第3話 百億円を一億円で守る会
十連休が明けた最初の木曜日、昼の十二時十分。
防衛省A棟の十一階、いちばん小さな会議室に、四人が集まった。
机の上には、俺が作った資料が四部並んでいる。表紙には三好の希望どおり、『百億円を一億円で守る会 第一回』と印字した。
ドアの横に貼った案内の紙を見て、通りかかった誰かが小さく笑うのが聞こえた。三好の読みは当たっていたのかもしれない。少なくとも、名前は覚えてもらえる。
「えー、じゃあ始めます。昼休みなんで、一時までに終わらせましょう」
三好が、気の抜けた声で口火を切った。
「言い出しっぺはうちの新人の砂川です。資料も全部彼が作りました。僕は名前を貸しただけなんで、文句は彼にどうぞ」
参加者は、三好と俺のほかに二人。
一人は、整備計画局施設計画課の久住という技官だった。三十歳前後の女性で、ノートパソコンを開いたまま、資料には目もくれずに何かを打ち込んでいる。基地の建物や滑走路を設計・発注する部署の人間だ。屋根を作るなら、彼女の課を通らなければ始まらない。
もう一人は、航空幕僚監部防衛部の三等空佐だった。
三好の防衛大学校時代の同期で、制服の左胸に航空徽章を付けている。日に焼けた顔に、短く刈った髪。椅子に浅く腰かけ、腕を組んでいた。
「鳴海です。三好に、昼飯を奢るから来いと言われました」
低い声だった。
その名前を聞いた瞬間、喉の奥が冷たくなった。
鳴海浩一。
報告書の付属資料、自衛官戦死者名簿。航空自衛隊の欄の、かなり上のほうにあった名前だ。
二〇二九年四月二日、午前五時十四分。那覇基地。当時の階級は一等空佐、第九航空団の飛行群司令。
警報が鳴ったあと、彼は地下の指揮所に降りず、駐機場へ走った。一機でも多く上げるためだった。
二発目が来たのは、その四分後だった。
「砂川くん?」
三好の声で、我に返った。
「……失礼しました。始めます」
俺は資料の一ページ目を開いた。
話す内容は、食堂で三好に説明したものと同じだ。周辺国のミサイル戦力の伸び。限られた航空基地。屋根のない駐機場。そして、三つの対策。
十五分ほどで説明を終えると、最初に口を開いたのは鳴海だった。
「三つ言わせてくれ」
組んでいた腕をほどき、指を一本立てる。
「一つ目。戦闘機は、地上で待っているわけじゃない。有事が近づけば、警戒の態勢を上げる。空に上がっている機体は、駐機場がどうなろうと関係ない」
二本目。
「二つ目。屋根を作っても、弾道ミサイルの直撃には耐えられない。屋根ごと吹き飛ぶだけだ。一億円の屋根で百億円を守るというのは、言葉としては面白いが、実態は違う」
三本目。
「三つ目。分散させろと言うが、どこへ分散させる。戦闘機が降りられる滑走路は限られている。民間の空港を使うには、地元の同意がいる。そんな調整をしている時間はない」
鳴海は三本の指を下ろした。
「それから、優先順位の話だ。今いちばん足りないのは、機体の数だ。向こうの戦闘機は年々増えている。こっちは増えていない。屋根に回す金があるなら、一機でも多く買ったほうがいい。空幕の中では、それが大勢の考えだ」
言い返せる材料はあった。全部、報告書に書いてある。
問題は、どう言えば「知っているはずのない人間」が言っても不自然にならないかだ。
俺は一つ息を吸った。
「一つ目からお答えします」
資料の三ページ目を開く。
「警戒の態勢を上げても、すべての機体を常に空に上げておくことはできません。燃料も、整備も、パイロットの体力も続かない。ある時点で必ず、大部分の機体は地上にいます」
「それは分かっている」
「そして、相手は、その時点を選べます」
鳴海の目が、わずかに細くなった。
「攻撃する側は、いつ撃つかを自分で決められます。こちらの警戒がいちばん薄くなる時間帯を、何か月もかけて観察できる。夜明け前。整備のための交代時刻。週末の明け方」
二〇二九年四月二日は、月曜日だった。攻撃は、午前五時九分に始まった。
「弾道ミサイルなら、発射から着弾まで十分前後です。警報が鳴ってから、地上の機体を全部上げることはできません」
鳴海は何も言わなかった。俺は続けた。
「二つ目。おっしゃるとおり、屋根は直撃には耐えられません。でも、屋根の目的は、直撃に耐えることではないんです」
「じゃあ何だ」
「相手に、弾を数えさせることです」
久住のキーボードを打つ手が止まった。
「駐機場に戦闘機が二十機並んでいれば、相手は一発か二発で全部を壊せます。広い範囲に小さな爆弾をばらまく弾頭なら、屋根のない機体はまとめて使い物にならなくなる。でも、二十機が二十の屋根に一機ずつ入っていて、しかもどれに本物が入っているか分からなければ、相手は二十の屋根に一発ずつ撃たなければなりません」
資料の四ページ目に、簡単な表を作ってあった。
「相手のミサイルにも限りがあります。一つの基地に二十発を使わせれば、ほかの基地や、台湾や、米軍に向かう弾が二十発減ります。屋根は機体を守るためではなく、相手の計算を狂わせるためにあるんです」
