第9話 二本目の滑走路
十月の那覇は、まだ夏の名残があった。
空港の到着ロビーを出ると、湿った風が頬をなでる。観光客の姿は、去年の夏の半分もいなかった。マスクをした人たちが、少し間隔をあけて、タクシー乗り場に並んでいた。
「こっちだ」
鳴海が、駐車場の端に停めた白いワゴン車の前で手を上げた。
春の異動で、彼は空幕から那覇基地の第九航空団に移っていた。飛行群の副司令。現場に戻った、と本人は電話で嬉しそうに言っていた。
俺は、その異動を知っていた。元の世界線でも、彼は二〇二〇年の春に那覇へ戻った。そして、そこから一度本土の司令部に出たあと、二〇二七年にもう一度那覇へ戻り、飛行群司令になる。
「調査研究の現地確認、だったな」
「はい。分散先の候補地を、何か所か実際に見ておきたくて」
千五百万円の調査研究は、この春、民間の研究機関に発注された。報告書の締め切りは来年の秋だ。その中身の一部に、俺は「分散先候補となる飛行場の一覧」を入れてもらっていた。机の上の資料だけでは分からないことを、見ておく必要があった。
「まずは、うちの滑走路を見せてやる。乗れ」
那覇基地の中に入るのは、元の世界線を含めて、二度目だった。
一度目は二〇二九年の六月。停戦の一か月後、検証委員会の現地調査で来た。駐機場のコンクリートは、あちこちが黒く焼けて、えぐれていた。
ワゴン車は、基地の外周の道路をゆっくりと走った。
窓の外に、駐機場が見えた。灰色の戦闘機が、等間隔に並んでいる。整備員が数人、機体の下にもぐり込んで作業をしていた。
「あれが、うちの子たちだ」
鳴海は、運転しながら顎で示した。
「で、その向こう」
海側に、長い滑走路が二本、平行に伸びていた。
「今年の三月に、二本目ができた。旅客機は、だいたいあっちの新しいほうを使う。古いほうは、うちと民間の共用だ」
「一本から、二本になった」
「そうだ。一本が穴だらけになっても、もう一本がある。少なくとも、理屈の上ではな」
鳴海の声は、少しだけ皮肉っぽかった。
「二本とも、同じ海岸線の上に並んでる。間隔は千三百メートル。弾道ミサイルを撃つ側から見たら、二本も一本も、たいして変わらんだろう」
車は、駐機場の端に停まった。
鳴海はエンジンを切り、しばらく黙って機体の列を眺めていた。
「去年の勉強会のあと、俺はずっと考えてた」
「何をですか」
「警報が鳴ったら、どうするかだ」
鳴海は、前を向いたまま言った。
「司令部の人間は、地下の指揮所に降りることになってる。そこで状況を把握して、命令を出す。それが正しい手順だ。でも、俺はたぶん、降りない」
「……」
「駐機場に走る。一機でも多く上げるためにな。整備員を叩き起こして、パイロットを機体に押し込んで。指揮所で画面を見てるより、そっちのほうが性に合ってる」
喉が、ひりついた。
その言葉を、俺は報告書で読んでいた。正確には、彼の部下だった整備員の証言として。
――副司令は、警報が鳴った瞬間に、駐機場へ向かって走っていきました。止める間もなかった。
二〇二九年の、四月二日の朝のことだ。
「降りてください」
気づいたら、口に出していた。
鳴海が、こちらを向いた。
「何だって?」
「警報が鳴ったら、地下に降りてください。駐機場には、走らないでください」
「……おまえ、何を言ってる」
「一機を上げるために、司令が死んだら、残りの機体を誰が指揮するんですか」
声が、思ったより大きくなった。
鳴海は、目を細めて俺を見ていた。長い時間に感じた。
それから、ふっと笑った。
「新人に説教されるとはな」
「すみません」
「いや。正論だ。正論すぎて、腹も立たん」
鳴海は、ハンドルに腕を乗せた。
「だが、正論で動けるなら、誰も苦労しない。その瞬間になったら、俺はたぶん、また走る。人間ってのは、そういうもんだ」
「……」
「だから、走らなくて済むようにしてくれ」
鳴海は、駐機場の機体の列を指さした。
「全部が屋根の下に入ってて、どれが本物か分からなくて、半分は別の飛行場に散らばってる。そうなってりゃ、俺が走る理由はない。それを作るのが、おまえの仕事だろう」
