第2話 係員の一行
入省式の翌日、俺は防衛政策局防衛計画課の係員になった。
係員。この役所でいちばん下の職名だ。
机は窓のない島の端にある。電話は鳴れば誰より先に取る。コピー機の紙詰まりは誰より先に直す。それが仕事だった。
一度経験した仕事だから、体は勝手に動く。
問題は、中身が三十六歳のままだということだ。
「砂川くん、これ二十部。ホチキスは左上、一か所ね」
声をかけてきたのは、係長の三好だった。三十代前半で、眼鏡の奥の目がいつも少し眠そうだ。元の世界線では、二〇二七年に内閣官房へ出向して、避難計画の担当になった男だった。
六日間、一日二万人。あの計画の実務を回した一人だ。
「……はい」
俺は受け取った資料に目を落とした。
『平成三十一年度以降に係る防衛計画の大綱 概要』
前年の十二月に閣議決定されたばかりの大綱だ。宇宙、サイバー、電磁波。新しい領域という言葉が、どのページにも並んでいる。
間違ってはいない。必要なことだった。
ただ、この中に「地上で航空機を失わないための備え」は、ほとんど書かれていない。
百十八機のうち、八十一機は地上で失われた。
その数字を知っているのは、この建物で俺だけだ。
コピー機の前で、俺は考えた。
係員が政策を変えることはできない。大綱は閣議決定された国の方針で、次の見直しは何年も先になる。課長に意見を言えば、生意気な新人として扱われて終わりだ。
元の世界線の俺は、それを知っていたから何も言わなかった。
今回は違う。言い方を知っている。
役所には、正式な決裁とは別の道がある。
勉強会だ。
有志の職員が集まり、テーマを決めて論点を整理する。結論を出す場ではないから、誰も責任を取らなくていい。だからこそ、新しい話を持ち込める。そこでまとめた資料が、何年か後の予算要求の「参考資料」に紛れ込むことがある。
俺が狙うのは、その一行だ。
まずは、誰に話を持っていくかを決めなければならない。
四月の第二週、昼休み。地下の食堂で、三好の正面の席が空いた。
俺はトレイを持って座った。
「係長。少し、ご相談してもいいですか」
「ん。仕事の話? 昼くらい休ませてよ」
「すみません。五分で終わります」
三好は味噌汁をすすりながら、手のひらで先を促した。
俺は、前の晩に書いた二枚の紙を差し出した。
『航空基地の抗堪性に関する論点整理(試案)』
抗堪性。攻撃を受けても機能を保つ力のことだ。
中身は、三つしか書いていない。
一つ目。周辺国のミサイル戦力は、量でも精度でも、この十年で大きく伸びている。米国防総省の年次報告書を読めば、誰でも分かる数字だけを並べた。
二つ目。国内の主要な航空基地は数が限られ、機体の多くは屋根のない駐機場に並んでいる。これも公開されている航空写真で確認できる。
三つ目。もし開戦初日に基地が攻撃されれば、戦闘機は飛び立つ前に失われる。そうなれば、どれだけ高性能な機体を買っても意味がない。
対策も三つだけ書いた。
掩体の整備。機体を分散させるための予備の飛行場。滑走路を素早く直す部隊と資材。
三好は箸を止めて、一枚目を最後まで読んだ。二枚目をめくり、また一枚目に戻った。
「……これ、誰に頼まれたの」
「誰にも頼まれていません」
「入省して一週間で?」
「学生のころから、気になっていたので」
嘘だった。気になり始めたのは、二〇二九年四月二日の朝だ。
三好は紙を置き、俺の顔をまじまじと見た。
「中身は、まあ、正しいよ。正しいけど、新しくはない。抗堪性の話は、昔から空幕でも言われてる」
「知っています」
「じゃあ、なんでやらないか分かる?」
「目立たないからです」
三好は少し驚いた顔をした。
「戦闘機は一機百億円を超えます。買えばニュースになりますし、国会でも説明しやすい。でも、コンクリートの屋根はニュースになりません。滑走路の補修資材は、使わなければ倉庫で錆びるだけです。予算の取り合いになれば、必ず後回しにされます」
「……で、きみはそれをどうしたいの」
