第15話 二〇二二年二月
二月二十四日、木曜日の正午すぎ。
国家安全保障局の経済班の島で、誰かのパソコンからニュースの音声が流れた。
――ロシア軍が、ウクライナへの軍事侵攻を開始しました。首都キーウの周辺でも、爆発音が確認されています。
島の全員が、手を止めた。
早瀬が、ゆっくりとこちらを振り返った。外務省から来ている若手が、慌てて立ち上がり、桐生の席へ走っていった。誰かが、テレビのリモコンを探していた。
俺は、パソコンの画面を見つめたまま動けなかった。
知っていた。
この日が来ることを、二年前から知っていた。
俺には、止められなかった。
当たり前だ。日本の一人の係員が、遠い国の戦争を止められるはずがない。誰に何を言えば止まったのかも、分からない。それに、もし止めようとして何かを変えれば、その先の歴史が全部変わる。台湾海峡の戦争が、いつ、どんな形で始まるのかも。
だから、何もしなかった。
何もしないと、決めていた。
それでも、テレビの画面に映った映像を見たとき、胃の奥から何かがせり上がってきた。
夜明け前の空に光る、ミサイルの軌跡。燃える建物。地下鉄の駅のホームに避難する人々。
二〇二九年四月二日の朝と、同じ色をしていた。
「砂川さん」
早瀬の声が、遠くに聞こえた。
「大丈夫ですか。真っ青ですよ」
「……少し、外の空気を吸ってきます」
庁舎の屋上には、冷たい風が吹いていた。
手すりにもたれて、永田町の街を見下ろす。いつもと同じ、平日の昼だった。歩道を人が歩き、車が走り、どこかで工事の音がしている。
この国は、まだ平和だった。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
母からだった。
「透? テレビ見てる?」
「……見てる」
「怖いわねえ。子どもを抱いて、駅で泣いてる女の人が映ってて。見てられないわ」
「うん」
「あんたの仕事も、こういうのと関係あるの?」
「少しは」
「そう」
電話の向こうで、母が小さく息を吐いた。
「逃げられる人は、まだいいわよね。逃げられない人もいるでしょう。年寄りとか、病気の人とか。家を離れたくない人とか」
「……」
「宮古だったら、どうなるのかしらね。逃げる場所なんて、海の向こうしかないのに」
母は、それ以上は何も言わなかった。
俺も、何も言えなかった。
その日の夕方から、経済班の仕事は一変した。
エネルギーの価格が、跳ね上がった。原油も、天然ガスも、石炭も。ヨーロッパは、ロシアからのガスに頼っていた。そのガスが止まるかもしれない。世界中のガスの奪い合いが、始まろうとしていた。
日本も、例外ではなかった。
「日本が輸入している液化天然ガスの、だいたい一割弱がロシアからです」
夜の九時、会議室で小野寺が説明した。急遽呼び出されて、エネルギー庁から走ってきたらしく、ネクタイが曲がっていた。
「北の島の、大きなガス田の計画から来ています。日本の商社も出資している。もしここが止まったら、その分を別のところから買わなければなりません。でも、今は世界中のガスが足りない。ヨーロッパも、同じものを買いに走ります」
「値段は」
桐生が聞いた。
「何倍にも、なり得ます」
会議室が、静かになった。
桐生は、しばらく手元の資料を見つめていた。それから、俺と早瀬のほうを向いた。
「海上交通途絶シナリオの検討資料。今、どこまでできていますか」
「LNGの在庫と、船の在庫と、休止中の石炭火力の活用について、一通りの整理はできています」
俺は答えた。
「それから、戸田さんに協力してもらって、外航船の乗組員の問題も、論点だけは」
「明日の朝までに、要点を三枚にまとめてください」
「……三枚」
「局長に上げます。正式な検討として。秘密の指定は、そのまま維持します」
桐生は、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「先日まで、誰も聞いてくれなかった話です。今日から、誰もが聞きたがる話になりました」
会議室を出ると、早瀬が俺の隣に並んだ。
「砂川さん」
「はい」
「こんなふうに、通ってほしくはなかったですね」
早瀬の声は、低かった。
「僕らの紙が、人が死ぬ映像のおかげで、急に価値が出る。それって、なんか」
「分かります」
分かっていた。
俺は、二年前からこの日を知っていた。この日が来れば、エネルギーの議論の風向きが変わることも、知っていた。
知っていて、それを待っていたのかと聞かれたら、否定できなかった。
「でも、早瀬さん」
俺は、廊下の窓の外を見た。永田町の夜は、いつもより明かりが多かった。
「僕らが今日から何もしなかったら、あの映像は、いつか、この国のニュースになります」
「……」
「通ってほしくない形で通った紙でも、通らないよりは、ずっといい。そう思うしかないと思います」
早瀬は、しばらく黙っていた。
「砂川さんって、ときどき、すごく年上みたいなことを言いますよね」
「よく言われます」
その夜は、官舎に帰らなかった。
経済班の島で、俺は三枚の紙を書いた。早瀬は隣で、数字の確認をしてくれた。小野寺は、エネルギー庁の自分の席から、明け方までメールで資料を送ってくれた。戸田は、夜中の一時に一行だけ返事をくれた。
〈乗組員の補償、国が保証する前提で書いて。業界の反発は私が受けます〉
午前五時、三枚目の最後の一文を打ち終えた。
窓の外が、少しずつ明るくなり始めていた。
テレビは、一晩中、同じ映像を流していた。
国境の駅に、人が押し寄せている。大きな荷物を抱えた女性。子どもの手を引く老人。犬を抱いた少年。列車に乗り込もうとする人の波。
一人の老婆が、カメラに向かって何かを言っていた。字幕が出た。
――私はここに残る。この家で生まれたから。
俺は、画面から目を離せなかった。
母の声が、頭の中で重なった。
――ここで死ぬよ。
島の人たちも、同じだ。
逃げろと言われても、簡単には逃げない。逃げた先でどうやって暮らすのか。いつ帰れるのか。誰が家を守るのか。
その答えを、この老婆は持っていなかった。たぶん、誰も持っていなかった。
ノートを開く。
宮古の夜に書いたメモの下に、一行を書き足した。
〈避難は、帰ってくるために設計する。
そのためには、帰る場所が残っていなければならない〉
仮眠をとったのは、会議室の椅子の上だった。
夢の中の地下室で、報告書を開いた。
第八章。首都圏の計画停電、八十一日。
第九章。先島諸島の避難未完了者、約五万九千名。
その数字が、ゆっくりと揺れていた。
揺れながら、変わらなかった。
まだ、だ。
まだ俺は、島の人たちのために何もしていない。屋根と、ガスと、発電所。どれも大事だ。でも、母を島から連れ出す方法は、まだ一行も書けていない。
目を覚ますと、早瀬が俺の肩を揺すっていた。
「砂川さん、起きてください。局長が、もう来てます」
「……今、何時ですか」
「八時です。三枚、印刷しておきました」
早瀬は、紙の束を差し出した。
俺は、それを受け取って立ち上がった。
開戦まで、あと二千五百九十四日。




