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台湾有事で焦土となった日本から、防衛官僚は開戦十年前に還った ~被害報告書の数字を、俺が一つずつ減らしていく~  作者: なまら呑兵衛
第一章 入省編

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第6話 一行が載る日


 八月三十日、金曜日。

 防衛省の令和二年度概算要求が、ホームページに掲載された。


 要求の総額は五兆三千億円を超えていた。新聞の見出しになったのは、宇宙の部隊の新設や、最新の戦闘機の取得、護衛艦の改修といった大きな項目ばかりだった。

 俺は自分の席で、PDFの資料を最後のページまでスクロールした。

 「その他」の項目の、さらにその下。細かい文字で並んだ調査研究の一覧の、下から七行目。


 〇大規模災害等における航空基地の機能維持・早期復旧に関する調査研究 〇・二億円


 〇・二億円。

 二千万円。

 総額の、およそ二千六百分の一だった。


「おー、載ってる載ってる」

 背後から、三好が画面を覗き込んできた。

「よかったじゃん。新人で自分の書いた要求が載るなんて、普通はないよ」

「まだ要求しただけです」

「分かってるって。でも、まずは載らないと話にならないからね」

 三好は俺の肩をぽんと叩いて、自分の席に戻っていった。


 概算要求は、ただの「お願い」だ。

 ここから年末までの四か月、財務省の主計局が一項目ずつ中身を調べる。必要ないと判断されたものは削られる。予算の世界では、それを「査定」と呼ぶ。十二月の下旬、政府の予算案が閣議で決まるまで、この一行が生き残る保証はどこにもない。

 元の世界線で、俺は報告書の第十三章にこう書いた。

 ――概算要求の段階で計上されながら、査定の過程で削減・見送りとなった抗堪性関連の項目は、二〇一九年度から二〇二八年度までの十年間で、少なくとも十一件確認された。

 この一行が、十二件目にならないとは限らない。


 十月の第二週、財務省へのヒアリングがあった。

 防衛省の要求を担当する主計局の主査に、各課が順番に中身を説明する。奥寺は資料の束を抱え、俺はその後ろからファイルの入った段ボール箱を運んだ。係員の仕事だ。


 霞が関の財務省の庁舎は、防衛省よりも古く、廊下が長かった。

 通された会議室には、窓を背にして若い男が一人座っていた。主査の柏木。三十代の半ばで、ワイシャツの袖をまくり、手元には付箋だらけの要求資料があった。

「防衛計画課さん、お疲れさまです。今日は、えーと、十四項目ですね。時間がないので、一つ五分でお願いします」

 柏木は、早口でそう言った。


 十三項目が終わったのは、予定の時刻を二十分過ぎたころだった。

 奥寺は、どの項目でも柏木の質問に淀みなく答えた。資料のどのページに根拠があるかを即座に示し、答えられない質問には「持ち帰って確認します」と言った。それは、何百回もこの部屋に通った人間の答え方だった。

「では、最後。『大規模災害等における航空基地の機能維持・早期復旧に関する調査研究』」

 柏木が、資料をめくった。

「これ、新規ですね。去年の台風と地震を踏まえた、と」

「はい」

「伺いたいのは二点です」

 柏木は、ボールペンの先で資料を叩いた。

「一点目。空港の災害時の復旧なら、国土交通省の航空局がすでに検討しています。関空の件も、新千歳の件も、向こうで報告書が出ている。防衛省が別に調べる理由は何ですか。重複しませんか」


 奥寺が、ちらりとこちらを見た。

 答えろ、という意味だと分かった。


「申し上げます」

 俺は、段ボール箱の前から一歩出た。

「国土交通省の検討は、民間の空港が対象です。自衛隊の航空基地は、防衛省が管理しています。施設の構造も、滑走路を直す部隊も、使う資材も違います」

「部隊、というと」

「自衛隊には、滑走路を直す専門の部隊があります。災害のときには、その部隊が自分の基地を直し、余力があれば近くの民間空港の復旧も手伝います。三年前の熊本の地震でも、自衛隊の基地が救援の拠点になりました。基地の滑走路が使えなければ、救援物資を運ぶ輸送機が降りられません」

「なるほど」

「ですので、重複ではなく、補完だと考えています。民間空港と自衛隊の基地、両方が同時に止まった場合にどちらを先に直すか。その連携の方法も、調査の対象に含めています」

 柏木は、ボールペンで何かを書き込んだ。

「では二点目」

 顔を上げた柏木の目は、少しだけ鋭くなっていた。


「これは、調査研究ですよね。二千万円。調べるだけ」

「はい」

「で、調べた結果、『基地に頑丈な屋根が必要です』『滑走路の補修資材を大量に備蓄すべきです』という結論が出たとします。そのとき、防衛省さんは何十億、何百億の要求を出してくるんじゃないですか。この二千万は、そのための布石じゃないんですか」


