第16話 鏡に映らない屋根
八月四日、木曜日。午後三時すぎ。
国家安全保障局の島の電話が、一斉に鳴り始めた。
「中国軍が、台湾の周辺に向けて弾道ミサイルを発射。複数発。うち一部が、日本の排他的経済水域の内側に落下した模様」
防衛省からの第一報を、外務省出身の若手が読み上げた。
島の空気が、凍りついた。
日本の水域に、中国のミサイルが落ちる。それは、初めてのことだった。
俺は、自分の席から動かなかった。
知っていた。
アメリカの議会の要人が台湾を訪れ、その報復として、中国軍は台湾をぐるりと囲むように大規模な演習を始める。弾道ミサイルが撃たれ、そのうち五発が、波照間島や与那国島の南の、日本の水域に落ちる。
元の世界線で、俺はこのニュースを防衛省の自分の席で聞いた。
「落下は、五発です」
午後五時の続報で、その数字が出た。
記憶どおりだった。
俺は、小さく息を吐いた。ここまでは、変わっていない。去年の十月、東に回り込む八機の編隊が現れたときから、俺はずっと怯えていた。自分の知っている未来が、どこかで大きくずれてしまうのではないかと。
五発。この数字が同じなら、大きな流れはまだ変わっていない。
その日の夜十時、内線の電話が鳴った。
「砂川さん。情報本部の柚木です」
低く、落ち着いた声だった。
「少し、お時間いただけますか。地下の喫煙所の横に、自販機のコーナーがあります。そこで」
自販機のコーナーには、柚木しかいなかった。
缶コーヒーを二本買い、一本を俺に差し出した。
「今日のミサイル、五発でしたね」
「はい」
「あなたは、五という数字を聞いても、何の反応もしなかった。去年の十月と同じです」
柚木は、缶コーヒーのプルタブを開けた。
「回りくどいのは、やめます。私は、あなたが何を知っているのかを聞くつもりはありません」
「……」
「聞いても、たぶん答えないでしょう。答えたとしても、私が信じるかどうか分からない。だから、聞きません」
柚木は、コーヒーを一口飲んだ。
「その代わり、提案があります」
「去年の十月、あなたは顔色を変えた。東に回り込む編隊を見て。あれは、あなたの考えた対策が、相手に知られたと思ったからでしょう。週刊誌の記事で」
図星だった。
「あなたの考え方は、正しい。屋根と、分散と、おとり。でも、正しい考え方ほど、相手にも正しく伝わる。前に、そう言いましたね」
「鏡、ですか」
「そうです」
柚木は、缶コーヒーを自販機の上に置いた。
「私の仕事は、相手が何を見ているかを考えることです。相手の衛星が、どの基地を、どの時間に、どんなセンサーで撮っているか。相手の研究機関が、日本のどの雑誌や論文を読んでいるか。相手が、日本の何を数えているか」
「……」
「あなたが何かを作るとき、それが相手にどう映るかを、私が見ます。あなたの紙を、鏡に映る前に、一度だけ私に見せてください。それだけです」
俺は、しばらく黙っていた。
柚木は、俺に何かを疑っている。それは、間違いない。でも、その疑いを脇に置いて、手を貸そうとしている。
なぜだ。
「どうして、そこまでしてくれるんですか」
「簡単です」
柚木は、初めて少しだけ笑った。
「私も、鏡の向こうの相手に勝ちたいので」
翌週、柚木を連れて、防衛省の整備計画局を訪ねた。
施設計画課の久住は、相変わらずノートパソコンから目を離さないまま、俺たちを迎えた。
「お久しぶりです、砂川さん。出向先、楽しいですか」
「地獄だと言われました」
「でしょうね」
久住は、画面を二人に向けた。
「来年度の要求、準備してます。調査研究の報告書を根拠にして、簡易型の掩体を、まず二つの基地で。膜構造の屋根と、土盛りの壁と、おとりの模型。予算は、去年の何倍も積めそうです。上の空気が、今年は全然違うので」
「ウクライナの件で、ですか」
「それと、先週のミサイルで」
久住は、肩をすくめた。
「人が死ぬ映像が流れると、予算が通りやすくなる。嫌な世界ですね」