「……おとりも使え、ということか」
「はい。中身が空の屋根でも、相手からは区別がつきません。本物そっくりの風船の模型を置くだけでもいい」
鳴海は資料を手に取り、四ページ目をじっと見ていた。
しばらくして、久住が初めて口を開いた。
「屋根一つ、いくらかかると思ってます?」
「正確な数字は分かりません。ただ、戦闘機一機よりは、はるかに安いはずです」
「本格的な鉄筋コンクリートの掩体なら、一棟で数十億はいきますよ。土地の造成と、周りの誘導路も含めたら、一億じゃ全然足りない」
久住は画面から目を上げずに言った。
「でも、簡易型なら話は別です。鋼材の骨組みと、土を盛った壁だけ。屋根は破片を防げればいい。それなら、一棟あたり、うちの感覚だと……」
彼女は電卓のアプリを叩いた。
「一億は無理でも、数億の前半。会の名前を変えるほどじゃないですね」
三好が小さく吹き出した。
「三つ目の分散先については」
俺は最後のページを開いた。
「今すぐ決める必要はありません。ただ、平時のうちに、使えそうな飛行場の一覧を作っておくべきだと思います。民間空港も含めて。滑走路の長さ、燃料の備蓄、地元自治体との協定の有無。それを調べておくだけなら、予算はほとんどかかりません」
有事になってから調整を始めたのでは、間に合わない。
元の世界線では、まさにそうなった。開戦三日目に九州の民間空港への分散を決めたとき、受け入れの調整がつく前に、二つの基地の滑走路が使えなくなった。
「最後に、優先順位について」
俺は資料を閉じた。
「機体を増やすことには、反対しません。でも、百機を買い足しても、その百機が開戦初日に地上で失われれば、ゼロと同じです。逆に、今ある機体を一機でも多く生き残らせれば、それは新しく買ったのと同じ意味を持ちます」
「……」
「買った機体が飛べるようにしておくことも、機数を増やすことの一部だと思うんです」
会議室が静かになった。
時計の針は、十二時五十二分を指していた。
沈黙を破ったのは、鳴海だった。
「砂川くん、だったか」
「はい」
「入省して何年目だ」
「一か月と九日です」
三好がまた吹き出しかけて、咳払いでごまかした。
鳴海は笑わなかった。
「夜明け前、整備の交代時刻、週末の明け方。それに、着弾までの十分。……まるで、見てきたみたいな言い方をするな」
心臓が、一度大きく跳ねた。
「シミュレーションを、いくつか読んだので」
「どこの」
「海外のシンクタンクの公開資料です」
嘘ではない。この時点でも、似たような分析はいくつか公開されている。俺が読んだのは、それより十年分新しいものだというだけだ。
鳴海は、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、資料を丁寧に二つに折り、胸のポケットにしまった。
「俺は四年前まで、那覇にいた」
ぽつりと言った。
「那覇の滑走路は、民間の旅客機と共用だ。一本しかない。来年には二本目ができるが、それでも二本だ。台湾まで六百キロもない。あそこが一番最初にやられることくらい、現場の人間はみんな分かってる。分かってるのに、誰も口に出さない」
「……どうしてですか」
「口に出すと、じゃあどうするのか、と聞かれるからだ。答えを持ってないのに、問題だけ言うやつは嫌われる」
鳴海は立ち上がった。
「次回までに、空幕で出せる範囲の数字を持ってくる。駐機場の配置と、警戒態勢ごとの稼働機数だ。もちろん、外に出せない部分は伏せる」
「ありがとうございます」
「礼はいい。屋根に価値があるかどうか、数字で確かめたいだけだ」
鳴海はドアの前で振り返った。
「三好。昼飯の約束、まだ有効だろうな」
「……はいはい、地下の定食でよければ」
二人が出ていったあと、久住がノートパソコンを閉じた。
「次回、簡易型の概算、持ってきます」
「助かります」
「別に、あなたのためじゃないですよ」
久住は資料を鞄にしまいながら言った。
「うちの課、毎年同じ要求ばっかりで飽きてたんです。隊舎の建て替えと、老朽化した配管の修繕。たまには、意味のある屋根も設計してみたいので」
一人になった会議室で、俺は四部の資料のうち、誰も持ち帰らなかった一部を手に取った。
表紙の下のほうに、小さく日付を入れてあった。
令和元年五月九日。
その夜、また地下室の夢を見た。
報告書を開く。第五章。
航空機損失、百十八機。
数字は、やはり変わっていなかった。
俺は、そのまま付属資料の名簿へとページをめくった。
航空自衛隊の欄。上から十二番目。
鳴海浩一、一等空佐、第九航空団。
その一行だけが、薄くかすれていた。何度も指でなぞった「す」の欄とは違う。インクそのものが、紙の上で迷っているような薄さだった。
――まだ、決まっていない。
俺はその一行に、指を触れずに目を閉じた。
開戦まで、あと三千六百十六日。




