第17話 三文書
十二月十六日、金曜日。
午後の閣議で、三つの文書が決定された。
国家安全保障戦略。国家防衛戦略。防衛力整備計画。
この国の安全保障の方針を、十年ぶりに書き直した文書だった。
ニュースは、防衛費を大きく増やすこと、相手の基地を攻撃できる能力を持つことを、大きく報じた。賛成と反対の声が、テレビの中で交互に流れた。
俺は、経済班の自分の席で、決定された文書の本文を開いていた。
国家安全保障戦略。三十数ページ。
探していたのは、全部で四つの文だった。
この半年、俺はこの文書を作る作業の、一番下にいた。
国家安全保障局は、各省から上がってくる意見を集め、文案を作り、また各省に戻す。それを、何十回も繰り返す。一つの言葉を入れるか入れないかで、何日も揉める。
経済班の担当は、経済安全保障とエネルギーの部分だった。俺はそこに、検討チームで一年半かけて整理してきたことを、少しずつ差し込もうとしてきた。
大半は、削られた。
残ったのは、四つだった。
一つ目は、エネルギーの章にあった。
――エネルギーの安定供給の確保に向け、平時からの供給源の多角化に加え、液化天然ガスの戦略的な余剰の確保等を進める。
小野寺の顔が浮かんだ。
国が余分に買って、使わなければ海外に売る。その仕組みは、この半年でエネルギー庁の中で形になり始めていた。来年の冬から、試しに始まる。
二つ目は、その少し後ろにあった。
――電力需給の逼迫等に備え、休止電源の維持・活用を含む供給力の確保策を講じる。
『等』が、ここにも入っていた。
奥寺なら、何と言うだろう。
三つ目は、海上輸送の部分だった。
――有事における海上輸送の確保のため、船舶及び船員の確保、並びに海上保険等に関する方策を検討する。
「船員」という二文字を入れるために、二か月かかった。
国土交通省の担当者は、最初、その言葉を嫌がった。業界との調整がまだできていない、と。戸田が、海事局の中で何度も上司を説得してくれた。最後に、彼女は電話でこう言った。
〈入れて。入れないと、十年後に誰も思い出せないから〉
そして、四つ目。
俺は、本文の後半、国民の保護に関する部分を開いた。
この文を入れるために、半年かかった。
――南西地域を含む住民の避難について、武力攻撃予測事態の認定前の段階においても、住民の自主的な避難を円滑に行うための方策を検討する。
武力攻撃予測事態の認定前。
その言葉を、俺は指でなぞった。
元の世界線で、先島諸島の避難が始まったのは、予測事態の認定の翌日だった。三月三十日に認定され、三十一日に避難が始まり、四月二日に攻撃が来た。
六日間の計画は、三日目で終わった。
認定がもっと早ければ、と報告書には書いた。でも、認定を早めることは、ほとんど不可能だった。予測事態の認定は、国が「戦争が近い」と公式に宣言することだ。それ自体が、相手を刺激する。だから、政府は最後の最後まで認定をためらう。元の世界線でも、そうだった。
だったら、認定を待たずに動ける仕組みを作るしかない。
国が「逃げろ」と命じるのではなく、住民が自分で「逃げよう」と決めたとき、それを支える仕組み。船や飛行機の席を、自主的に避難する人のために確保しておく。避難先の宿や食事を、国が負担する。仕事を休んでも、補償が出る。
帰ってくるための、避難。
この一文を入れるのに、俺は内閣官房の国民保護の担当と、総務省の消防庁と、内閣法制局の参事官を、何十回も訪ねた。
法制局の参事官は、最後まで渋い顔をしていた。
「予測事態の認定前に、国が避難を支援する。それは、法律の想定にない」
「だから、『検討する』です」
「検討して、法律を変えるつもりですか」
「必要なら」
「……砂川さん、でしたか。防衛省の、入省四年目」
「はい」
「あなた、何年先のことを考えて、この一文を入れようとしているんですか」
七年です、とは言えなかった。
「この文書は、十年の方針ですよね」
俺は言った。
「だったら、十年以内に起きるかもしれないことは、全部書いておくべきだと思います」
参事官は、しばらく黙っていた。
そして、赤ペンで、文案の一か所を直した。
「支援する」を、「円滑に行うための方策を検討する」に。
「これなら、通します」
参事官は言った。
「法律を変えるかどうかは、検討の結果次第。でも、検討すること自体は、国の方針になる。それで十分でしょう」
閣議決定の日の夕方、スマートフォンに一通のメッセージが届いた。
差出人は、奥寺だった。
今は、防衛政策局の課長になっている。
〈三文書、読んだよ。
施設の強靱化の予算、来年から桁が変わる。久住さんの屋根、十年で全部の基地に行き渡る計算になった。
「等」はもう要らないね。
正面から書けるようになった。
でも、きみはたぶん、また別の「等」を探してるんだろうけど〉
俺は、メッセージを二回読んだ。
それから、返信を打った。
〈はい。避難の章に、一つ見つけました〉
夜、検討チームの四人で、庁舎の近くの居酒屋に入った。
俺と、早瀬と、小野寺と、戸田。桐生は、閣議決定の後始末で来られなかった。
「四つ、残りましたね」
早瀬が、ビールのジョッキを掲げた。
「四つも、ですよ。最初の案から数えたら、四十は削られたのに」
「四十のうち、四つ」
小野寺が、眼鏡をずり上げた。
「打率一割ですね」
「野球なら二軍落ちだね」
戸田が笑った。
「でも、文書に残った。残ったものは、十年消えない。法律じゃないから、誰かを縛るわけじゃないけど、誰かが何かを始めるときの根拠になる」
「根拠」
「そう。役所はね、根拠がないと動けないけど、根拠があれば、どんなに小さくても動ける。それがいいところでもあり、悪いところでもある」
ジョッキを合わせる音が、店の喧騒の中に消えていった。
俺は、三人の顔を見回した。
二年前、俺は一人だった。報告書の数字を頭に抱えて、何をすればいいのかも分からないまま、入省式の会場に座っていた。
今は、四人いる。その向こうに、三好がいて、奥寺がいて、鳴海がいて、久住がいて、柚木がいる。
「砂川さん、何にやにやしてるんですか」
「してません」
「してますよ」
早瀬が、俺の顔を覗き込んだ。
「珍しい。砂川さんが笑ってるの、初めて見たかも」
その夜の夢で、報告書を開いた。
第九章。避難および国民保護。
先島諸島 避難未完了者 約五万五千名
四千人、減っていた。
五万九千から、五万五千へ。
俺は、そのページの別の箇所に目を移した。
見覚えのない段落が、一つ加わっていた。
――二〇二二年の国家安全保障戦略において、武力攻撃予測事態の認定前の自主的な避難を円滑に行う方策の検討が明記された。これを受けて、一部の住民は認定前に島外へ移動した。ただし、その数は限られ、制度の整備は開戦時点でも途上にあった。
一部の住民。
限られた数。
途上。
俺は、付属資料の名簿を開いた。
先島諸島の欄。「す」の行。
砂川早苗。砂川美月。
二つの名前は、何も変わらずに、そこにあった。
四千人が、島を出た。
でも、母はその中にいない。
開戦まで、あと二千二百九十九日。




