第4話 課長補佐の赤ペン
六月の第三木曜日、勉強会は三回目を迎えていた。
鳴海は約束どおり、空幕で外に出せる範囲の数字を持ってきた。主要な航空基地ごとの駐機場の面積、平時と警戒時の稼働機数、滑走路が使えなくなった場合の代替飛行場までの距離。数字の半分は黒塗りだったが、残りの半分だけでも十分だった。
久住は簡易型の掩体の概算を三種類作ってきた。鋼材の骨組みに土を盛るもの、既存の格納庫を補強するもの、膜構造の屋根とおとりの模型を組み合わせるもの。どれも、戦闘機一機の値段のほうがずっと高かった。
俺はそれを一枚の紙にまとめた。
『航空基地の抗堪性向上に関する調査研究(要求案)』
金額は三千万円。三年かけて、掩体の型式、分散先の候補、滑走路の早期復旧の方法を調べる。調べるだけの予算だ。屋根は一棟も建たない。
それでいい。調査研究の報告書があれば、その次の年に「報告書に基づき」と書ける。役所は、前例と根拠がなければ一歩も動かない。逆に言えば、根拠さえあれば、一歩ずつなら動く。
問題は、この紙を誰に通すかだった。
防衛計画課の予算要求をとりまとめているのは、課長補佐の奥寺だ。四十代半ば。財務省との折衝を何年も担当してきた男で、課の中では「赤ペンの奥寺」と呼ばれていた。若手の作った資料は、彼の机を通ると真っ赤になって戻ってくる。
元の世界線で、俺は奥寺と深く関わったことがなかった。名前を知っていたのは、彼が二〇二八年に防衛政策局の審議官になり、開戦後の国会答弁を何度も書いたからだ。報告書の聞き取りには、彼は応じなかった。体調を理由に、と事務局には連絡があった。
「砂川くん、ちょっと」
金曜日の夕方、奥寺の席に呼ばれた。
机の上に、俺の紙が置いてあった。予想どおり、真っ赤だった。
「座って」
隣の空いている椅子を、奥寺は顎で示した。
「三好から聞いたよ。勉強会、面白いことやってるんだってね」
「ありがとうございます」
「褒めてないよ」
奥寺は赤ペンの尻で、紙の一行目を叩いた。
「『有事における航空基地への攻撃を想定し』。ここで財務省の担当者は読むのをやめる」
「……どうしてですか」
「彼らの仕事は、要らない予算を削ることだ。で、『攻撃を想定した』予算は、いくらでも膨らむ。屋根を作ったら、次は壁、その次は地下。終わりがない。だから最初から警戒される」
二行目。
「『周辺国のミサイル戦力の増強を踏まえ』。これは政治の話だ。どこの国のことか、国会で聞かれる。答え方を一つ間違えたら、大臣が謝ることになる。うちが外交問題の種を予算書に書き込むわけにはいかない」
三行目。
「『相手のミサイルを消費させ』。これは論外。戦争の計画書だよ、これじゃ」
俺は黙って聞いていた。
反論はできた。でも、反論しても意味がないことも分かっていた。奥寺は間違ったことを言っていない。財務省も、国会も、本当にそういう場所だ。
報告書の第十三章、「平時の意思決定の問題」。そこに俺は、こう書いた。
――必要性は認識されていたが、予算上の説明が困難であるとの理由で、要求に至らなかった事例が多数確認された。
その「事例」の一つが、たぶん、いま目の前にある。
「じゃあ、どう書けばいいんでしょうか」
俺がそう言うと、奥寺は少し意外そうな顔をした。
「お。反論しないんだ」
「反論しても、財務省は通らないので」
「分かってるなら、最初からそう書きなさい」
奥寺は赤ペンを置き、椅子の背にもたれた。
「去年の九月、何があった」
去年。二〇一八年の九月。
考えるまでもなかった。
「台風で、関西空港が水に浸かりました。連絡橋にタンカーがぶつかって、空港が孤立した」
「それから」
「その二日後に、北海道で大きな地震がありました。全道が停電して、新千歳空港も止まった」
「そう」
奥寺は、紙の余白に赤い字で書いた。
『大規模災害』
