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このアイドル、どこかおかしい。一人だけ、笑っていない。  作者: Nagiousen


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第89話 始まりの波紋

その——瞬間だった。




桃霞の中で——何かが、目覚めた。




音は——なかった。


光も——なかった。


誰の目にも——見えない。




それでも。


世界のどこかへ。


静かな波紋のような——何かが広がっていった。




---




京都。


住宅街の一角にある、小さな華道教室。




稽古は——すでに終わっていた。


蛍光灯だけが、静かに室内を照らしている。




畳の上には、切り分けられた花材。


花瓶には、完成した作品が整然と並んでいた。




その中央に、一人の女性が立っていた。


二十代半ばほど。




腰まで届く紺色の長い髪。


夜の光を受けるその髪は、黒にも青にも見え、不思議な艶を帯びていた。




白い肌。


切れ長の瞳。


端正すぎる顔立ちは、近寄りがたいほど整っている。




白を基調にした上品な和服。


帯も襟元も、一分の乱れもない。




その姿はまるで、一枚の日本画だった。




女性は一本の枝を持ち上げる。


迷いなく。


鋏を入れる。




本来なら。


絶対に切らないはずの枝だった。




——パチリ。




乾いた音。


枝が畳へ落ちた。




女性の手が止まる。




静かな教室。


その音だけが、異様に大きく響いた。




彼女は、切り口を見つめた。




理解できない。


自分が間違えた。




その事実だけが、目の前にあった。




唇が、わずかに動く。




「……何?」




その名前を知る者は、まだいない。




櫻井 葵。




---




大阪・北新地。




高級クラブ。




落ち着いた照明。


グラスの触れ合う音。


静かなジャズが流れていた。




その店で、一際目を引く女性がいた。




二十代前半。


肩までの黒髪を整えたショートボブ。


整いすぎた顔立ちはどこか妖艶で、同性さえ振り返るほどだった。




身体の線を美しく見せる深い青のドレス。


華奢な首元には、小さなダイヤのネックレスが揺れている。




男たちは自然と、彼女へ視線を向ける。




それが当たり前であるかのように。


彼女は微笑む。




甘く。


柔らかく。




だがその瞳だけは、誰にも心を許していなかった。




ワイングラスを持ち上げる。


細く白い指先。




その瞬間。


力が——消えた。


指先から。


何かが、抜け落ちるように。




「あ……」




グラスが滑る。


赤いワインが宙を舞った。




次の瞬間。


ガシャーン——ッ。


店内に、鋭い音が響く。




会話が止まる。


演奏が止まる。




客の視線が、一斉に集まった。




彼女は割れたグラスを見つめたまま、動かなかった。




こんな失敗をしたことは、一度もない。


その顔に初めて。


戸惑いが浮かんだ。




「……?」




その名前を知る者は、まだいない。




櫻井 撫子。




---




どこか。




窓しかない部屋。


家具は、一つもない。




白い壁。


白い床。


音もない。




時間さえ止まったような空間だった。




そこに、一人の少女が立っていた。




雪より白い長髪。


黒いワンピース。




十六歳ほどの、小柄な身体。




人形のように整った顔。


その瞳には、感情というものが存在していなかった。




少女は、ずっと窓の外を見ていた。




いや。


見ていたのではない。


ただ、そこに立っていた。




その少女が。


初めて。


ゆっくりと空を見上げる。




長い沈黙。




唇だけが動いた。




「始まった」




その声には。




喜びも。


驚きも。


恐怖も。




何もなかった。




ただ。


世界の終わりを知っている者だけが口にするような、静かな一言だった。




その名前を知る者は、まだいない。




櫻井 朧。




---




大阪城ホールで生まれた波紋は。




誰にも知られないまま。




三人の運命を、静かに動かし始めていた。





つづく…




▼登場人物のイラストをpixivで公開中


https://www.pixiv.net/artworks/144793121



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