「後回しにされないように、名前を付けたいんです」
「名前?」
「はい。『抗堪性』という言葉は、財務省の担当者には伝わりません。でも、『百億円の戦闘機を、一億円の屋根で守る』と言えば、伝わります」
三好は黙った。
食堂のざわめきの中で、テレビが昼のニュースを流していた。新しい元号を記念した商品が売れているという話題だった。
「砂川くんさ」
しばらくして、三好が言った。
「僕に何をしてほしいの」
「勉強会を作っていただけませんか。係長の名前で」
「僕の?」
「係員の名前では、誰も来ません。係長の名前なら、空幕や整備計画局の同じ年次の方に声をかけられます。月に一度、昼休みに一時間だけ。結論は出さなくていいです。論点を整理して、紙を残すだけでいい」
「紙を残して、どうするの」
「来年の夏、概算要求の参考資料に、一行だけ入れてもらいます。『航空基地の抗堪性向上に関する調査研究』。金額は、数千万円で十分です」
三好は苦笑した。
「ずいぶん具体的だね」
「具体的でないと、何も動かないので」
それは、二年かけて報告書を書いた人間の実感だった。
第十四章の提言を書いていたとき、俺は何度も同じ壁に当たった。「抗堪性の重要性は以前から指摘されていた」。指摘はされていた。資料も残っていた。でも、予算の一行にならなかった。
だから、八十一機は地上で燃えた。
三好は残りの味噌汁を飲み干し、トレイを持って立ち上がった。
「考えとく」
それだけ言って、食堂を出ていった。
二枚の紙は、テーブルの上に置いたままだった。
駄目だったか。
俺は紙を手に取った。元の世界線の三好は、慎重で、波風を立てるのを嫌う男だった。避難計画を担当したときも、上から言われた「六日間」を、最後まで一度も疑わなかった。
いや、疑ったのかもしれない。疑っても、言えなかったのかもしれない。
報告書を書くために、俺は彼の聞き取りもした。二〇三〇年の秋、彼はもう霞が関を辞めていて、千葉の実家の近くの喫茶店に来てくれた。
――あの六日間が足りないことは、たぶん、みんな分かってた。
彼はそう言って、コーヒーには一度も口をつけなかった。
その日の夕方、課の島に戻ると、俺の机の上に付箋が一枚貼ってあった。
三好の、癖のある字だった。
〈勉強会の件。名前は貸す。そのかわり、資料は全部きみが作ること。
第一回は五月の連休明け。空幕の同期に一人、声をかけてみる。
あと、タイトルは「百億円を一億円で守る会」にしよう。そのほうが人が来る〉
俺は付箋を剥がして、手帳に挟んだ。
顔を上げると、島の反対側で三好がパソコンに向かっていた。こちらを見ようとはしなかった。
その夜、官舎の狭い部屋で、母から写真が届いた。
宮古の家の庭だった。ブーゲンビリアが、塀を越えるほど赤く咲いていた。その前で、美月がピースをしている。十九歳の妹は、まだ髪を染めていなかった。
〈ほら、すごいでしょ。透も夏に帰ってきなさいよ〉
俺は長いあいだ画面を見ていた。
返事を打とうとして、何度も消した。結局、〈帰る〉とだけ送った。
眠りに落ちると、また地下室にいた。
蛍光灯が半分だけ点いた、二〇三一年の検証委員会の部屋だ。机の上に、報告書の最終稿が置いてある。
夢だと分かっていた。それでも、手は勝手に第五章を開いた。
航空自衛隊 航空機損失 百十八機。
数字は、変わっていなかった。
じっと見つめていると、一の字がかすかに滲んだ気がした。インクが揺れるように、輪郭がぼやけ、すぐにまた元に戻る。
――まだ何も変わっていない。
当たり前だ。俺がしたのは、昼休みに二枚の紙を渡しただけだ。勉強会はまだ一度も開かれていない。予算は一円も付いていない。
それでも、数字は確かに揺れた。
目を覚ますと、午前五時だった。
窓の外は、夜明け前の群青色だった。
俺はベッドから起き上がり、ノートパソコンを開いた。第一回の勉強会まで、三週間しかない。
新しい文書のタイトル欄に、俺は打ち込んだ。
『百億円を一億円で守る会 第一回資料』
開戦まで、あと三千六百四十六日。




