第14話 ガスは貯められない
一月の東京湾は、風が冷たかった。
埋め立て地の先端に、白く巨大な円筒が並んでいる。高さは五十メートル近く、直径はその倍。一つひとつが、小さな町の体育館をいくつも飲み込めそうな大きさだった。
「あれ全部、ガスのタンクです」
隣で、資源エネルギー庁の小野寺が言った。
二十六歳。検討チームに加わったエネルギー庁の若手で、液化天然ガスの調達の担当だった。眼鏡を何度もずり上げる癖がある。
「中に入ってるのは、マイナス百六十二度まで冷やした液体です。冷やすと、体積が六百分の一になる。だから船で運べるし、タンクにもためられる」
「どれくらい、ためられるんですか」
「この基地だけで、だいたい一週間分くらいですかね。首都圏の発電所で使う分の」
一週間。
俺は、白いタンクの列を見上げた。
この日、検討チームの三人は、湾岸のLNG基地を見学に来ていた。
俺と、早瀬と、小野寺。電力会社の担当者が、案内をしてくれた。
「よく誤解されるんですが」
制御室の大きな窓の前で、担当者が言った。五十代の、穏やかな男だった。
「液化天然ガスは、石油のようには貯められません。タンクは魔法瓶のようなものですが、それでも外から少しずつ熱が入ってくる。熱が入れば、液体の一部が気化して、ガスに戻ります。それを、ボイルオフと呼んでいます」
「気化したガスは、どうするんですか」
「発電所で燃やします。使わなければ、タンクの中の圧力が上がりすぎるので。つまり、ためておいても、少しずつ使い続けなければならないんです」
担当者は、窓の外のタンクを指さした。
「何か月分も、ためておくことはできません。ためておけるのは、次の船が来るまでの分だけ。日本中どこの基地でも、だいたい二週間分くらいです。それ以上は、物理的にも、費用的にも、難しい」
報告書の第八章に、同じことを書いた。
――LNGは長期の備蓄に適さず、開戦時の在庫は約二週間分にすぎなかった。
書いたのは知識としてだった。ここに来て、初めて実感した。マイナス百六十二度の液体は、置いておくだけで逃げていく。
「じゃあ、どうすればいいんでしょう」
帰りの電車の中で、早瀬がぽつりと言った。
「ためられないものを、どうやって備えるのか」
「方法は、いくつかあります」
小野寺が、眼鏡をずり上げながら言った。
「一つは、船を在庫にすることです。液化天然ガスを積んだ船を、海の上で待機させておく。タンクの代わりに、船に貯めておくんです」
「船を、ずっと待たせておくんですか」
「待たせておくと、お金がかかります。船を借りる料金が一日で何百万円もするので。だから、平時は普通に売り買いをしながら、何隻かを常に日本の近くに回しておく。いざというときは、それを日本に入れる」
「なるほど」
「もう一つは、国が余分に買っておくことです」
小野寺は、手帳を開いた。
「電力会社は、自分の会社で使う分しか買いません。余分に買っても、売れなければ損をするので。だから、国が電力会社に頼んで、毎月少しだけ余分に買ってもらう。使わなかった分は、海外に転売する。損が出たら、国がその一部を補填する」
「国が、商社みたいなことをするんですか」
「そうです。だから、財務省が嫌がります」
小野寺は、苦笑いした。
「それに、どっちも、根本的な解決にはなりません。船の在庫も、余分に買った分も、せいぜい数日分を上乗せできるだけです。二週間が、三週間になるくらい」
電車の窓の外を、冬の湾岸の景色が流れていった。
工場の煙突。倉庫の屋根。積み上げられたコンテナ。
俺は、その中に、黒い山を見つけた。
石炭の山だった。発電所の敷地の中に、小高い丘のように積み上げられている。
「小野寺さん」
「はい」
「石炭は、どれくらい貯められるんですか」
小野寺は、きょとんとした顔をした。
「石炭ですか? 石炭は……屋外に積んでおけますからね。発電所によりますけど、一か月分とか、それ以上とか。自然発火に気をつければ、液化天然ガスよりずっと長く置いておけます」
「じゃあ」
俺は、窓の外の黒い山を指さした。
「ガスが来なくなったとき、石炭で代わりに発電することはできますか」
「できる発電所なら、できます。でも」