柚木が、画面の設計図を覗き込んだ。
「この屋根、衛星からどう見えますか」
「どう、とは」
「上から、普通の光学カメラで見た場合。それから、レーダーで見た場合。赤外線で見た場合」
久住は、手を止めた。
「……光学なら、屋根の形が見えます。レーダーは、たぶん、構造物があることは分かる。赤外線は、考えてませんでした」
「中に戦闘機が入っていれば、エンジンを止めたあとも、しばらくは熱が残ります。それが、屋根を透かして見えるかもしれない。おとりの模型は、熱を出しません」
「……」
「それから、屋根の周りの地面です」
柚木は、画面の端を指さした。
「戦闘機が出入りする屋根の前には、タイヤの跡が残ります。燃料を補給するための車が、頻繁に行き来する。整備員が歩く道ができる。おとりの屋根の前には、何も残らない」
久住は、長いあいだ設計図を見つめていた。
「つまり、屋根を作るだけじゃ、だめってことですね」
「屋根は、作ってください」
俺は言った。
「でも、屋根より大事なのは、屋根の使い方です」
柚木が、うなずいた。
「本物とおとりを見分けられないようにするには、本物を固定しないことです。機体を毎日、違う屋根に入れる。おとりの屋根の前にも、車を走らせる。熱を出す装置を、おとりの中にも置く。そうすれば、相手は全部の屋根を同じように扱うしかない」
「それ、運用の話ですよね。施設の話じゃない」
「そうです。だから、鳴海さんに話を通さなければなりません」
「鳴海さん、今、那覇でしたっけ」
「はい」
久住は、ノートパソコンを閉じた。
「もう一つ、大事なことがあります」
柚木が言った。
「この計画の中身を、予算書に書かないことです」
「書かないと、予算は取れませんよ」
「金額は書いてください。『施設の強靱化』とか、『抗堪性の向上』とか、そういう名前で。でも、屋根がいくつか、本物とおとりの割合はどうか、どの基地にどれだけ。それは、秘密の指定をかけて、予算書とは別の紙にしてください」
柚木は、俺のほうを見た。
「週刊誌に出たのは、勉強会の資料でした。予算書は、誰でも読めます。相手の研究機関の人間も、毎年読んでいます」
帰りの廊下で、柚木がぽつりと言った。
「砂川さん。もう一つだけ、言っておきます」
「はい」
「完全に隠すことは、できません」
柚木は、窓の外の市ヶ谷の空を見た。
「相手の衛星は、毎日、日本の上を飛んでいます。屋根を作れば、屋根ができたことは分かる。何年かかけて、全部の基地に屋根が増えていけば、日本が何をしようとしているかは、必ず分かる」
「……」
「だから、目指すのは、隠すことではありません。相手に、分からないことを増やすことです。どれが本物か分からない。どこに何機いるか分からない。分からないことが多ければ多いほど、相手は全部に弾を撃つしかない」
柚木は、こちらを向いた。
「あなたの言った言葉ですよ。『相手に弾を数えさせる』。今度は、数えても数えきれないようにする」
その夜の夢で、報告書を開いた。
第五章。
航空自衛隊 航空機損失 百十機
(うち開戦後七十二時間以内の地上損失 七十三機)
四機、減っていた。
百十四から、百十へ。去年の十月に増えた二機を取り戻し、さらに二機。
第四章。中国軍の作戦。
――中国軍は二〇二一年以降、分散した小規模飛行場への攻撃を想定した訓練を実施していた。
その後ろに、新しい一文が加わっていた。
――しかし、開戦時、中国軍は日本の航空基地における本物の機体と欺瞞用の模型を十分に識別できず、攻撃の多くが空の掩体に向けられた。
俺は、その一文を何度も読んだ。
空の掩体に向けられた。
鏡に映った屋根の、半分は空だった。
付属資料を開く。航空自衛隊の欄、上から十二番目。
鳴海浩一。
その名前は、一年前に濃くなったときより、少しだけ薄くなっていた。
開戦まで、あと二千四百三十三日。




