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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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96/113

第96話 笑顔を忘れたアイドル

八月二十九日(土) 午後八時二十五分




暗転した。


歓声だけが、遠く響いていた。


七人が袖へ、駆け込んだ。




---




いつもならここで声が上がる。




「お疲れー!」


「今日、最高だった!」




肩を叩き合う。


汗を拭い合う。


そういう時間だった。




今日は——誰も、口を開かなかった。




桃霞は——一番最後に、袖へ入った。


歩き方は——普通だった。


呼吸も——乱れていなかった。


汗も——いつも通り、額に滲んでいた。




だが——笑っていなかった。




目だけが——違っていた。


どこを——見ているのか、わからない目だった。




焦点が——結ばれていないような。


そこに——いるのに、そこにいないような。




苺が——最初に、近づいた。




「桃霞ちゃん」




短く——呼んだ。




「はい」




返事は——あった。


普通の——声だった。




だが——そこに、何も乗っていなかった。


言葉の——形だけが、返ってきた。




苺は——そこで気づいた。




(さっきまでの——桃霞ちゃんじゃない)




背筋に——冷たいものが走った。




だが——何を、どう聞けばいいのか、わからなかった。




---




莉恋は——衣装の裾を握りしめたまま、桃霞を見ていた。




さっきまで——一緒に歌っていた。


守った——相手だった。




その——横顔に笑いかけたのは、つい数分前のことだった。




だが——今は。


近づけなかった。




理由は——わからなかった。


ただ——足が、動かなかった。




(怖い——)




初めて——抱く感情だった。


自分自身の中にその——感情が生まれたことに、莉恋は驚いた。




(私——桃霞を、怖いと思ってる)




信じられなかった。


だが——確かに、そうだった。




---




空が——ペットボトルを、差し出した。




「水——飲む?」




いつも通りの——優しい、声だった。




桃霞は——それを受け取った。




「ありがとうございます」




飲んだ。




キャップを——閉め、戻した。




すべてが——普通だった。


普通——すぎた。




だからこそ——余計に怖かった。




空は——そう感じた。


言葉には——できなかった。




ただ——ペットボトルを受け取った、その手を見つめていた。




---




向日葵が——空気を変えようとした。


いつもの——明るさで。




「アンコール——あるよ!頑張ろ、桃霞ちゃん!」




返事が——なかった。




向日葵の——笑顔が、止まった。


一瞬——どうすればいいのか、わからなくなった。


そのまま——立ち尽くした。




---




杏は——他の誰よりも早く、それに気づいていた。


運動神経に——優れた、杏だからこそわかる違和感。




桃霞の——立ち方。


重心の——置き方。


呼吸の——リズム。




すべてが——変わっていた。




(これは——戦う——人間の体だ)




杏の——直感が、そう告げていた。


普段の——桃霞とは、明らかに違う何か。




---




若葉は——分析しようとしていた。


だが——答えが出てこなかった。




人は——一瞬で変わらない。


そう——理論ではわかっていた。




なのに——桃霞は変わっていた。


その——矛盾が若葉の頭の中を、埋め尽くしていた。




---




スタッフたちも——同じだった。


誰も——声を、かけられなかった。




麻衣は——タブレットを握りしめたまま、動けなかった。




田中は——モニターの電源を切ることすら、忘れていた。




藤原は——腕を組んだまま、視線を逸らせずにいた。




エマは——一歩近づこうとして——止まった。




みんな——「大丈夫?」と、聞きたかった。


だが——言えなかった。


空気が——違っていた。


いつもの——桃霞にかける、言葉が通用しない空気だった。




---




その中で——ただ一人。


九条冴子だけが——違っていた。




全員の——視線が、桃霞に集まっている中。


九条だけは——腕時計を見ていた。




「アンコールまで——二分」




冷静な——声だった。




そして——桃霞へ、目を向けた。




「アイドルとしての——責任を果たして」




短く——告げた。




桃霞は——その言葉を、受け止めた。




「はい」




一秒——それだけの間だった。


返事だけが——返ってきた。




九条は——それ以上、何も言わなかった。


言葉に——ならない何かが、その沈黙の中にあった。




---




麻衣が——心配そうな目で九条を見た。




九条の——表情は変わらなかった。


冷たいまま——だった。




だが——その内側で、何かが鈍く軋んでいるのを。


麻衣だけが——微かに感じ取っていた。




誰も——止められなかった。




---




衣装替えが、あった。


いつもなら——笑いながら着替える。




「疲れたー」


「次、可愛い衣装だね」




そんな——軽口が飛び交う時間だった。




だが、今日は——違った。


衣擦れの——音だけが、静かな控室に響いていた。


誰も——喋らなかった。




桃霞だけが——機械のように、着替えていた。




正確な——動き。


無駄のない——動き。




まるで——感情を、持たない、人形のような。




莉恋は——それを、見ていられなかった。


思い切って——桃霞に近づいた。


小さな——声で囁いた。




「莉恋さん——ありがとうございました」




桃霞の方が——先に口を開いた。




莉恋は驚く。




「代わりに——歌って、もらって」




「うん」




莉恋は——短く答えた。


桃霞の——顔を見た。




暗かった。




「桃霞」




名前を——呼んだ。




「はい?」




「笑って」




桃霞は——一瞬、莉恋を見た。




その目に——戸惑いが浮かんだ。




「私——笑っていませんか?」




「――――」




莉恋は——答えられなかった。


答えを——探そうとして、見つからなかった。




ただ——桃霞のその問い自体が。


答えに——なっていた。




自分が——笑っているかどうかすら、わからなくなっている。


それが——今の桃霞だった。




---




ステージマネージャーの——声が、控室に響いた。




「アンコールです!」




---




歓声が——外から、微かに聞こえてきた。


一万六千人の——声が、まだ鳴り止んでいなかった。




「アンコール——!」


「アンコール——!」




---




七人が——袖へ並んだ。


いつもの——ルーティン。


拳を——合わせる儀式。




苺が——拳を、出した。




空も。


向日葵も。


若葉も。


杏も。


莉恋も。




桃霞も——拳を出した。




七つの——拳が重なった。


その中に——桃霞の拳もあった。


形の——上では、七人揃っていた。




だが——一人だけ。


笑っていなかった。




その——沈黙のまま。


七人は——再び、ステージへ向かった。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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