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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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93/113

第93話 ピーチピンク・シンドローム

八月二十九日(土) 午後七時五十二分




照明が暗転した。


BGMは止まらなかった。


黒服のスタッフが、負傷者を回収していく。


客席から見えるのは、演出の後片付けだけだった。




拍手が湧いた。


誰も疑わなかった。


だが、ステージの上。




七人だけが、現実を知っていた。




---




照明が戻った。




イントロが始まった。




「ピーチピンク・シンドローム」——桃霞のパートが多い、桃霞センターの曲だった。




桃霞は、センターに立っていた。


だが、動かなかった。


踊れなかった。


歌えなかった。




視線は、自分の手のひらに落ちたままだった。


まだ、骨を打った感触が、そこに残っていた。




苺は横目で、桃霞を見た。




(桃霞ちゃん……)




目に光がなかった。


このままでは、曲を歌えない。




リーダーとして、即座に判断した。




(私が、センターを取る)




一歩、踏み出そうとした。


その瞬間だった。




苺より早く。


莉恋が前へ出た。




ほんの半歩。




苺は驚いた。




(莉恋ちゃん……?)




莉恋は何も言わなかった。


視線だけが苺へ向いた。


一瞬のアイコンタクト。




「任せて」




言葉にはしていなかった。


だが、そう聞こえた。




---




本来なら、桃霞のソロパートだった。


だが、歌い始めたのは莉恋だった。




客席が一瞬、ざわついた。




「あれ?」


「莉恋——?」


「これも、演出?」




戸惑いの声が、あちこちで上がった。


だが、曲は止まらなかった。




莉恋の声が、ホールに響いていった。




苺は、一拍だけ驚いた。


だが、すぐに理解した。




(そうか)


(今は——これしか、ない)




苺は、センターへ出ることをやめた。


代わりに、フォーメーションの変更を優先した。




苺、空、向日葵、若葉、杏、莉恋。




六人が自然に動いた。


桃霞を囲むように。


まるで最初から、決まっていた振付のように。




観客から見れば、新しいフォーメーションだった。




だが、実際には。


桃霞を隠すための、動きだった。




桃霞は、円の中心にいた。




動けなかった。


歌えなかった。


踊れなかった。




六人がその姿を、囲い隠した。




観客からは、桃霞の様子が、完全には見えなくなった。




六人はそれぞれの役割で、ライブを繋いでいった。




莉恋が、桃霞のパートを引き継いだ。




苺は、MC的な煽りを増やした。




「みんな、聞こえてる——?」




客席が応えた。




空は、ハモリを厚くした。


いつもより、声量を上げた。




向日葵はいつも以上に、客席を煽った。




「もっと——!もっと声、出して!」




杏は、ダンスを大きく見せた。


一人分の動きを、埋めるように。




若葉は瞬時に、立ち位置を調整し続けた。


数字ではなく、感覚だけで動いていた。




六人の——それぞれの努力が、一つの流れになっていった。


「全員が、センター」——それが、今日のライブのテーマだった。


その言葉の本当の意味が、今ここで、完成しようとしていた。




一人が欠けても。


残りの六人が、それを埋める。




誰か一人の力に頼らない。


七人全員が、それぞれの場所で輝く。




だが、その円の中心では。


桃霞だけが、取り残されていた。




---




六人の声が、聞こえていた。


歓声も。


照明も。


すべてが、遠かった。




桃霞にだけ、音が届いていなかった。


自分だけ、時間が止まっているようだった。




(私は——なんで、ここに)


(歌わなきゃ——踊らなきゃ)




わかっているのに——体が、動かなかった。




掌の——感触だけが、鮮明だった。


骨の——軋む音が、まだ耳の奥に残っていた。




その時だった。




歌いながら莉恋が、ほんの一瞬桃霞の方を見た。




視線が合った。


莉恋は笑った。




責める笑みではなかった。


怒る笑みでもなかった。


励ます笑みでさえなかった。




ただ——




「大丈夫」




そう、伝えるだけの笑みだった。




桃霞の——胸の奥で、何かが微かに動いた。




言葉には——ならなかった。


だが——その一瞬の笑みだけは。




確かに——届いていた。




---




客席は——盛り上がり続けていた。




「大阪限定——アレンジ!」


「フォーメーション——変わった!」


「莉恋のセンター——熱い!!」




歓声が——次々と上がった。




誰一人——気づいていなかった。


円の——中心で。


一人の——少女が、静かに壊れかけていることに。




このシーンで——本当に、主役だったのは。


桃霞では——なかった。




莉恋だった。




ピンクを——奪われた、少女ではない。


ピンクを——守った、少女。




桃霞を——支えた、少女。




その——姿が、今初めて、はっきりと見えていた。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121

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