 部屋が、静かになった。

 正しい指摘だった。柏木は、要求の書き方の裏にあるものを、正確に見抜いていた。


 俺が口を開く前に、奥寺が言った。

「布石です」

 柏木が、わずかに眉を上げた。

「調べた結果、必要だと分かったものは要求します。そのときは、今日と同じように、正面からご説明に上がります。必要ないと分かったら、要求しません。そのための調査です」

 奥寺は、それ以上何も付け加えなかった。

 柏木は、しばらく奥寺の顔を見ていた。それから、小さく息を吐いた。

「……正直でいいですね」

 ボールペンを置く。

「満額は約束できません。ただ、項目としては残す方向で検討します」

「ありがとうございます」

 奥寺が頭を下げた。俺も、それに続いた。


 財務省の庁舎を出ると、霞が関の空はもう暗くなっていた。

 段ボール箱を抱えて歩きながら、俺は奥寺の背中に声をかけた。

「さっき、どうして正直に言ったんですか」

「何が」

「布石だって」

 奥寺は、歩く速さを変えずに答えた。

「柏木くんは、分かってて聞いてたからね。分かってる相手に嘘をつくと、次から全部疑われる。今年の二千万を取るために、来年以降の全部を失うことになる」

「……」

「財務省は敵じゃないよ、砂川くん。お金の使い道を、国民の代わりに疑ってくれる人たちだ。疑われて通らない要求は、たぶん、通るべきじゃない要求なんだ」

 奥寺は、信号の前で立ち止まった。

「それに、あの人、たぶん覚えておいてくれる。来年、屋根の要求を出したとき、『ああ、あのときの』って」


 十二月二十日、金曜日。

 令和二年度の政府予算案が、閣議で決定された。


 俺は、昼休みに財務省が公表した資料を開いた。防衛関係費の内訳。細かい文字の表を、一行ずつ追っていく。

 見つけた。


 〇大規模災害等における航空基地の機能維持・早期復旧に関する調査研究 〇・一五億円


 千五百万円。

 五百万円削られていた。

 それでも、残っていた。


「砂川くん」

 島の向こうから、奥寺が声をかけてきた。手元の資料から目を上げないまま。

「残ったね」

「はい」

「七割五分。新規の調査研究としては上出来だよ」

 それだけ言って、奥寺はまた赤ペンを動かし始めた。

 隣の席の三好が、親指を立ててみせた。


 その夜、官舎に帰ると、すぐに眠気が来た。

 こんなに早く眠くなったのは、この時代に戻ってきてから初めてだった。


 地下室にいた。

 蛍光灯は、相変わらず半分しか点いていない。机の上に、報告書がある。

 俺は第五章を開いた。


 航空自衛隊 航空機損失


 その下の数字が、揺れていた。

 これまでのように、かすかに滲むのではない。インクが紙の上で水に溶けるように、一の字と、八の字が、ゆっくりと崩れていく。

 崩れたインクが、また形を作る。


 航空自衛隊 航空機損失 百十六機

 (うち開戦後七十二時間以内の地上損失 七十九機)


 百十六。

 二機。


 俺は、その数字をしばらく見つめていた。

 二機。一機あたり、パイロットが一人か二人。整備の人間が、その機体の周りに何人か。

 あの日、那覇の駐機場で燃えた機体のうち、二機が燃えなかった。千五百万円の調査研究が、何年か後に何かを変え、そのまた何年か後に、二機を屋根の下に入れた。

 どういう道筋で、そうなったのかは分からない。報告書は、結果の数字しか教えてくれない。


 俺は、付属資料の名簿を開いた。

 航空自衛隊の欄。上から十二番目。

 鳴海浩一、一等空佐、第九航空団。

 その一行は、まだそこにあった。かすれたまま、消えずに。


 二機では、足りない。

 百十六機のうち、七十九機がまだ地上で燃えている。千七百四十一人の名簿は、一文字も変わっていない。


 それでも、俺は報告書を閉じる前に、もう一度だけ第五章を開いた。

 百十六。

 この数字は、俺が初めて自分の手で減らした数字だった。


 目を覚ますと、午前四時だった。

 窓の外はまだ暗い。俺は布団から起き上がり、ノートパソコンを開いた。

 来年の要求までに、やることは山ほどある。調査研究の発注先を決める。仕様書を書く。久住と、膜構造の屋根の試作の話を詰める。鳴海に、分散先の候補の飛行場を一緒に回れないか聞いてみる。

 そして、もう一つ。

 〈避難は、帰ってくるために設計する〉

 宮古の夜に打ち込んだメモを、俺は新しいファイルに貼りつけた。


 開戦まで、あと三千三百九十一日。

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