小野寺は、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「石炭の発電所は、二酸化炭素をたくさん出すので、今、どんどん減らしている最中なんです。古い発電所から順番に止めて、廃止していく。国の方針として」
「止めた発電所は、どうなるんですか」
「解体されます。止めたまま置いておいても、維持費がかかるだけなので」
早瀬が、こちらを見た。
「砂川さん、まさか」
「止めるのは、いいと思います」
俺は言った。
「でも、解体するのを、少しだけ待ってもらうことはできないでしょうか。いざというときに、もう一度動かせる状態で、何年か置いておく」
「休止させたまま、維持しておくってことですか」
小野寺が、手帳に何かを書きつけた。
「それ、実はエネルギー庁の中でも議論があるんです。夏や冬の電力が足りなくなったときのために、古い発電所をすぐには解体せずに残しておいたほうがいいんじゃないか、って。ただ、環境の観点から反対する人も多いし、維持費を誰が払うのかで揉めてて」
「維持費は、どれくらいですか」
「一つの発電所で、年に数億円とか。止めてるだけなのに」
「数億円」
俺は、その数字を頭の中で並べた。
首都圏の計画停電、八十七日。一日四時間、地域を輪番で。その間に、何が起きたか。
病院の非常用電源が足りなくなった。工場は止まり、店は閉まり、信号が消えた交差点で事故が増えた。夏の暑さの中で、冷房が使えなくなった高齢者が倒れた。
報告書の第八章に、その損失の総額を書いた。何兆円という単位だった。
「ガスは貯められない」
俺は、窓の外を見ながら言った。
「でも、石炭は貯められる。動かせる発電所も、残しておける。ガスの代わりになるものを、ガスと別の形で取っておく。それなら、できるかもしれない」
「二酸化炭素の問題は、どうするんですか」
早瀬が聞いた。
「平時は、動かさない。それなら、二酸化炭素は出ません。いざというときだけ、短い期間だけ動かす。その間は、環境よりも、人が倒れないことを優先する。それを、前もって決めておくんです」
「前もって決めておく、か」
小野寺が、眼鏡をずり上げた。
「それなら、通るかもしれません。『休止電源の維持』っていう名前で、夏や冬の電力不足への備えとして。戦争の話は、しなくていい」
「はい。災害の備え、でいいです」
奥寺の顔が浮かんだ。『等』の一文字。
電車が、終点の駅に着いた。
ホームに降りると、小野寺が言った。
「砂川さん。一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なんで、そこまで具体的に考えてるんですか。まるで、本当にガスが止まる日が来るって、知ってるみたいに」
早瀬が、ちらりとこちらを見た。
去年、同じことを早瀬にも聞かれた。答えは、まだ誰にも言っていない。
「知ってるわけじゃありません」
俺は言った。
「ただ、来なかったら、それでいいと思ってます。来なかったときに、無駄な準備をしたと笑われるほうが、来たときに何も準備してなかったと泣くより、ずっといいので」
小野寺は、少し考えてから、うなずいた。
「それ、上司を説得するときに使ってもいいですか」
「どうぞ」
その夜、官舎の机で、ノートを開いた。
〈報告書に書いていないこと〉の項目に、二行目を書き足した。
〈休止中の石炭火力発電所は、開戦前の数年間に多くが解体された。
残っていれば、計画停電の日数を減らせた可能性〉
報告書の第八章には、休止電源の話は一行もなかった。俺は、ガスが来なかったことばかり書いて、ガスの代わりに何があり得たかを書かなかった。
眠りに落ちると、地下室にいた。
第八章を開く。
首都圏の計画停電は八十一日続いた。
六日、減っていた。
八十七が、八十一に。
俺は、その数字を指でなぞった。
六日分、病院の電気が止まらなかった。六日分、信号が消えなかった。六日分、どこかの部屋で、誰かが冷房の下で眠れた。
小野寺は、たぶん明日、上司にあの話をする。上司は、たぶん渋い顔をする。それでも、紙が一枚残れば、何年か後に、どこかの発電所の解体が一年延びる。
その一年が、六日になる。
開戦まで、あと二千六百二十九日。




