第11話 出向
四月一日。
入省式の日から、ちょうど二年が経った朝だった。
俺は、防衛省ではなく、永田町の庁舎にいた。
首相官邸に隣接する建物の、セキュリティゲートを三つくぐった先。内閣官房、国家安全保障局。
辞令は、三月の終わりに突然出た。
出向。期間は二年。担当は、経済班。
「ほとぼりを冷ますには、外に出るのが一番だから」
内示の日、奥寺はそう言った。
「それに、国家安全保障局の経済班は、去年できたばかりの部署でね。各省から人を集めてるけど、防衛省からの若手はまだいない。きみの書くような紙を、面白がる人もいるかもしれない」
「奥寺さんが、推薦してくださったんですか」
「僕は、人事課に『砂川くんは本省にいると目立つので、どこかに出したほうがいいですよ』と言っただけ」
奥寺は、赤ペンをくるりと回した。
「推薦したのは、経産省の早瀬くんだよ。経済班に出向してる彼が、『防衛省から一人、話の通じる人を』って、うちの局に頼んできたらしい」
早瀬は、エレベーターホールで待っていた。
画面越しにしか話したことがなかったが、すぐに分かった。思っていたより背が高く、思っていたより疲れた顔をしていた。
「砂川さん。ようこそ、地獄へ」
「地獄なんですか」
「この部署、去年できたばかりなんですよ。人は足りない、仕事は増える、各省との調整は毎日揉める。でも」
早瀬は、手に持っていたクリアファイルを差し出した。中に、一枚の紙が入っていた。破いたノートの一ページだった。
〈二〇二一年 自動車 半導体不足で減産 → 当たったら砂川さんの話を聞く〉
「約束、まだ有効なので。ここなら、話を聞くだけじゃなくて、紙にできます」
経済班の島は、窓際の一角にあった。
机が八つ。外務省、財務省、経産省、警察庁、そして防衛省。出身の違う若手が、肩を寄せ合って座っている。
班をまとめているのは、外務省から来た参事官の桐生だった。四十代の前半で、細い銀縁の眼鏡をかけている。ほとんど表情を変えずに話す人だった。
「砂川さん。防衛省から伺っています。週刊誌の件も」
初日の挨拶で、桐生はいきなりそう言った。
「……ご迷惑をおかけしないようにします」
「迷惑かどうかは、仕事の中身で判断します。記事の中身は、読みました。言葉の選び方が下手だっただけで、考え方は間違っていないと思います」
桐生は、それ以上その話をしなかった。
この部署の仕事は、新しい法律の準備だった。
経済の分野で、国の安全を守るための法律。半導体や医薬品のような大事な物資の供給網を強くする。電気や通信のような重要なインフラを守る。先端技術を育て、外に流出させない。
翌年の国会に出すことを目指して、各省の意見を集め、条文の骨組みを作っていく。
俺は、その法律を知っていた。
二〇二二年の五月に成立する。元の世界線でも、成立した。そして報告書の第十三章に、俺はこう書いた。
――経済安全保障に関する法律の整備は、半導体等の供給網強化に一定の成果を上げた。しかし、有事における海上輸送の途絶、特にエネルギーの輸入停止を想定した措置は、ほとんど盛り込まれなかった。
盛り込まれなかった。
なぜなら、法律を作っていた人たちは、感染症で供給網が止まった経験から考えていたからだ。工場が止まる。物流が乱れる。それは想定した。
海が止まることは、誰も想定しなかった。
五月の二週目、早瀬と二人で、桐生に時間をもらった。
小さな会議室で、俺は四枚の紙を配った。
『南西海域における海上交通途絶時の経済影響(試算)』
タイトルに、どこの国の名前も入れなかった。奥寺の教えだ。
「中身を説明します」
一枚目。日本が輸入する半導体の、およそ半分が台湾製であること。去年の減産は、世界的な需要の急増が原因だった。もし供給元そのものが止まれば、影響は桁が違う。
二枚目。電力会社が持つ液化天然ガスの在庫は、二週間分程度しかないこと。ガスは、石油のように何か月分もためておけない。冷やし続けなければ、気化して逃げていく。
三枚目。南西の海で船舶への妨害が起きれば、保険会社が船の保険を引き受けなくなる可能性があること。保険のない船は、港を出られない。その海を通らないタンカーでも、日本に向かうというだけで引き受けを断られるかもしれない。
四枚目。そうなった場合、日本の経済にどれくらいの損失が出るかの、ごく粗い試算。
「早瀬くんと、一か月かけて作りました」
桐生は、四枚を順番に読んだ。
読み終えてから、眼鏡を外して、レンズを拭いた。
「一つ聞きます」
「はい」
「これは、戦争の話ですね」
「はい」
「経済班で、戦争の話をする理由は」
俺は、少しだけ考えてから答えた。
「経済の安全保障で、一番大きな経済の危機は、戦争だからです」
桐生は、眼鏡をかけ直した。
「来年の法律に、これを全部入れることはできません」
「分かっています」
「法律は、各省の合意がなければ出せない。経産省は、海が止まる前提の制度を嫌がるでしょう。電力会社に余計な在庫を持たせれば、電気代が上がる。国土交通省は、海運業界への影響を気にする。財務省は、保険の肩代わりなんて言ったら卒倒する」
「……」
「だから、法律には入れません」
桐生は、四枚の紙を揃えて、机の端でとんとんと叩いた。
「その代わり、この班の中に、非公式の検討チームを作ります。名前は、そうですね。『海上交通途絶シナリオ検討』。メンバーは、砂川さんと早瀬くん。あとは必要に応じて、各省から一人ずつ借ります」
「……いいんですか」
「いいかどうかは、二年後に分かります」
桐生は、立ち上がりながら言った。
「法律は、一度できたら改正するのに何年もかかる。でも、検討した記録があれば、改正のときに使える。いつか誰かが『海が止まったらどうするんだ』と言い出したとき、『それなら、実はもう検討してあります』と言える。役所の仕事の半分は、それです」
会議室を出ると、早瀬が小さくガッツポーズをした。
「やりましたね」
「まだ、何もやってません」
「でも、チームができた。紙に名前が残る。これ、大きいですよ」
早瀬は、廊下の窓から国会議事堂のほうを見た。
「僕、ずっと思ってたんです。去年の減産のとき、もっと前から誰かが言ってくれてたら、って。砂川さんは、言ってくれた。だから、今度は僕が言う番です」
その夜の夢で、俺は報告書を開いた。
第八章。経済。
初年度の実質GDP、マイナス十一・八パーセント。
首都圏の計画停電、八十七日。
数字は、どれも変わっていなかった。
俺は、第十三章を開いた。平時の意思決定の問題。
何度も読み返した章だ。一字一句、覚えている。
そのはずだった。
――なお、二〇二一年より、内閣官房国家安全保障局において、南西海域の海上交通途絶を想定した経済影響の非公式な検討が行われていたことが確認されている。しかし、その検討結果が政策に反映されるまでには、相当の時間を要した。
見たことのない段落だった。
俺が書いた報告書に、俺の書いていない一文がある。
いや、違う。この世界線の俺が、いつか書くことになる一文だ。
「相当の時間を要した」。
その言葉を、俺は長いあいだ見つめていた。
間に合わなかった、とは書いていない。でも、間に合った、とも書いていない。
開戦まで、あと二千八百八十日。




