第99話 帰れない原点
八月二十九日(土) 午後八時四十分
アンコール2曲目の「はじまりの続き」が終わった。
拍手が鳴り止まなかった。
七人は一度、息を整えた。
苺がマイクを握った。
少し照れたように笑った。
「最後は——原点に、戻ります」
客席が反応した。
「え——まさか」
「デビュー曲——?」
期待のざわめきが広がった。
イントロが流れ始めた。
聞き覚えのある旋律。
一番最初の曲だった。
「ふわふわユメイロ宣言」。
七色のペンライトが一斉に揺れた。
古参のファンたちから、大きな歓声が上がった。
さくらが目を見開いた。
「デビュー曲——!」
一年前、初めてこの曲を聞いた日を思い出していた。
六人の輪郭さえ、まだはっきりしていなかった、あの頃を。
七人が、それぞれの位置に着いた。
デビュー当時と同じフォーメーション。
苺を中心に、六人が囲むように。
歌声が始まった。
苺の伸びやかな声。
デビュー当時から、ずっと変わらない、その明るさ。
普通ならここで、七人全員が笑う。
一番楽しい曲。
一番初々しい曲。
自分たちの原点を確かめる時間。
苺は笑っていた。
空も笑っていた。
向日葵は弾けるような笑顔だった。
若葉も珍しく大きな笑顔を見せていた。
杏は照れながらも笑っていた。
莉恋は歌いながら微笑んでいた。
だが——桃霞だけは。
笑えなかった。
ゆめいろシフォンのデビュー曲だった。
一番最初の曲。
まだ、ゆめいろシフォンを知らなかった頃の自分。
まだ感情を、ほとんど持たなかった頃の桃霞。
その曲を、今歌っている。
だが今の桃霞は、あの頃よりも。
もっと暗い顔をしていた。
(オーディションに合格した、あの日)
(何も、感じなかった)
(笑うことすら、できなかった)
(でも今は少しずつ、笑えるようになっていたのに)
新たにメンバーに加わった当時の桃霞は、感情がなかった。
だから笑えなかった。
それは欠落だった。
まだ育っていない、心の形だった。
だが、今の桃霞は違う。
感情はある。
だからこそ、笑えない。
(今は、違う)
(感じられるから)
(笑えない)
皮肉なことだった。
感情がなかったあの頃より。
感情を得た今の方が。
もっと重く、もっと暗く、笑顔から遠かった。
歌詞は明るかった。
「ふわふわ、ユメイロ」
「みんなと、一緒に」
「夢を、見よう」
その言葉一つ一つが、桃霞の中で空回りしていた。
客席は変わらず盛り上がっていた。
七色の光が、大きく揺れていた。
デビュー曲という特別さに、誰もが酔っていた。
莉恋は歌いながら、桃霞の横顔を見ていた。
六人の中で一番、その異変に気づいていた。
デビュー曲の明るさの中で。
桃霞だけが一人、取り残されているのが見えた。
(横浜アリーナの時より)
(今の方が、暗い)
莉恋の胸に、鋭い痛みが走った。
それは、体調不良ではなかった。
もっと根本的な何かが、変わってしまった証だった。
(もう、戻れないのかもしれない)
(前の桃霞には)
言葉にはできない予感だった。
だが莉恋の中で、確信に近づいていった。
苺も歌いながら、同じことを感じ取っていた。
あの日から、ずっと見てきた桃霞。
少しずつ感情を獲得していく、その過程を隣で見守ってきた。
ゆめいろシフォンの象徴のようなこの曲で。
桃霞は、笑えていない。
(どうしちゃったの)
苺の胸に、その思いが重く沈んだ。
歌はサビへ向かっていった。
七人の声が重なった。
美しいハーモニーだった。
客席は、最高潮の盛り上がりを見せていた。
デビュー曲での大合唱。
一万六千人の声が、七人の声と重なっていった。
その歓喜の中心で。
桃霞だけが。
一番最初の曲を歌いながら。
一番遠くへ来てしまった自分を、感じていた。
(あの日の私に)
(戻りたいわけじゃない)
心の中で静かに呟いた。
(でも、このままの私にも)
(なれない)
歌声は止まらなかった。
体は動き続けていた。
だが桃霞の顔だけは。
加入日から今日まで積み重ねてきた、すべての笑顔を。
まだ取り戻せずにいた。
曲が終わりに近づいていく。
七人の声が、最後のフレーズへ。
「ふわふわ、ユメイロ」
「これからも、一緒に」
七人が手を繋いだ。
デビュー曲の最後の演出だった。
桃霞も手を差し出した。
隣の莉恋と、苺の手を握った。
温かかった。
確かに温かかった。
だが、その温かさを感じながらも。
桃霞の顔には。
笑顔は、戻らなかった。
つづく…
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