第90話 分岐現(ぶんきげん)
桃霞の足が、床を蹴った。
その瞬間。
一人の動作の中に、六つの分岐が生まれた。
桃霞が、自分の前へ踏み込んでくる。
同時に。
神崎の前にも。
高瀬の前にも。
黒田の前にも。
真壁の前にも。
篠原の前にも。
南部の前にも。
六人の前へ——それぞれ、一人ずつ現れていた。
六つの未来が——重なった。
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苺へ伸びる刃。
その軌道の中に——桃霞の右肩が割り込んだ。
体当たりではなかった。
一点に集約された圧。
神崎の構えが崩れる、そのコンマ一秒。
桃霞の手刀が、鎖骨の上へ落ちた。
鈍い音。
骨が軋み砕ける感触が、掌に伝わった。
神崎の体が、くの字に折れた。
ナイフが手を離れ、床へ転がった。
「――ッ」
声にはならなかった。
膝から崩れ落ちた。
苺は、歌いながらそれを見た。
自分を狙っていたナイフが消えた。
代わりに、男が崩れ落ちる姿があった。
喉の奥で、声が詰まった。
歌詞が一瞬遅れた。
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杏の横。
高瀬の太い腕が伸びた瞬間——桃霞の肘が、その内側に滑り込んでいた。
関節の構造を正確に読み切った一撃。
てこの原理。
高瀬の腕が、外側へ大きく捻られた。
「ぐあッ」
肩の関節が抜けた鈍い音。
高瀬の巨体が、後方へ崩れ落ちた。
膝をついた。
腕をだらりと垂らしたまま、動かせなくなった。
杏の足が、止まりかけた。
自分へ向かっていた男の腕が、消えていた。
代わりに膝をつく男の姿。
杏は振り付けを、一拍飛ばした。
すぐに戻した。
顔は笑顔のままだった。
目だけが笑っていなかった。
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空の背後。
黒田の気配が消えた——その直後。
桃霞の足が、軸足を払っていた。
だがそれだけでは、終わらなかった。
崩れた黒田の後頭部の軌道を——桃霞は正確に読んでいた。
床へ落ちるその寸前。
掌底で軽く押し出す一撃。
威力を殺すためではなく——威力を確実に加えるための一撃だった。
黒田の頭が、床に叩きつけられた。
視界が白く飛んだ。
意識が一瞬飛んだ。
そのまま動かなくなった。
空は何も感じなかった。
背後の気配が消えたことにすら、気づいていなかった。
ただ視界の端に、人が倒れる姿が映った。
歌声だけは揺らがなかった。
だが目は、大きく見開かれたままだった。
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莉恋への踏み込み。
六人の中で最速だった。
だがその速さの軌道の途中に——桃霞の手刀がすでに待っていた。
真壁のナイフを持つ手首。
真横から叩き込まれた。
骨の折れる音が、はっきりと響いた。
「……は、が――ッ」
真壁の顔が歪んだ。
ナイフが落ちた。
手首は不自然な角度に、曲がっていた。
膝をつき、もう一方の手で折れた腕を抱えた。
莉恋は、落ちたナイフを視界の端に捉えた。
音まで聞こえた気がした。
センターに立ったまま体が固まりかけた。
自分に言い聞かせるように、奥歯を噛んだ。
震える足で、ステップを踏み直した。
声だけがわずかに震えていた。
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向日葵への最短距離。
その直前。
桃霞の肩が、篠原の胸へめり込んだ。
体重の乗った一撃だった。
篠原の体が後方へ吹き飛んだ。
背中から壁に叩きつけられた。
肋骨の軋む音。
篠原は呼吸が、できなくなった。
「――っ、が……」
あえぐように息を吸おうとした。
うまく吸えなかった。
その場に、ずるずると崩れ落ちた。
向日葵は、自分へ伸びていたはずの手を覚えていた。
その手が今どこにもないことに、気づいた。
「……え」
小さな声が漏れた。
観客には届かない声だった。
笑顔を保とうとして、頬が引きつった。
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若葉の前。
南部のナイフが振り下ろされる寸前。
桃霞の掌底が、南部の胸元へ届いた。
他の五人への一撃と比べれば——わずかに威力が抑えられていた。
だがそれでも十分な一撃だった。
南部の体が後方へ押し出された。
胸の奥で鈍い痛みが広がった。
呼吸が一瞬詰まった。
咳き込みながら後退した。
膝をつきかけ、それでも完全には倒れなかった。
「……っ、け……」
咳と共に体を折った。
ナイフは手放していた。
若葉は状況を分析しようとした。
だが理解が追いつかなかった。
自分の前にいた男が崩れていく。
その理由も過程も見えなかった。
冷静でいるための言葉が、頭の中に浮かばなかった。
初めて何も分析できなかった。
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一秒にも満たない時間。
六つの分岐が、それぞれの標的の前で、確実に終わっていた。
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神崎は、鎖骨を押さえ動けなかった。
高瀬は、肩を垂らしたまま膝をついていた。
黒田は、意識を失い床に伏していた。
真壁は、折れた手首を抱えうずくまっていた。
篠原は、壁際で呼吸を整えられずにいた。
南部だけが、かろうじて体勢を保っていた。
咳き込みながら、それでも立っていた。
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音楽は鳴り続けていた。
客席の歓声も。
七色の光も。
何一つ変わらなかった。
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六人は歌い続けていた。
だが誰の目も、桃霞を追っていた。
苺は歌いながら隣を見た。
杏は笑顔のまま、歯を食いしばっていた。
空は声を保ちながら、目だけを見開いていた。
莉恋はまだ、体の震えを隠せずにいた。
向日葵は頬の笑顔を、固定するのに必死だった。
若葉だけが、唯一分析を諦めていた。
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六人の視線の先。
最初からそこに立っていた、一人の桃霞だけだった。
桃霞は自分の両手を見ていた。
掌にまだ残る六つの感触。
骨の軋む音。
呻き声。
すべてが鮮明に刻まれていた。
(これが——私の)
言葉にはならなかった。
ただ手が微かに震えていた。
音楽は次のフレーズへ進んでいた。
歌わなければならなかった。
だが桃霞の声は。
出てこなかった。
つづく…
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