第96話 笑顔を忘れたアイドル
八月二十九日(土) 午後八時二十五分
暗転した。
歓声だけが、遠く響いていた。
七人が袖へ、駆け込んだ。
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いつもならここで声が上がる。
「お疲れー!」
「今日、最高だった!」
肩を叩き合う。
汗を拭い合う。
そういう時間だった。
今日は——誰も、口を開かなかった。
桃霞は——一番最後に、袖へ入った。
歩き方は——普通だった。
呼吸も——乱れていなかった。
汗も——いつも通り、額に滲んでいた。
だが——笑っていなかった。
目だけが——違っていた。
どこを——見ているのか、わからない目だった。
焦点が——結ばれていないような。
そこに——いるのに、そこにいないような。
苺が——最初に、近づいた。
「桃霞ちゃん」
短く——呼んだ。
「はい」
返事は——あった。
普通の——声だった。
だが——そこに、何も乗っていなかった。
言葉の——形だけが、返ってきた。
苺は——そこで気づいた。
(さっきまでの——桃霞ちゃんじゃない)
背筋に——冷たいものが走った。
だが——何を、どう聞けばいいのか、わからなかった。
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莉恋は——衣装の裾を握りしめたまま、桃霞を見ていた。
さっきまで——一緒に歌っていた。
守った——相手だった。
その——横顔に笑いかけたのは、つい数分前のことだった。
だが——今は。
近づけなかった。
理由は——わからなかった。
ただ——足が、動かなかった。
(怖い——)
初めて——抱く感情だった。
自分自身の中にその——感情が生まれたことに、莉恋は驚いた。
(私——桃霞を、怖いと思ってる)
信じられなかった。
だが——確かに、そうだった。
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空が——ペットボトルを、差し出した。
「水——飲む?」
いつも通りの——優しい、声だった。
桃霞は——それを受け取った。
「ありがとうございます」
飲んだ。
キャップを——閉め、戻した。
すべてが——普通だった。
普通——すぎた。
だからこそ——余計に怖かった。
空は——そう感じた。
言葉には——できなかった。
ただ——ペットボトルを受け取った、その手を見つめていた。
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向日葵が——空気を変えようとした。
いつもの——明るさで。
「アンコール——あるよ!頑張ろ、桃霞ちゃん!」
返事が——なかった。
向日葵の——笑顔が、止まった。
一瞬——どうすればいいのか、わからなくなった。
そのまま——立ち尽くした。
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杏は——他の誰よりも早く、それに気づいていた。
運動神経に——優れた、杏だからこそわかる違和感。
桃霞の——立ち方。
重心の——置き方。
呼吸の——リズム。
すべてが——変わっていた。
(これは——戦う——人間の体だ)
杏の——直感が、そう告げていた。
普段の——桃霞とは、明らかに違う何か。
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若葉は——分析しようとしていた。
だが——答えが出てこなかった。
人は——一瞬で変わらない。
そう——理論ではわかっていた。
なのに——桃霞は変わっていた。
その——矛盾が若葉の頭の中を、埋め尽くしていた。
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スタッフたちも——同じだった。
誰も——声を、かけられなかった。
麻衣は——タブレットを握りしめたまま、動けなかった。
田中は——モニターの電源を切ることすら、忘れていた。
藤原は——腕を組んだまま、視線を逸らせずにいた。
エマは——一歩近づこうとして——止まった。
みんな——「大丈夫?」と、聞きたかった。
だが——言えなかった。
空気が——違っていた。
いつもの——桃霞にかける、言葉が通用しない空気だった。
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その中で——ただ一人。
九条冴子だけが——違っていた。
全員の——視線が、桃霞に集まっている中。
九条だけは——腕時計を見ていた。
「アンコールまで——二分」
冷静な——声だった。
そして——桃霞へ、目を向けた。
「アイドルとしての——責任を果たして」
短く——告げた。
桃霞は——その言葉を、受け止めた。
「はい」
一秒——それだけの間だった。
返事だけが——返ってきた。
九条は——それ以上、何も言わなかった。
言葉に——ならない何かが、その沈黙の中にあった。
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麻衣が——心配そうな目で九条を見た。
九条の——表情は変わらなかった。
冷たいまま——だった。
だが——その内側で、何かが鈍く軋んでいるのを。
麻衣だけが——微かに感じ取っていた。
誰も——止められなかった。
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衣装替えが、あった。
いつもなら——笑いながら着替える。
「疲れたー」
「次、可愛い衣装だね」
そんな——軽口が飛び交う時間だった。
だが、今日は——違った。
衣擦れの——音だけが、静かな控室に響いていた。
誰も——喋らなかった。
桃霞だけが——機械のように、着替えていた。
正確な——動き。
無駄のない——動き。
まるで——感情を、持たない、人形のような。
莉恋は——それを、見ていられなかった。
思い切って——桃霞に近づいた。
小さな——声で囁いた。
「莉恋さん——ありがとうございました」
桃霞の方が——先に口を開いた。
莉恋は驚く。
「代わりに——歌って、もらって」
「うん」
莉恋は——短く答えた。
桃霞の——顔を見た。
暗かった。
「桃霞」
名前を——呼んだ。
「はい?」
「笑って」
桃霞は——一瞬、莉恋を見た。
その目に——戸惑いが浮かんだ。
「私——笑っていませんか?」
「――――」
莉恋は——答えられなかった。
答えを——探そうとして、見つからなかった。
ただ——桃霞のその問い自体が。
答えに——なっていた。
自分が——笑っているかどうかすら、わからなくなっている。
それが——今の桃霞だった。
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ステージマネージャーの——声が、控室に響いた。
「アンコールです!」
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歓声が——外から、微かに聞こえてきた。
一万六千人の——声が、まだ鳴り止んでいなかった。
「アンコール——!」
「アンコール——!」
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七人が——袖へ並んだ。
いつもの——ルーティン。
拳を——合わせる儀式。
苺が——拳を、出した。
空も。
向日葵も。
若葉も。
杏も。
莉恋も。
桃霞も——拳を出した。
七つの——拳が重なった。
その中に——桃霞の拳もあった。
形の——上では、七人揃っていた。
だが——一人だけ。
笑っていなかった。
その——沈黙のまま。
七人は——再び、ステージへ向かった。
つづく…
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