第13話 船員のいない船
十一月の第三木曜日、「海上交通途絶シナリオ検討」の最初の会合が開かれた。
会議室の扉には、「秘」と書かれた紙が貼ってあった。
「最初に、決めておきたいことがあります」
会合が始まる前、俺は桐生にそう申し出た。
「この検討の資料は、すべて秘密の指定にしてください。持ち出しは禁止。コピーには番号を振る。会合の記録も、要点だけを残す」
桐生は、眼鏡の奥の目をわずかに細めた。
「週刊誌の件ですか」
「それもあります。でも、それだけではありません」
十月の説明会のことは、言えなかった。東に回り込んだ八機の編隊。それが、あの記事のせいだと俺が思っていることも。
「相手に知られた対策は、半分しか効きません。知られなければ、全部効きます」
桐生は、しばらく黙っていた。
「分かりました。指定の手続きは、私がやります」
それから、少しだけ口の端を上げた。
「砂川さん。あなた、半年前より慎重になりましたね」
「……鏡を見たので」
「鏡?」
「いえ。何でもありません」
会議室には、五人が集まった。
俺と、早瀬と、桐生。それに、各省から一人ずつ借りてきた二人。
一人は、資源エネルギー庁から来た若手で、液化天然ガスの調達の担当だった。もう一人は、国土交通省の海事局から来た女性だった。
「戸田です。海事局で、外航海運の担当をしています」
四十歳くらいだろうか。日に焼けた顔に、短い髪。役人というより、港の現場の人のような雰囲気だった。
「正直に言うと、何の会議か分からないまま来ました。上司に『国家安全保障局から、海運に詳しい人を一人』と言われて、なんで私が、と」
「すみません、急にお呼び立てして」
早瀬が頭を下げた。
「資料、事前にお送りしたものは」
「読みました。三回」
戸田は、手元の紙を指で叩いた。南西の海で船舶への妨害が起きた場合の、経済影響の試算だ。
「よくできてます。保険の話も、ちゃんと書いてある。ただ」
戸田は、顔を上げた。
「一つ、大事なことが抜けてます」
会議室の空気が、少し張り詰めた。
「保険が止まって船が出られなくなる。それは正しいです。でも、仮に保険を国が肩代わりして、船を出せる状態にしたとしても」
戸田は、一本の指を立てた。
「乗る人がいません」
「……乗る人、ですか」
俺は、思わず聞き返した。
「日本の海運会社が動かしている外航船は、二千隻を超えます」
戸田は、ゆっくりと説明を始めた。
「そのうち、日本の国籍の船は一割ちょっと。残りは、パナマやリベリアなど、外国に籍を置いた船です。税金や規制の関係で、そのほうが安いので。そして、乗組員の大部分は、フィリピンをはじめとする外国人の船員です。日本人の船員は、船長や機関長のような幹部を中心に、ごく一部しかいません」
「……」
「外国人の船員の多くは、国際的な労働協約で守られています。戦争や、それに近い危険がある海域に入るとき、船員は乗船を拒否できる。拒否した場合、会社の負担で母国に帰してもらえる。そういう取り決めになっているんです」
戸田は、試算の資料の三枚目を指さした。
「南西の海が危険な海域に指定されたら、その海を通る船の船員は、乗るのを拒否できます。日本に向かう船も、たぶん同じです。保険があっても、船員がいなければ、船は動きません」
俺は、何も言えなかった。
報告書の第八章。エネルギー。
――南西海域における船舶への妨害の開始後、海上保険の引き受けが停止され、日本向けのタンカーの多くが航路を変更するか、配船を見合わせた。
配船を見合わせた。
俺は、それを保険の問題だと書いた。保険が止まったから、船が来なかった。そう理解していた。
でも、本当にそれだけだったのか。保険以外の理由で、来られなかった船が、何隻あったのか。
報告書には、書いていない。俺は、それを調べなかった。調べるべきだということに、気づきさえしなかった。
俺の知っていることには、穴がある。
当たり前のことだった。俺は、全部を見たわけではない。報告書は三千ページあったが、それでも、この国で起きたことの全部ではなかった。