「滑走路が使えなくなったら、どうやって早く直すか。それは、地震でも台風でも同じだ。基地が止まったら、救援の物資も、患者の搬送も止まる。災害派遣の拠点が機能しなくなる。それを調べる予算なら、財務省も文句は言いにくい。国会で聞かれても、去年の災害を例に出せば説明がつく」
「……屋根は」
「屋根も同じだよ。台風で機体が飛ばされないようにする。火山灰から守る。そういう目的で調べればいい。調べた結果、ついでに別の役にも立つなら、それは役所の知恵だ」
奥寺は、紙の一番上に赤い字で新しいタイトルを書いた。
『大規模災害等における航空基地の機能維持・早期復旧に関する調査研究』
「『等』が大事なんだ」
奥寺は、その一文字に二重線を引いた。
「『等』には、何でも入る。地震も、台風も、それ以外も。書かなくても、入っている」
俺はその紙を受け取った。
真っ赤な字の中に、要求の中身はほとんど残っていた。掩体の型式、分散先の候補、滑走路の早期復旧。言葉が変わっただけだ。目的の書き方が変わっただけだ。
それだけで、この紙は財務省を通るかもしれない紙になった。
「金額は」
「三千万円です」
「二千万にしなさい。最初の年は小さく出して、確実に取る。三千万を出して半分に削られるより、二千万を満額で取るほうが、次の年に効く」
「はい」
「それから」
奥寺は、俺の目を見た。
「『相手に弾を数えさせる』。勉強会で、きみがそう言ったんだってね。鳴海くんが三好に話して、三好が僕に話した」
「……はい」
「いい言葉だ」
奥寺は、少しだけ笑った。
「だから、紙には書くな。口で言いなさい。言う相手を選んで、口で。紙に書いた言葉は、十年後に誰が読むか分からない。口で言った言葉は、聞いた人の頭の中にしか残らない。それで十分なことも、この役所にはたくさんある」
十年後に誰が読むか分からない。
その言葉に、俺は返事ができなかった。十年後、この役所の紙を全部読んで、一冊の報告書にまとめたのは俺だ。そして、その報告書の中に、こういう会話は一行も残っていなかった。
紙に残らなかった知恵が、たぶん、あちこちにあったのだ。
「来週の月曜までに直して。僕のところで止めないから、課長に上げる」
「ありがとうございます」
立ち上がりかけたとき、奥寺が言った。
「砂川くん」
「はい」
「きみ、何を急いでるの」
俺は動きを止めた。
奥寺は、もう俺のほうを見ていなかった。次の資料に赤ペンを走らせながら、独り言のように続けた。
「入省三か月で、こういう紙を書く新人はいない。書く気になったとしても、普通は五年くらい様子を見る。きみは、様子を見てない。まるで、締め切りがあるみたいに見える」
「……締め切りは、あります」
俺は言った。
「概算要求の締め切りは、八月の末なので」
奥寺の赤ペンが、一瞬だけ止まった。
「そうだね」
それだけ言って、彼はまた手を動かし始めた。
席に戻ると、隣の島で三好が椅子ごとこちらに振り返った。
「生きて帰ってきた?」
「真っ赤になって帰ってきました」
「おめでとう。奥寺さんが真っ赤にするのは、通す気がある紙だけだから」
「……そうなんですか」
「通す気がない紙は、赤も入れずに返ってくる。『検討します』の付箋だけ貼ってね」
三好は、自分の机の引き出しを開けて、黄ばんだ付箋の束を見せた。どれにも、同じ筆跡で「検討します」と書いてあった。
「僕の五年分のコレクション」
その夜、俺は官舎で紙を書き直した。
災害、早期復旧、機能維持。一行ずつ、言葉を置き換えていく。中身は何も削らなかった。削らずに済む言葉を、奥寺が教えてくれたからだ。
午前一時、最後の一文を打ち終えた。
保存ボタンを押す前に、俺はタイトルの「等」の一文字を、しばらく見つめていた。
その文字の中に、二〇二九年四月二日が入っている。
誰にも書かれないまま、確かに入っている。
開戦まで、あと三千五百七十四日。




