第12話 鏡の向こう
十月四日、月曜日。午前十時。
国家安全保障局の会議室で、週に一度の情報の説明会が開かれていた。
防衛省の情報本部から来た分析官が、前方の画面に地図を映している。台湾を中心に、周りの海と空。赤い線と点が、細かく書き込まれていた。
「――以上のように、昨日までの四日間で、中国軍機による台湾の防空識別圏への進入は、合計で百四十機を超えています。特に昨日は、一日で五十六機。過去最多です」
知っていた。
二〇二一年の十月。中国の建国記念日の連休に合わせて、大量の軍用機が台湾の周りを飛んだ。五十六という数字も、覚えていた。元の世界線で、俺はこのニュースを防衛省の自分の席で見ていた。
ここまでは、同じだった。
「次に、昨日の飛行経路の詳細です」
分析官が、画面を切り替えた。
「多くの機体は、これまでと同じく、台湾の南西の空域を飛行しました。ただし、一部に、これまで確認されていない動きがありました」
画面に、一本の赤い線が浮かび上がった。
台湾の南を回り込み、東へ抜け、それから北東へ。与那国島の南の空域をかすめるように飛び、また南へ戻っていく。
「爆撃機を含む八機の編隊です。この経路は、台湾の東側から攻撃を行う訓練と見られます。さらに、この編隊は飛行中、通信の一部で、ある種の目標を想定した模擬攻撃の手順を確認していた可能性があります」
「目標とは」
桐生が聞いた。
「断定はできません。ただ、飛行の経路と高度の変化から推測すると、地上の飛行場を想定したものではないかと」
分析官は、少しだけ間を置いた。
「それも、一か所の飛行場ではなく、複数の、分散した飛行場を順番に攻撃する手順を確認していたように見えます」
背中に、冷たいものが走った。
この編隊は、元の世界線にはいなかった。
俺の記憶では、五十六機は全部、台湾の南西を飛んだ。東に回り込む爆撃機の編隊はなかった。分散した飛行場を順番に攻撃する訓練も、なかった。
少なくとも、この時期には。
報告書の第四章。中国軍の作戦。
――開戦時の中国軍の攻撃は、日本の主要な航空基地に集中していた。分散した小規模な飛行場への体系的な攻撃は、開戦から五日目以降に初めて確認された。
五日目以降。
つまり、元の世界線の中国軍は、日本の機体が分散することを、最初は想定していなかった。分散を見てから、慌てて攻撃の範囲を広げた。だから、最初の五日間に分散した機体は生き残った。
この世界線では、違う。
二〇二一年の時点で、もう分散した飛行場を攻撃する訓練をしている。
なぜだ。
答えは、すぐに浮かんだ。
週刊誌だ。
一月に出た、あの記事。『敵に弾を数えさせろ』。日本の防衛省の若手が、航空基地の屋根と分散を検討している。おとりを置いて、相手のミサイルを消費させる。
あの記事は、日本語で書かれていた。日本の誰でも読めた。
ということは、海の向こうの誰でも読めた。
「砂川さん?」
隣の席の早瀬が、小声で俺を呼んだ。
「顔色、悪いですよ」
「……大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
俺は、自分の手で、相手に教えてしまったのだ。日本がこれから何をしようとしているのかを。
説明会が終わり、会議室から人が出ていく。
俺は、しばらく席を立てなかった。
「失礼。砂川さん、でしたか」
声をかけられて、顔を上げた。
さっきまで画面の前で説明をしていた分析官だった。三十代の半ば。細身で、飾り気のない紺のスーツ。胸の名札には、「情報本部 柚木」とあった。
「さっきの説明の途中で、あなたの顔色が変わったのが見えました。爆撃機の編隊のところで」
「……」
「ほかの方は、五十六機という数字のところで反応していました。過去最多、と言ったところで。あなただけは、そこでは何の反応もなかった。まるで、知っていたみたいに」
柚木は、表情を変えずに続けた。
「そして、東に回り込む編隊のところで、初めて顔色が変わった。まるで、そこだけが予想と違った、というように」
喉が、からからに乾いた。
「分析官の方は、聞いている人の顔まで分析するんですね」
「職業病です」
柚木は、少しだけ口元を緩めた。
「失礼しました。ただの興味です。防衛省から出向されている方だと伺いました。週刊誌の件の、ご本人だとも」
「……はい」
「あの記事、うちの部署でも話題になりました。いい考え方だと思った人間と、外に出すべきではなかったと思った人間と、半々でした」
「柚木さんは、どちらですか」
「両方です」
柚木は、手に持っていた資料のファイルを小脇に抱え直した。
「考え方は正しい。でも、正しい考え方ほど、相手にも正しく伝わる。相手も、同じように正しく対応してくる。鏡みたいなものです」
柚木は、軽く会釈をした。
「またお会いするかもしれません。この説明会は、毎週ありますので」
柚木が出ていったあと、俺は一人で会議室に残った。
鏡。
その言葉が、頭の中で何度も響いた。
俺がやってきたことは、すべて鏡に映っている。
屋根を作れば、相手は屋根の数だけ弾を用意する。分散させれば、相手は分散先を全部調べる。おとりを置けば、相手はおとりを見分ける方法を考える。
元の世界線で、相手が五日目まで分散を想定していなかったのは、日本が何も準備していなかったからだ。準備していないものは、警戒されない。
俺は、それを壊してしまった。
その夜、官舎に帰ってから、俺はノートを開いた。
ルールの三つ目。使った結果、何が変わったかを必ず記録する。
〈十月四日。情報本部の説明。中国軍機、一日五十六機(記憶どおり)。
ただし、東から回り込む爆撃機の編隊(記憶にない)。分散した飛行場への攻撃を想定した訓練の可能性。
原因の推定:一月の週刊誌記事。
情報本部の柚木という分析官に、反応を見られた〉
書き終えてから、俺はペンを置いた。
相手が変わったなら、こちらも変わらなければならない。屋根と分散だけでは、もう足りない。相手が分散先を全部調べるなら、調べられない分散先を作るしかない。相手がおとりを見分けるなら、見分けられないおとりを作るしかない。
そして何より。
これからは、紙に書くことも、口に出すことも、もっと慎重にしなければならない。
眠りに落ちると、地下室にいた。
報告書を開くのが、初めて怖かった。
第五章。防衛。
航空自衛隊 航空機損失 百十四機
(うち開戦後七十二時間以内の地上損失 七十七機)
二機、増えていた。
百十二から、百十四へ。
俺は、その数字をじっと見つめた。
減らすだけではない。増えることもある。俺が何かをすれば、相手も何かをする。それが、歴史を変えるということだった。
付属資料を開く。航空自衛隊の欄、上から十二番目。
鳴海浩一。
その名前は、前よりも少しだけ濃くなっていた。
目を覚ますと、まだ夜中の三時だった。
俺は布団から出て、窓を開けた。十月の夜の空気は、少しだけ冷たかった。
遠くに、官邸の明かりが見えた。
この国で、いちばん遅くまで明かりがついている建物の一つだ。
相手は、鏡の向こうにいる。
俺がこちらで何かをすれば、鏡の向こうでも誰かが何かをする。
だとしたら、鏡に映らないように動くしかない。
開戦まで、あと二千七百三十七日。