「砂川さん?」
早瀬が、小声で呼んだ。
「……すみません。続けてください、戸田さん」
「はい」
戸田は、少しだけ声を和らげた。
「責めているわけじゃないんです。この話、海運の業界の中でも、ほとんど議論されていません。中東の海で船が攻撃されたことは何度もありますが、そのたびに、船員が乗るのを嫌がって、会社が手当てを上乗せして、なんとか回してきた。でも、それは遠い海の話だったからです」
「日本のすぐ近くの海が、そうなったら」
「上乗せの手当てでは、たぶん足りません。船員にも、家族がいますから」
エネルギー庁から来た若手が、手を上げた。
「あの、それって、どれくらいの影響が出るんでしょうか。液化天然ガスの船は、特殊な船なので、乗組員も限られていて」
「分かりません」
戸田は、正直に答えた。
「誰も、数えたことがないので」
会合のあと、俺は戸田を廊下で呼び止めた。
「戸田さん。今の話、もっと詳しく伺えませんか」
「いいですよ。というか、私もそのつもりでした」
戸田は、肩をすくめた。
「三回読んだって言ったでしょう。三回目で、これは誰かが本気で考えてる紙だなと思ったんです。だったら、穴は埋めておかないと」
「どうすれば、埋められると思いますか」
戸田は、窓の外を見た。十一月の永田町は、もう日が落ちかけていた。
「日本人の船員を増やすのは、時間がかかります。船員の学校を出て、一人前になるまで十年。今から始めても、間に合うかどうか」
十年。
開戦まで、あと七年と少しだった。
「現実的なのは、二つです」
戸田は、指を二本立てた。
「一つは、日本の国籍の船を、いざというときに国が動かせるようにしておくこと。平時から、そういう船を一定の数、確保しておく。乗組員も含めて」
「もう一つは」
「外国人の船員でも、乗ってくれる条件を作ること。危険な海域に入るときの手当てと、万が一のときの補償。それを、海運会社まかせではなく、国が保証する。船員が『この国の船なら、何かあっても家族が守られる』と思えるように」
戸田は、少し笑った。
「どっちも、お金がかかります。財務省が卒倒しますね」
「卒倒させない言い方を、考えます」
「言い方?」
「はい。言い方で、通る紙と通らない紙があるので」
戸田は、変な顔をして俺を見た。
「あなた、本当に入省三年目?」
「よく言われます」
その夜、官舎の机で、俺はノートを開いた。
ルールの三つ目の下に、新しい項目を作った。
〈報告書に書いていないこと〉
その下に、一行目を書いた。
〈外航船の乗組員の大部分は外国人。危険海域では乗船を拒否できる。
開戦後、タンカーが来なかったのは、保険だけが理由ではなかった可能性〉
書きながら、背筋が冷たくなった。
俺は、未来を知っているつもりだった。でも、知っているのは、自分が報告書に書いたことだけだ。書かなかったこと、気づかなかったことは、知らないのと同じだった。
そして、この世界線は、もう元の世界線と同じではない。相手は、分散した飛行場を攻撃する訓練を始めている。俺の知らないことは、これからもっと増えていく。
だから、人が要る。
戸田のように、俺の知らないことを知っている人が。早瀬のように、俺の言うことを紙にしてくれる人が。三好のように、名前を貸してくれる人が。
眠りに落ちると、地下室にいた。
報告書の第八章を開く。
首都圏の計画停電は八十七日続いた。
その数字が、揺れていた。
八の字が滲み、七の字が滲み、また戻る。初めて揺れる数字だった。
俺は、第八章の別のページをめくった。
――南西海域における船舶への妨害の開始後、海上保険の引き受けが停止され、日本向けのタンカーの多くが航路を変更するか、配船を見合わせた。
その一文の後ろに、薄い文字で、もう一文が浮かびかけていた。
まだ読めないほど、薄い文字だった。
でも、そこに何かが書かれようとしていることだけは、分かった。
開戦まで、あと二千六百九十二日。