その日の午後、鳴海の車で、沖縄本島の北部にある自衛隊の補助飛行場と、民間の小さな空港を二つ回った。
どこも、滑走路の長さが足りないか、燃料のタンクが小さすぎるか、周りに住宅が密集しているかのどれかだった。
「本島の中だけで分散させるのは、無理があるな」
帰りの車の中で、鳴海は言った。
「九州まで下げるしかない。そうなると、沖縄の空を守る機体が、沖縄にいなくなる。それはそれで、別の問題だ」
「分かっています。だから、一覧を作るんです。どこまでなら使えて、どこからは使えないのか。それを、平時のうちに全部はっきりさせておく」
翌日、俺は一人で宮古島に渡った。
調査の対象ではなかった。ただ、どうしても見ておきたい場所があった。
宮古島の西に、伊良部島という島がある。橋でつながったその島の、さらに西の端に、下地島という小さな島がくっついている。
下地島空港には、長さ三千メートルの滑走路がある。大型の旅客機が降りられる長さだ。もともとは、航空会社のパイロットが訓練に使うために造られた空港だった。
台湾までの距離は、那覇よりもずっと近い。
レンタカーを空港の外れに停めて、俺はフェンス越しに滑走路を見た。
海の上に突き出すように、真っ直ぐ伸びている。周りには、ほとんど何もない。エメラルド色の海と、白い砂浜と、風に揺れる草だけだった。
この滑走路を、自衛隊は使えない。
空港ができたとき、国と沖縄県の間で、軍事目的には使わないという約束が交わされた。その約束は、五十年近く守られてきた。島の人たちにとって、それは大事な約束だった。
元の世界線では、開戦の翌日、この滑走路の使用をめぐって国会が大荒れになった。
使わせろという声と、約束を守れという声。結局、何も決まらないまま、五日目に滑走路はミサイルで穴だらけになった。使ってもいない滑走路が、使えるかもしれないという理由だけで狙われた。
報告書の第十一章に、俺はそのことを書いた。どちらが正しかったのか、結論は書けなかった。
フェンスの前で、俺はノートを開いた。
分散先候補の一覧に、下地島空港の名前を書くかどうか。
書けば、一覧が外に漏れたとき、大きな騒ぎになる。島の人たちを、また政治の真ん中に引きずり出すことになる。
書かなければ、有事のとき、また何も決まらないまま五日が過ぎる。
俺は、一覧の一番下に、別の欄を作った。
『平時に使用を前提としない飛行場(有事に攻撃対象となりうる施設)』
そこに、下地島空港の名前を書いた。
使うための一覧ではない。使わないと決めた上で、狙われることを前提に、周りの住民をどう守るかを考えるための一覧だ。
その夜は、那覇に戻って美月と会った。
国際通りから一本入った、小さな沖縄料理の店だった。客は、俺たちのほかに一組しかいなかった。
「にいにい、元気そうじゃん」
美月は、ジョッキのオリオンビールを半分ほど一気に飲んだ。
「おまえこそ。仕事、どうだ」
「最悪」
あっけらかんと、美月は言った。
「春に入社して、研修が二週間で終わって、そのまま休業。夏にちょっとだけ再開して、また休業。給料は出てるけど、半分くらい。同期の三人は、もう辞めた」
「……おまえは、辞めなかったんだな」
「お母さんから、にいにいの伝言聞いたから」
美月は、焼いたグルクンの身をほぐしながら言った。
「『仕事が休みになっても、焦って辞めるな』って。最初は何言ってんのって思ったけど、本当に休みになったから、ちょっと怖くなって。で、辞めなかった。辞めた子たち、今、仕事探すのにすごく苦労してる」
「そうか」
「にいにいって、もしかして占い師?」
「防衛省の係員だよ」
「ふーん」
美月は、疑わしそうに目を細めた。それから、笑った。
「まあいいや。次は、宝くじの番号教えて」
その夜、ホテルの狭い部屋で、俺は夢を見た。
地下室。報告書。第五章。
航空自衛隊 航空機損失 百十二機
(うち開戦後七十二時間以内の地上損失 七十五機)
四機、減っていた。
一覧が、まだ一枚の紙にすぎない一覧が、何かを変えていた。
俺は付属資料を開いた。航空自衛隊の欄、上から十二番目。
鳴海浩一。
その名前は、前よりも少しだけ薄くなっていた。
開戦まで、あと三千八十三日。




