもの詭弁を正面から叩き潰し、勇者でさえ一瞬だけ言葉を失わせた。


この程度の場面、切り抜けられぬはずがない。


私は里緒奈をまっすぐに見た。


そしてできる限り低く、落ち着いた声で言った。


「ここはどこだ。私は誰だ」


言った。


言ってしまった。


言った瞬間、私は己の失策を悟った。


あまりにも直球だった。


記憶喪失を装うにしても、もう少し段階というものがある。頭が少しぼんやりする、とか、昨日のことが思い出せない、とか、体調が悪い、とか、他にいくらでも柔らかい切り出し方があったはずだ。


よりによって、初手で最大火力を放ってしまった。


里緒奈は、目を丸くしたまま固まった。


一秒。


二秒。


三秒。


廊下に、奇妙な沈黙が落ちる。


やがて彼女の手から、鞄がずり落ちた。


どさり、と床に音が響く。


里緒奈の顔から、みるみる血の気が引いていった。


「え、ちょ、ほんとに病院案件じゃん!」


その叫びは、朝の静かな廊下に容赦なく響き渡った。


私は内心で頭を抱えた。


失敗した。


完全に失敗した。


交渉どころではない。こちらはまだ名乗りも牽制もしていないのに、相手はすでに治癒院への搬送を決意しかけている。しかもその表情は本気だった。冗談ではないし、脅しでもない。この女は本気で青山タツヤを心配している。


厄介だ。


実に厄介である。


敵意なら対処できる。


疑念ならごまかせる。


だが、善意と心配は扱いが難しい。


こうして、かつて世界を闇に包もうとした魔王ゾディアークの第二の生は、勇者との再戦でも、神々への復讐でも、失われた魔力を取り戻す壮大な儀式でもなく、幼馴染らしき女に本気で心配され、病院へ連行されかけるという、想定外に人間臭い騒ぎから幕を開けたのである。


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